2013年10月17日木曜日

「社会とスポーツの関係は逆転しているが,逆転していないふりをしてスポーツは実践されている」(多木浩二『スポーツを考える』より)。スポーツ批評ノート・その11.

 多木浩二さんが,なぜ,『スポーツを考える』などという本を書いたのか,この本が出た当時(1995年)はなっとくがいかなかった。しかし,つい最近,今福龍太さんから送っていただいた本を読んで,その謎が解けた。

 その本は多木浩二さんの講義録をまとめた『映像の歴史哲学』(今福龍太編,みすず書房,2013年6月刊)である。この本の冒頭に,生まれて初めて見た映画が,小学生のときに見た,レニ・リーフェンシュタールが撮った『オリンピア』(1938年,ベルリン・オリンピックの記録映画)で,強烈なショックを受けた,とある。そして,第5章では,オリンピア──すべてが映像になるために作られた神話,が収められている。しかも,この本のなかの中核的な位置をしめている力作である。言ってみれば,多木さんのその後の人生を決したといっても過言ではない。この本のことについては,いずれ,このブログでもとりあげて論じてみたいと思っている。

 だということがわかると,『スポーツを考える』という本を多木さんが書くことになったとしても,なんの不思議もない。律儀な多木さんのことだから,おそらく,小学生のときに抱いたスポーツの衝撃とその不思議なイメージに対して,みずからその謎解きをした,というのが正直なところかもしれない。いやいや,もっと単純に考えてみても,多木さんが,のちに「映像文化論」に分け入っていく原点がここにあった,というべきだろう。

 いずれにしても,このテクストは多木さんが,かなりの思い入れをこめて書いていることが,全編をとおしてひしひしと伝わってくる。だから,いま,読んでみてもまったく古くなっていないどころか,いまも新鮮で,強烈なメッセージを送り続けている傑作である。

 そんななかから,一つ,これから掘り下げて考えてみたいと思う話題をとりあげてみたい。
 第五章 過剰な身体,のところで(P.131,以下),ミシェル・フーコーのいう「規律・訓練される身体」をとりあげ,ひととおり論評を加えたあとで,現代社会のスポーツの身体は「規律・訓練を離脱する身体」ではないか,と論じている。とても,魅力的な論を展開しているので,多木さんの文章を引用しながら考えてみたい。まず,多木さんは,つぎのように切り出している。

 厳密な言い方ではないが,現在のスポーツのゲームに現れている身体は,すでに,テクノロジーを組み込んだ一種の幻覚の領域に入り込んでいるのではないのか。どんなに筋肉美を誇ろうと,それはかえって幻覚的になり,すでに身体は明瞭な輪郭を失っているのである。身体のこのような状態は,フーコー流の従順な規律・訓練の身体を少なくともイデオロギー的にはもっとも人間的であると見做してきた近代スポーツが,巨大な力に押されて超近代スポーツに発展することのなかで生じてきた。もちろん個々の競技者がそんな身体の変容を促す力を意識しているわけではない。個々の競技者を超えたスポーツという領域が辿る運命であり,それが個々の身体の上に現れているのである。

 かつて,今福龍太さんが「透明な身体」「透けてみえる身体」と表現したことと同じ視線がここに読み取ることができる(『近代スポーツのミッションは終わったか』,平凡社)。それは,近代スポーツから超近代スポーツへと逸脱していくスポーツの運命であり,必然である,というわけだ。この前置きをした上で,多木さんはつぎのように書く。

 それにもかかわらず,スポーツはスポーツとして存在するためには,人間性というすでに不確かになってしまった神話を,自らの核心におかざるをえない。スポーツなるゲームを無償の身体の活動に基礎づける人間学的な思考そのものが,完全な危機的状態において維持されているのである。すでに述べたように,今日のスポーツのさまざまな様相を社会が生みだしたものとして,その原因を社会的要因に求めるのが普通であるが,ほんとうは反対に社会の方がスポーツに可視化され,人間性を顕在化せしめる形式のひとつになっているのである。われわれは社会を実体として,あるいは全体性として捉えうるものとして想定するのではなく,こうしたさまざまな形式によってそのつど経験しているのである。すでに社会とスポーツの関係は逆転しているが,同時に逆転していないふりをしてスポーツは実践されているのである。

 社会とスポーツの関係は,逆転している,と多木さんは断言する。つまり,近代スポーツは近代社会の反映としてとらえることができるけれども,超近代スポーツ(わたしのことばでいえば「後近代スポーツ」)にあっては,もはや社会の方がスポーツによって可視化され,人間性を顕在化せしめる形式のひとつになってしまった,と。にもかかわらず,この逆転が起きていないふりをして,人間性を核心に据えたスポーツが実践されている,という。そこから,さらに多木さんはもう一歩踏み込んで,つぎのように考える。

 こうした根本的な矛盾は,スポーツが暴力を制御してきたゲーム性を解体しないだろうか。暴力がスポーツの領域のどこかから噴出しても不思議でない状態が生じていないだろうか。近年とみに問題になるのは,サッカーのサポーター(フーリガン)の暴力沙汰である。

 というようにして,ノルベルト・エリアスが『文明化の過程』のなかで述べていることに根源的な問いを発している。つまり,前近代まで存在していた暴力を制御することによって近代スポーツというゲームを成立せしめた近代の「文明」が,超近代へと移行するにつれて暴力の制御装置(=近代社会)に破綻をきたしているのではないか,と。しかも,それが人間性という不確かなものを核心に据えなければならない,というスポーツそのものの根本的な矛盾に発しているとしたら・・・,と多木さんは指摘する。

 さて,ここからがわたしの出番である。わたしは,人間性そのものが,動物性から<横滑り>をし,その動物性を否定するところから人間性が立ち上がってきたとするバタイユの理論仮設に依拠すれば,ルールによって制御された暴力(=動物性)は行き場所をうしない,かならずどこかから噴出する,と考える。この仮設は,ジャック・デリダの「脱構築」の理論からも説明が可能である。すなわち,時代が超近代に移行し,まったく新たな超近代スポーツが出現しているにもかかわらず,いまも近代スポーツのルールを護持しようとしている時代錯誤(あるいは,逆転していないふり)を,いかにして超克していくか,がいま問われている喫緊の課題である,と。抑圧・隠蔽された暴力は,いつか,かならず亡霊のように突然,噴出する。

 エリアスから多木さんを通過して,いま,わたしたちはこの地点に立たされている,というのがわたしの認識である。

 とりあえず,ここまでとする。

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