2013年10月15日火曜日

多木浩二著『スポーツを考える──身体・資本・ナショナリズム』(ちくま新書)を再読。スポーツ批評ノート・その10.

 スポーツを「批評」するということはどういうことなのか,とこのところ考えつづけている。考えつつ原稿を書いている。たとえば,「太極拳」を批評する,とはどういうことなのか,と。実際にその「批評」を書いてみる。いま,イメージしている程度には,なんとか書けていると思う。しかし,書いた自分がいまひとつ納得がいかない。なぜだろう?と考える。

 いま,わたしたちが日常的に目にしているスポーツとは,いったいなんなのか,と。わたしたちが,いま,「日常的に目にしているスポーツ」のほとんどは,テレビの映像をとおしてのものであり,じかにスタジアムで,自分の目でみることの方が圧倒的に少ない。しかも,自分が得ているスポーツ情報も,自分で現場にでかけて行って,自分の目や耳や肌で感じ取っているものではない。そのほとんどは,テレビの映像をとおしてであり,新聞,雑誌などの記事であり,写真である。あるいは,友人がスポーツ観戦してきたときのみやげ話である。

 つまり,受け身でしかない。実際にランナーとして大会に出場したり,定期的に野球なり,サッカーなりをチームをつくってプレイしている人たちは,現代日本の社会にあっては,ごく少数派であることは確かだ。この人たちの感じ取っている「スポーツ」のイメージは,おそらく直接的な体験をとおして形成されているだろう。しかし,それ以外の人びとのイメージする「スポーツ」は,そのほとんどは間接的なものであり,受け身の情報にすぎない。言ってみれば,メディアをとおして得たものばかりである。

 だとすれば,現代(いま)を生きているわたしたちにとって,スポーツとはなにか。スポーツはどこからやってきて,これから,どこに向かって進もうとしているのか。あるいは,スポーツがたどらざるをえない「必然」とはなにか。生身の生きる人間にとってスポーツとはなにか。そこのところの認識が,いま,問われているに違いない。スポーツを「批評」するという営みの一つの拠点はそこにあるのだろう。

 このことにうまく応答できないために,スポーツを批評する原稿が,いまひとつ満足できないでいる。早急になんとかしなくてはならないのだが・・・・。

 そんなことを考えていたら,もう,ずいぶん前に読んだことのある多木浩二さんの『スポーツを考える──身体・資本・ナショナリズム』(ちくま新書,初版は1995年)が脳裏に浮かんできた。あわてて,書庫のなかを探しまわる。

 多木さんは,この本のなかで,ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』のはたした功績と限界を論ずるところから始めている。たとえば,「スポーツがイギリスで発生する過程とイギリスの議会制度の発生とが同時代的かつ同質的な関係にあることを指摘しているのは卓見と言うべきであろう」と称賛した上で,以下のように,その限界を指摘している。

 ・・・・スポーツは今では,エリアスが考えてきた近代スポーツの枠組みをはるかにはみだしてしまった。スポーツは一方では近代固有のナショナリズムを乗り越えているが,他方ではあらたなナショナリズムを生みだしてもいる。スポーツは世界的に異常に肥大化した人間活動のタイプになった。ほとんど毎日なんらかのスポーツが行われ,とくにテニスやゴルフの選手たちは一年中,世界を駆け回っていると言ってもいい。

 と前置きした上で,新たに現象しつつある問題点について,つぎのように切り込んでいく。

 スポーツ大会やスポーツ選手の養成に注ぎこまれる資金は巨大化し,テクノロジーとともに用具は変わり,また計時法の精密化のために,ほとんど意味のない百分の一秒の差異を争う結果を生んだ。当然,異常な身体の発達をまつことになり,トレーニング法が開発されるとともに,ドーピング(薬物による身体の増強)が広範に使用される。──中略──。かつて性差が強調されてきたスポーツの世界にも変化が起こった。今では女性が行わない競技はほとんどなくなった。われわれはいかに差別が行われているかを論じる以上に,女性のスポーツを男性スポーツ同様に扱い,その可能性と問題点を指摘すべき時代に入っている。

 と,まずは,スポーツの現場に起きているエリアス以後(1930年代以後)の問題を指摘し,さらに,この現場に「さまざまな言説」(メディア)が群がることの問題をとりあげ,それらが「資本制のシステム」と分かちがたく結びついていることを多木さんは強調する。そして,「スポーツを問うことは社会を問うことなのである」,とずばりと断言する。

 そして,最後につきのように締めくくっている。

 かりにスポーツを社会の表象と見なすなら,こうした表象の変容はもはやこれまでの身体や文化についての社会的な表象の垣根を超えている。これは資本制のシステムと分かちがたい。あるいは虚構のゲームとしてのスポーツの方が,世界化した資本主義のモデルになっていったのではなかろうか。

 こうした多木さんのご指摘を,もうかれこれ20年も前に読んでいたのに,ほとんど忘れてしまっている。にもかかわらず,わたしはいま,多木さんご指摘の問題系の延長戦上に立ち,必死で,つぎなる「批評」のステージを模索している。たぶん,わたしの無意識のなかで,多木さんの蒔かれた種が芽ぶき,枝葉を繁らせ,それがあたかもわたしのオリジナルな発想であるかのごとき錯覚を起こしているにすぎないのだろう。

 つい最近,雑誌『世界』に書いた拙稿「オリンピックはマネー・ゲームのアリーナか」(「魂ふり」から「商品」に変転するスポーツ)も,いま読み返してみると,まさに,この多木さんのご指摘の延長線上にあることがはっきりしてくる。われながら驚きである。そして,いまや,スポーツは世界を考える上では絶好の素材である,と主張するまでにいたっている。

 問題は,多木さんのご指摘からもう20年が経過しようとしているいま,つぎなる「スポーツ批評」のステージをどのようにして切り開いていくのか,それがわたしたちに課された喫緊の課題である。
しかも,「3・11」を通過したいま,フクシマ原発の放射能は飛び放題,汚染水も垂れ流しのまま,そのさきの展望も得られない前代未聞のきびしい現実を目の当たりにしながら,いまを生きるわたしたちにとって「スポーツとはなにか」と問うことの困難が待ち受けている。しかも,ここを避けてとおることはできないのである。

 だから,太極拳を「批評」することの困難もここにある。この問題に曲がりなりにも自分の答えを用意しないことには,すっきりした原稿は書けないのだ。

 多木さんは,ノルベルト・エリアスの論考を手がかりにしながら,その功績を讃えつつ限界を指摘し,「スポーツとはなにか」と考える。それから20年後のわたしは,多木さんの功績を讃えつつその限界を指摘した上で,みずからの思考を展開しなくてはならない。その意味で,この多木さんのテクストは,まことに得難い手引き書でもある。しばらくは,このテクストを熟読玩味しながら,わたしなりの「批評」の方途を見いだしてみたいと思う。

 ちなみに,多木さんのこのテクストは2012年に第6版を重ねている。いまも,多くの人に読み継がれている証拠である。もう一度,わたしたちの研究者仲間で,このテクストについて徹底的に議論をしなくては・・・・と考えている。

 

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