川上未映子の『愛の夢とか』(講談社刊)が第49回谷崎潤一郎賞を受賞した。贈呈式は10月17日。『週刊読書人』(10月25日号)にその記事が載っていて,受賞者挨拶も掲載されている。なるほど,あの作品が谷崎潤一郎賞を受賞したんだ,と密かな隠れファンのひとりとしては嬉しかった。また,一皮剥けたな,と感じていたから。しかし,それが,こういう賞につながるとは思ってもみなかった。だから,逆に,ワンランク・アップしたことを文学界が認めた,このことが嬉しかった。
別に賞をもらえば偉いとか,そういうことを言うつもりはない。しかし,なにも賞をもらえないでいるよりは,このような大きな賞に選ばれることは,意味のあることだと思う。やはり作家にとっては大きな励みになるはずだから。そして,作家によっては,それを契機にして,さらに進化を遂げていくことも少なくないからだ。
わたしの好きな山田詠美という作家は,いまでは受賞していない賞を数えた方が早いほど多くの賞を受けている。ずーっと読み続けているので,その変化もよくわかるのだが,やはり,受賞作は新しい試みにチャレンジしていて,それが成功している。が,その反面では,なんでこんな作品を発表してしまったのだろうか,という作品もないではない。とりまきの編集担当者のなかには業績稼ぎのために,作品のできのよしあしの見境もなく,急いで上梓してしまうこともなくはない。たぶん,そんなタイミングのときには,わたしのようなファンの多くは失望したりしているに違いない。しかし,それもつぎの大作を書くための助走であったり,ステップであったりすることもある。だから,すべての作品が完璧でなければならない,とも思わない。もう,そういう時代は過ぎたのではないか,とわたしは考えている。
その点では,いま人気の村上春樹だってそうだ。やはり,多少の当たり外れはやむを得ないことなのだろうと思う。しかも,好みの問題も絡むので,作品がいいか,悪いかの判定はむつかしい。しばらく時間が経過しないとほんとうの評価が定まらないことも少なくない。個人的には好みの問題の方が優先する。あえて言っておけば,わたし自身は村上春樹はあまり好きではない。でも,あまりに世間がうるさいので,時折,読むこともある。その程度だ。
川上未映子は,たぶん,いま,いろいろの思考実験を試みているのだろうなぁ,と受け止めている。わざわざ慶応大学の哲学教授の門を叩き,思想・哲学の勉強に勤しんだこともある。作家としての思想的基盤を固めたかったのだろうなぁ,ということはよくわかる。し,多くの作家はそれなりに思想・哲学的基盤を構築するために,密かに努力を重ねている。むしろ,思想・哲学がまるでない作家などは,この世界では相手にされないだろう。
だから,川上未映子が思想・哲学を下敷きにして,思考実験をしながら作品に挑むこと自体はなんの問題もない。大いに推奨こそされ,非難されるべき筋合いではないだろう。
が,10月28日の『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に「アイスマン」(ペンネームなのだろうと思う)氏が,川上未映子の新作「ミス・アイスサンドイッチ」(『新潮』11月号)をとりあげて,きびしい評論を展開している。題して「作品の倫理性」。
しかし,残念なことにわずかな字数のなかに,あれもこれも詰めこんでいるので,話がいささか抽象的でわかりにくい。いわゆる「空中戦」を挑んでいるわけだが,その真意がなかなかつたわってこない。短い文章なので,引いておこう。その方が誤解がなくて済む。
川上未映子「ミス・アイスサントイッチ」(『新潮』11月号)には,以前の「ヘヴン」と同様に,顔にネガティヴなしるしを抱えた人物が登場する。前はそれが少年であり主人公だったが,今回は妙齢の女性であり,少年の主人公が彼女に興味を惹(ひ)かれて観察するという,内側からか外側からかの視点の違いがある。
