神戸,奈良,二泊三日の旅からもどってきました。体調もよく,とても充実した時間を過ごすことができました。これはひとえに,よき仲間たちのお蔭です。ありがたいことです。
そのうちの一つを紹介してみましょう。昨日(24日)の夕刻は,恒例(毎年1月の第4土曜日)の奈良・若草山の山焼きを堪能することができました。それも,わたしの定位置の,奈良中探してもこれ以上のところはないという最高の眺めを確保できる場所からです。そこは,かつてわたしが勤務していた大学の,しかも,わたしが仕事場にしていた研究室の庭に等しいような,ベランダに相当する屋上です。
山焼きの開始を告げる打ち上げ花火の音に急かされるようにして,くだんの屋上へ。もう,すでに何人かが屋上を賑わせていました。まずは,毎年,変化する打ち上げ花火の演出を存分に楽しみました。フィナーレを告げる最後の派手な演出の花火が終わると,一瞬,シーンとした静寂が訪れます。この静寂が,わたしはとても好きです。これから点火するぞ,という現場の関係者たちの緊張した雰囲気がそこはかとなく伝わってくるからです。
それから間もなく,若草山に点火する各ポジションから懐中電灯の点滅するサインが発せられます。このサインを合図に,まずは,正面の草原の一番手前の下のライン横一線から点火がはじまります。はじめチョロチョロ,中パッパ,しだいに火勢がでてきて,最後は一気に炎が斜面を駆け上っていきます。毎年,同じことの繰り返しです。が,毎年,その燃え方は違います。その年ごとの芝の情況や気候条件によって変化するからです。
ことしは,とてもいい具合に炎が立ち上がりました。それも,ほとんど演出したとおりにことが運んだようです。はじめはおだやかに燃えはじめ,あちこちで炎が広がりはじめます。しかし,とても安定した,静かで落ち着いた燃え方をしています。そして,徐々に火勢がでてきて,時間差のようにして,あちこちから炎が一気に斜面を駆け上っていきます。
あちこちから歓声があがります。そうした周囲の喧騒をよそに,わたしはひとり意識を集中させて見入っています。すると,なにかに山全体の炎に吸いよせられるような錯覚を覚えます。そして,いつしか常世の国にでも誘われるような気分になってきます。そのうちに,そこはかとなく神々しさを感じはじめ,いい気分です。しばらくは無意識の世界を,まるで夢のように遊んでいます。まさに快感。至福のとき。
祈るともなく祈っています。
こんな経験は初めてでした。というのも,ひとつには,寒さをまったく感じない,春先の温かさすら感じられる気温のせいによるのだろうと思います。いつもですと,屋上に立ったときから寒さとの闘いです。ぶるぶる震えながら,じっと山焼きに眼を向けています。がしかし,ことしはとてもおだやかな日和に恵まれました。風もなし。寒さなし。ですから,とても落ち着いて,こころ静かに山焼きを鑑賞することができました。
長年,山焼きを楽しんできましたが,こんな経験は初めてです。変わったことといえば,去年,一年,身もこころもこれまでにない大きな衝撃を受ける経験をしました。そのせいでしょうか。山焼きを鑑賞しているわたしがまるで別人のようです。単に天候の条件がよかっただけではなさそうです。なにか別の世界を眺めているような不思議な気分でした。しかも,とても心地よいのです。なにかいいことがありそうな,そんな予感。
ことしはよい年になりますように・・・と,もう一度,祈りたい気分です。
サクセスフル・エイジング・・・そんなことを考えながら・・・・。
そのうちの一つを紹介してみましょう。昨日(24日)の夕刻は,恒例(毎年1月の第4土曜日)の奈良・若草山の山焼きを堪能することができました。それも,わたしの定位置の,奈良中探してもこれ以上のところはないという最高の眺めを確保できる場所からです。そこは,かつてわたしが勤務していた大学の,しかも,わたしが仕事場にしていた研究室の庭に等しいような,ベランダに相当する屋上です。
山焼きの開始を告げる打ち上げ花火の音に急かされるようにして,くだんの屋上へ。もう,すでに何人かが屋上を賑わせていました。まずは,毎年,変化する打ち上げ花火の演出を存分に楽しみました。フィナーレを告げる最後の派手な演出の花火が終わると,一瞬,シーンとした静寂が訪れます。この静寂が,わたしはとても好きです。これから点火するぞ,という現場の関係者たちの緊張した雰囲気がそこはかとなく伝わってくるからです。
それから間もなく,若草山に点火する各ポジションから懐中電灯の点滅するサインが発せられます。このサインを合図に,まずは,正面の草原の一番手前の下のライン横一線から点火がはじまります。はじめチョロチョロ,中パッパ,しだいに火勢がでてきて,最後は一気に炎が斜面を駆け上っていきます。毎年,同じことの繰り返しです。が,毎年,その燃え方は違います。その年ごとの芝の情況や気候条件によって変化するからです。
ことしは,とてもいい具合に炎が立ち上がりました。それも,ほとんど演出したとおりにことが運んだようです。はじめはおだやかに燃えはじめ,あちこちで炎が広がりはじめます。しかし,とても安定した,静かで落ち着いた燃え方をしています。そして,徐々に火勢がでてきて,時間差のようにして,あちこちから炎が一気に斜面を駆け上っていきます。
あちこちから歓声があがります。そうした周囲の喧騒をよそに,わたしはひとり意識を集中させて見入っています。すると,なにかに山全体の炎に吸いよせられるような錯覚を覚えます。そして,いつしか常世の国にでも誘われるような気分になってきます。そのうちに,そこはかとなく神々しさを感じはじめ,いい気分です。しばらくは無意識の世界を,まるで夢のように遊んでいます。まさに快感。至福のとき。
祈るともなく祈っています。
こんな経験は初めてでした。というのも,ひとつには,寒さをまったく感じない,春先の温かさすら感じられる気温のせいによるのだろうと思います。いつもですと,屋上に立ったときから寒さとの闘いです。ぶるぶる震えながら,じっと山焼きに眼を向けています。がしかし,ことしはとてもおだやかな日和に恵まれました。風もなし。寒さなし。ですから,とても落ち着いて,こころ静かに山焼きを鑑賞することができました。
長年,山焼きを楽しんできましたが,こんな経験は初めてです。変わったことといえば,去年,一年,身もこころもこれまでにない大きな衝撃を受ける経験をしました。そのせいでしょうか。山焼きを鑑賞しているわたしがまるで別人のようです。単に天候の条件がよかっただけではなさそうです。なにか別の世界を眺めているような不思議な気分でした。しかも,とても心地よいのです。なにかいいことがありそうな,そんな予感。
ことしはよい年になりますように・・・と,もう一度,祈りたい気分です。
サクセスフル・エイジング・・・そんなことを考えながら・・・・。
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