初日だけはどんなことがあっても遅れてはいけない,と心して出かけたにもかかわらず,到着したら授業はすでにはじまっていました。午後からの授業と聞いていましたので,てっきり午後1時からと思い込んでいました。ですから,少し余裕をもってと考え,12時50分に教室に入りました。ところが,もう,授業ははじまっていました。わたしの頭のなかは,???,なぜ?
身を縮めるようにして,入り口のすぐ近くの椅子にすごすごと座りました。まるで,学生時代に遅刻したときの気分です。すでに,授業はいいペースで進んでいます。N教授には申し訳ないことをしてしまった,と反省しながら急いでノートを取り出して・・・。N教授はちらりと視線を向けただけで,無視して話をつづけてくださり,安心しました。
前期の授業は学部学生さん用の火曜日の授業でしたが,後期はN教授のお薦めで金曜日の大学院生用の授業に変更です。テーマは「医療思想史」。以前から,断片的なお話は伺ったことがあり,どくべつに興味をもっていました。医療の対象となる身体と,スポーツする身体とは,なんとなく近い関係にあるのではないか,と思い描いていたからです。その予感は,はずれてはいませんでした。この二つの身体は,深い深い思考の末の根っこのところでは一つになる,ということが初日の導入のお話でピンときました。これは面白くなるぞ・・・・,と遅刻したことも忘れて夢中で耳を傾けていました。あっという間に授業は終了。密度の濃い時間は短い,と痛感しました。幸せです。
さて,今日のお話のとっておきのお話を少しだけ書いてみたいと思います。
その一つめは,医療の「医」ということばへのN教授のこだわりの話,二つ目は,人間が生きているかぎり「医」はどの時代にもどの地域にも存在したという話,そして三つ目は,「サルの毛繕い」の話,です。
まず,医療の「医」について。この文字の旧漢字は,医とルマタ(漢字のつくり)とその下に酉を加えた三つが一つになったものと,もう一つは酉の代わりに巫を加えたもの(旧漢字でここに表記できないのが残念,近々,漢字ソフトを追加します)。この漢字の成り立ちの説明が,わたしにはことのほか面白くて印象に残りました。医は矢を入れた箱,ルマタは矢を射る人,酉は酒。この読解は,毒を塗った矢を放ち,その毒のついた矢で傷ついた人を酒で洗い流す・・・・これが「医」のもともとの意味だというお話。そして,もう一つの酉の代わりに巫のつく文字は,巫女が祈り(呪術)をささげることによって傷を癒す,というお話。しかも,この旧漢字の二つの医は,癒と同義であったのだ,といいます。ですから,医とは,傷ついたからだ,疲労困憊したからだ,病変の起きたからだ,などに「手当て」をして,からだを癒し,もとのからだにもどすことだ,というお話に痛く感動してしまいました。なるほど,「手当て」して「癒す」ということが「医」の原点であるというわけです。ここから,医療,医学,医師,医術,医業,医薬,などということばが生まれてくるのですが,英語でいえば medicine の一語で終わり。このことが,なにを意味しているのかについては,これからの授業のなかでお話します,とのこと。ウーン,いきなり奥の深いお話です。
二つ目は,人間が生きているかぎり,かならずなんらかのからだの異変は起こるので,それにどのように対応するか(手当てするか)という智恵や経験である「医」は,どの時代にも,どの地域にも存在していた,というご指摘。これは,言われてみればそのとおりですが,「医」は人類の歩みとともに,それぞれ地域や時代の特色を持ちながら蓄積されてきた智恵であり,経験である,とあらためて言われてハッと気づくものがありました。それは,日常の気づきとはまったく別の気づきでした。そうか,「手当て」とはそういうことだったのか,と。「触れる」ことによってはじまる分割/分有。したがって,このことと宗教的なるものの出現とも同根ではないか,と。だとすれば,スポーツ的なるものの始原とも同根ではないか,と。
そして,最後は「サルの毛繕い」のお話。おサルさんがお互いに毛繕いをし合う姿は,わたしたちにもお馴染みの光景です。お互いに,身も心もゆだねて,交代しながら,心地よさそうに毛繕いをしてもらっているときのおサルさんの姿は,それを眺めているわたしたちまで,なんとなく癒される思いがします。そして,このおサルさんの毛繕いのことを考えてみれば,癒しである「医」の原点もみえてくる,というお話でした。そして,おサルさんは温泉にも浸かります。このときの温泉の中に身を沈めて目を細めている姿もまた,癒しそのものであり,「医」の原初の姿が浮かんでくる,という次第です。そうか,「医」の始原は,言ってみれば動物性の世界にまでその根が伸びている,ということがわかってきます。
もちろん,これ以外にも聞かせてもらってよかったなぁ,というお話はてんこもりでした。が,それらは大事に胸のうちに秘めておいて,いずれ,スポーツの始原の問題を考えるところで復元してみたいと思います。
で,授業の最後のところで,ひとこと,ポツリとN教授が仰ったことばがぐさりとわたしのこころに突き刺さりました。それは,この「医」の始原の次元と,こんにちの生命科学が対象とする「医」の次元との,あまりに大きな隔たりがどこからくるのか,この授業をとおして考えてみたいと思います,というN教授のことばでした。そうか,いまや,「手当て」などという発想はこんにちの医療現場からはほど遠いものになってしまっている,この現実がなにを意味しているのか,しっかりと目を向けていこう,とN教授は仰っている,と納得でした。