少年はまだ美醜の感覚を世間から刷り込まれる前の状態で,彼女の容貌になにか普通と違うものを感じてはいても,それを「醜」とは必ずしも捉えない。ここには,美の相対性の問題,また美と倫理の連続性の問題などが示されているが,しかし,作品の中ではその思想の骨格部分だけが目立ち,小説としての肉付けと乖離(かいり)してしまっている。物語や文体のつくられた幼稚さがそぐわないのだ。
「ヘヴン」のときもそうだったが,その乖離の原因は,要は人物たちが思想に合わせて作りあげられた人形だからであり,それが特に,迫害の対象となる者である場合には,かえって嗜虐性(しぎゃくせい)さえ喚起してしまう恐ろしさがある。どちらの作品もハッピーエンドを迎えるが,それがこの問題を解消することになりはしないだろう。倫理や美を語るなら,作品としての倫理の問題も突き詰めてほしいものだ。(アイスマン)
という具合である。どうやら,思想が目立ちすぎて,それを補完するだけの小説としての肉付けが足りないこと,「嗜虐性さえ喚起してしまう恐ろしさがある」こと,「倫理や美を語るなら,作品としての倫理」もきちんとすべきこと,の3点が問題だと主張しているように見受けられる。
しかし,川上未映子の作品は最初のデビュー当時から「嗜虐性」に満ちたものであったし,それを喚起させることは彼女の狙いでもあったはずだ。わたしはびっくり仰天して,胸が高鳴ったことをいまも忘れない。そんな小説は滅多にお目にかかれないからだ。それほどに文体も物語も奇想天外だった。そのことを考えると,美醜の二項対立的な思考や近代的な倫理そのものの無意味性を,彼女はあの「つくられた幼稚さ」で,あえて描いてみせたのであって,それこそがこの作品に込めた彼女の作戦であり,戦略であったはずだ。それを上から目線で評論する「アイスマン」氏の意図が,わたしには不可解である。
もし,あえて,言うとすれば,純文学としての体裁を整えろ,と「アイスマン」氏は言いたいのかもしれない。しかし,その純文学そのものをも壊そうとたくらんでいるのが川上未映子という作家だとしたら,「アイスマン」氏もまんまとその術中にはまってしまった,ということになってしまうだろう。どうやら,「アイスマン」氏の思想の問題が,逆に,露呈してしまったというのがわたしの読みであるが,はたして,どんなものなのだろうか。
さらに切り返しておけば・・・・,と考えたことがあるがすでに長くなっているので,今回はここまでとする。
別に賞をもらえば偉いとか,そういうことを言うつもりはない。しかし,なにも賞をもらえないでいるよりは,このような大きな賞に選ばれることは,意味のあることだと思う。やはり作家にとっては大きな励みになるはずだから。そして,作家によっては,それを契機にして,さらに進化を遂げていくことも少なくないからだ。
わたしの好きな山田詠美という作家は,いまでは受賞していない賞を数えた方が早いほど多くの賞を受けている。ずーっと読み続けているので,その変化もよくわかるのだが,やはり,受賞作は新しい試みにチャレンジしていて,それが成功している。が,その反面では,なんでこんな作品を発表してしまったのだろうか,という作品もないではない。とりまきの編集担当者のなかには業績稼ぎのために,作品のできのよしあしの見境もなく,急いで上梓してしまうこともなくはない。たぶん,そんなタイミングのときには,わたしのようなファンの多くは失望したりしているに違いない。しかし,それもつぎの大作を書くための助走であったり,ステップであったりすることもある。だから,すべての作品が完璧でなければならない,とも思わない。もう,そういう時代は過ぎたのではないか,とわたしは考えている。
その点では,いま人気の村上春樹だってそうだ。やはり,多少の当たり外れはやむを得ないことなのだろうと思う。しかも,好みの問題も絡むので,作品がいいか,悪いかの判定はむつかしい。しばらく時間が経過しないとほんとうの評価が定まらないことも少なくない。個人的には好みの問題の方が優先する。あえて言っておけば,わたし自身は村上春樹はあまり好きではない。でも,あまりに世間がうるさいので,時折,読むこともある。その程度だ。
川上未映子は,たぶん,いま,いろいろの思考実験を試みているのだろうなぁ,と受け止めている。わざわざ慶応大学の哲学教授の門を叩き,思想・哲学の勉強に勤しんだこともある。作家としての思想的基盤を固めたかったのだろうなぁ,ということはよくわかる。し,多くの作家はそれなりに思想・哲学的基盤を構築するために,密かに努力を重ねている。むしろ,思想・哲学がまるでない作家などは,この世界では相手にされないだろう。
だから,川上未映子が思想・哲学を下敷きにして,思考実験をしながら作品に挑むこと自体はなんの問題もない。大いに推奨こそされ,非難されるべき筋合いではないだろう。
が,10月28日の『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に「アイスマン」(ペンネームなのだろうと思う)氏が,川上未映子の新作「ミス・アイスサンドイッチ」(『新潮』11月号)をとりあげて,きびしい評論を展開している。題して「作品の倫理性」。
しかし,残念なことにわずかな字数のなかに,あれもこれも詰めこんでいるので,話がいささか抽象的でわかりにくい。いわゆる「空中戦」を挑んでいるわけだが,その真意がなかなかつたわってこない。短い文章なので,引いておこう。その方が誤解がなくて済む。
川上未映子「ミス・アイスサントイッチ」(『新潮』11月号)には,以前の「ヘヴン」と同様に,顔にネガティヴなしるしを抱えた人物が登場する。前はそれが少年であり主人公だったが,今回は妙齢の女性であり,少年の主人公が彼女に興味を惹(ひ)かれて観察するという,内側からか外側からかの視点の違いがある。
少年はまだ美醜の感覚を世間から刷り込まれる前の状態で,彼女の容貌になにか普通と違うものを感じてはいても,それを「醜」とは必ずしも捉えない。ここには,美の相対性の問題,また美と倫理の連続性の問題などが示されているが,しかし,作品の中ではその思想の骨格部分だけが目立ち,小説としての肉付けと乖離(かいり)してしまっている。物語や文体のつくられた幼稚さがそぐわないのだ。
「ヘヴン」のときもそうだったが,その乖離の原因は,要は人物たちが思想に合わせて作りあげられた人形だからであり,それが特に,迫害の対象となる者である場合には,かえって嗜虐性(しぎゃくせい)さえ喚起してしまう恐ろしさがある。どちらの作品もハッピーエンドを迎えるが,それがこの問題を解消することになりはしないだろう。倫理や美を語るなら,作品としての倫理の問題も突き詰めてほしいものだ。(アイスマン)
という具合である。どうやら,思想が目立ちすぎて,それを補完するだけの小説としての肉付けが足りないこと,「嗜虐性さえ喚起してしまう恐ろしさがある」こと,「倫理や美を語るなら,作品としての倫理」もきちんとすべきこと,の3点が問題だと主張しているように見受けられる。
しかし,川上未映子の作品は最初のデビュー当時から「嗜虐性」に満ちたものであったし,それを喚起させることは彼女の狙いでもあったはずだ。わたしはびっくり仰天して,胸が高鳴ったことをいまも忘れない。そんな小説は滅多にお目にかかれないからだ。それほどに文体も物語も奇想天外だった。そのことを考えると,美醜の二項対立的な思考や近代的な倫理そのものの無意味性を,彼女はあの「つくられた幼稚さ」で,あえて描いてみせたのであって,それこそがこの作品に込めた彼女の作戦であり,戦略であったはずだ。それを上から目線で評論する「アイスマン」氏の意図が,わたしには不可解である。
もし,あえて,言うとすれば,純文学としての体裁を整えろ,と「アイスマン」氏は言いたいのかもしれない。しかし,その純文学そのものをも壊そうとたくらんでいるのが川上未映子という作家だとしたら,「アイスマン」氏もまんまとその術中にはまってしまった,ということになってしまうだろう。どうやら,「アイスマン」氏の思想の問題が,逆に,露呈してしまったというのがわたしの読みであるが,はたして,どんなものなのだろうか。
さらに切り返しておけば・・・・,と考えたことがあるがすでに長くなっているので,今回はここまでとする。
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