さて,これからの半年間,至福のときが待っている,と思うと楽しくてこころが浮き立ったきます。もう,8年間もの間,東京医科歯科大学の大学院で講義をしてこられた「医療思想史」のエキスを,わたしは聞かせてもらえるのですから・・・・。
身を縮めるようにして,入り口のすぐ近くの椅子にすごすごと座りました。まるで,学生時代に遅刻したときの気分です。すでに,授業はいいペースで進んでいます。N教授には申し訳ないことをしてしまった,と反省しながら急いでノートを取り出して・・・。N教授はちらりと視線を向けただけで,無視して話をつづけてくださり,安心しました。
前期の授業は学部学生さん用の火曜日の授業でしたが,後期はN教授のお薦めで金曜日の大学院生用の授業に変更です。テーマは「医療思想史」。以前から,断片的なお話は伺ったことがあり,どくべつに興味をもっていました。医療の対象となる身体と,スポーツする身体とは,なんとなく近い関係にあるのではないか,と思い描いていたからです。その予感は,はずれてはいませんでした。この二つの身体は,深い深い思考の末の根っこのところでは一つになる,ということが初日の導入のお話でピンときました。これは面白くなるぞ・・・・,と遅刻したことも忘れて夢中で耳を傾けていました。あっという間に授業は終了。密度の濃い時間は短い,と痛感しました。幸せです。
さて,今日のお話のとっておきのお話を少しだけ書いてみたいと思います。
その一つめは,医療の「医」ということばへのN教授のこだわりの話,二つ目は,人間が生きているかぎり「医」はどの時代にもどの地域にも存在したという話,そして三つ目は,「サルの毛繕い」の話,です。
まず,医療の「医」について。この文字の旧漢字は,医とルマタ(漢字のつくり)とその下に酉を加えた三つが一つになったものと,もう一つは酉の代わりに巫を加えたもの(旧漢字でここに表記できないのが残念,近々,漢字ソフトを追加します)。この漢字の成り立ちの説明が,わたしにはことのほか面白くて印象に残りました。医は矢を入れた箱,ルマタは矢を射る人,酉は酒。この読解は,毒を塗った矢を放ち,その毒のついた矢で傷ついた人を酒で洗い流す・・・・これが「医」のもともとの意味だというお話。そして,もう一つの酉の代わりに巫のつく文字は,巫女が祈り(呪術)をささげることによって傷を癒す,というお話。しかも,この旧漢字の二つの医は,癒と同義であったのだ,といいます。ですから,医とは,傷ついたからだ,疲労困憊したからだ,病変の起きたからだ,などに「手当て」をして,からだを癒し,もとのからだにもどすことだ,というお話に痛く感動してしまいました。なるほど,「手当て」して「癒す」ということが「医」の原点であるというわけです。ここから,医療,医学,医師,医術,医業,医薬,などということばが生まれてくるのですが,英語でいえば medicine の一語で終わり。このことが,なにを意味しているのかについては,これからの授業のなかでお話します,とのこと。ウーン,いきなり奥の深いお話です。
二つ目は,人間が生きているかぎり,かならずなんらかのからだの異変は起こるので,それにどのように対応するか(手当てするか)という智恵や経験である「医」は,どの時代にも,どの地域にも存在していた,というご指摘。これは,言われてみればそのとおりですが,「医」は人類の歩みとともに,それぞれ地域や時代の特色を持ちながら蓄積されてきた智恵であり,経験である,とあらためて言われてハッと気づくものがありました。それは,日常の気づきとはまったく別の気づきでした。そうか,「手当て」とはそういうことだったのか,と。「触れる」ことによってはじまる分割/分有。したがって,このことと宗教的なるものの出現とも同根ではないか,と。だとすれば,スポーツ的なるものの始原とも同根ではないか,と。
そして,最後は「サルの毛繕い」のお話。おサルさんがお互いに毛繕いをし合う姿は,わたしたちにもお馴染みの光景です。お互いに,身も心もゆだねて,交代しながら,心地よさそうに毛繕いをしてもらっているときのおサルさんの姿は,それを眺めているわたしたちまで,なんとなく癒される思いがします。そして,このおサルさんの毛繕いのことを考えてみれば,癒しである「医」の原点もみえてくる,というお話でした。そして,おサルさんは温泉にも浸かります。このときの温泉の中に身を沈めて目を細めている姿もまた,癒しそのものであり,「医」の原初の姿が浮かんでくる,という次第です。そうか,「医」の始原は,言ってみれば動物性の世界にまでその根が伸びている,ということがわかってきます。
もちろん,これ以外にも聞かせてもらってよかったなぁ,というお話はてんこもりでした。が,それらは大事に胸のうちに秘めておいて,いずれ,スポーツの始原の問題を考えるところで復元してみたいと思います。
で,授業の最後のところで,ひとこと,ポツリとN教授が仰ったことばがぐさりとわたしのこころに突き刺さりました。それは,この「医」の始原の次元と,こんにちの生命科学が対象とする「医」の次元との,あまりに大きな隔たりがどこからくるのか,この授業をとおして考えてみたいと思います,というN教授のことばでした。そうか,いまや,「手当て」などという発想はこんにちの医療現場からはほど遠いものになってしまっている,この現実がなにを意味しているのか,しっかりと目を向けていこう,とN教授は仰っている,と納得でした。
さて,これからの半年間,至福のときが待っている,と思うと楽しくてこころが浮き立ったきます。もう,8年間もの間,東京医科歯科大学の大学院で講義をしてこられた「医療思想史」のエキスを,わたしは聞かせてもらえるのですから・・・・。
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