明けまして,おめでとうございます。
昨年はいろいろお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
かっこよく年頭のご挨拶をしたいところですが,残念ながら,それほどの馬力もなくなってきました。加齢にともなう老化現象なのか,それとも病による衰えなのか,あるいは,その両方なのか,ともかく二年前までの馬力はどこかに消え失せてしまいました。この一年で,身もこころも,大きく様変わりをしてしまいました。
人間というものは不思議なものです。自分のことは自分がいちばんよくわかっているつもりでしたが,どっこいそうではありませんでした。いまや,自分というものがどこにあるのか,その面影すら霞んできて,どことなくもやのなかをさまよっているような感じです。しかし,二年前まで見えていたつもりのものの方が,じつは幻であって,いま,見えているぼんやりしたもの,これがおのれのほんとうの姿なのかもしれません。
徐々に自己というものの存在が遠のいていく,この感覚こそが自然の摂理であって,それに逆らってはいけないのではないか,と最近は考えるようになりました。といいますのは,その原因が加齢にあるにしろ,病にあるにしろ,間違いなく幕引きに向けての,きわめて自然な流れにすぎない,とよく納得できるようになったからです。
生まれたときもひとり。死ぬときもひとり。どこから生まれてきたのかもわからないままこの世に生を受け,たぶん,どこともわからない無の世界に帰っていく,この連鎖の鎖のひとつの輪にすぎない,わたしの命。そう思えば気持は軽くなります。命がつきたときこそ,まさに,自然への回帰が完了するとき。自然と一体化すること,これぞ禅仏教の教えるところ。そして,無に帰すること,これもまた『般若心経』が繰り返しくりかえし説く教え。
正月早々,めっそうもない話,とお叱りを受けそうですが,じつは,そうではありません。これは浄土の世界に接近していくためのまっとうな王道なのですから。そして,その心境が,徐々に,徐々に,現実のものとして感じ取られるようになってきた,というわたしにとってはとてもめでたいお話なのですから。
お釈迦様の説いた原始仏教は「死のすすめ」でした。いかに「きれいに」死を迎えるか,これがもともとの仏教の教えです。他者を傷つけたり,うしろめたさを残すことなく,ただ,あるがまま,清く,美しく生きること,これが浄土への道です。死はその通過点。みずからの生と死を肯定的に受け止めること,これぞ哲学でいうところの真・善・美の「善」なるもののほんとうの姿なのではないか,そんなことを考えています。
思い返せば,昨年一年は(精確には2月4日から),突然の大病にはじまり,でも驚異的な回復をみせましたが(主治医の話),その後の抗ガン剤治療に悩まされ,身もこころも大きなダメージを受けることになりました。その結果,ものの見方・考え方も大きく変化し,上に書いたような心境に達することとなりました。
ことしもその延長線上にあります。これからさき,どのような心境の変化が起きるのか,それをじっと見守りたいと思っています。まあ,焦らず,騒がず,おのれのからだとこころに素直に向き合い,マイペースで淡々と生きてみたいと思っています。気張ってみたところで脳のはたらきは間違いなく下降線をたどるだけなのですから。その下降線に逆らうことなく,うまく折り合いをつけていこうと思います。
しかしよくよく考えてみれば,大病をした割には,いいことも多々ありました。これまでに経験したこともないようないい仕事もいただきました。また,思いがけずも,わたしなどには縁の薄い世界で活躍された素晴らしい人との出会いもありました。さらには,これまで思い描いていても叶わなかったいい仕事の依頼もいくつかありました(これから取り組む予定)。ですから,ことしは予想外に楽しみがいっぱいです。
そんなわけですので,まだまだ,そんなにかんたんに惚けているわけにもいきません。いえいえ,神様は惚け防止のためにいろいろと励ましの仕事を授けてくださっているのかもしれません。一度,落とした命だと思って,生き延びられた幸運をこころから言祝ぎ,みずからの励ましにしたいと思っています。
どうぞ,本年もこれまでにも増して,ご鞭撻くださいますよう,年頭にあたりこころからお願い申しあげます。
みなさんも,どうぞ,よい年をお迎えください。そして,充実したいい年になりますように。
ではまた,お元気で。
昨年はいろいろお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
かっこよく年頭のご挨拶をしたいところですが,残念ながら,それほどの馬力もなくなってきました。加齢にともなう老化現象なのか,それとも病による衰えなのか,あるいは,その両方なのか,ともかく二年前までの馬力はどこかに消え失せてしまいました。この一年で,身もこころも,大きく様変わりをしてしまいました。
人間というものは不思議なものです。自分のことは自分がいちばんよくわかっているつもりでしたが,どっこいそうではありませんでした。いまや,自分というものがどこにあるのか,その面影すら霞んできて,どことなくもやのなかをさまよっているような感じです。しかし,二年前まで見えていたつもりのものの方が,じつは幻であって,いま,見えているぼんやりしたもの,これがおのれのほんとうの姿なのかもしれません。
徐々に自己というものの存在が遠のいていく,この感覚こそが自然の摂理であって,それに逆らってはいけないのではないか,と最近は考えるようになりました。といいますのは,その原因が加齢にあるにしろ,病にあるにしろ,間違いなく幕引きに向けての,きわめて自然な流れにすぎない,とよく納得できるようになったからです。
生まれたときもひとり。死ぬときもひとり。どこから生まれてきたのかもわからないままこの世に生を受け,たぶん,どこともわからない無の世界に帰っていく,この連鎖の鎖のひとつの輪にすぎない,わたしの命。そう思えば気持は軽くなります。命がつきたときこそ,まさに,自然への回帰が完了するとき。自然と一体化すること,これぞ禅仏教の教えるところ。そして,無に帰すること,これもまた『般若心経』が繰り返しくりかえし説く教え。
正月早々,めっそうもない話,とお叱りを受けそうですが,じつは,そうではありません。これは浄土の世界に接近していくためのまっとうな王道なのですから。そして,その心境が,徐々に,徐々に,現実のものとして感じ取られるようになってきた,というわたしにとってはとてもめでたいお話なのですから。
お釈迦様の説いた原始仏教は「死のすすめ」でした。いかに「きれいに」死を迎えるか,これがもともとの仏教の教えです。他者を傷つけたり,うしろめたさを残すことなく,ただ,あるがまま,清く,美しく生きること,これが浄土への道です。死はその通過点。みずからの生と死を肯定的に受け止めること,これぞ哲学でいうところの真・善・美の「善」なるもののほんとうの姿なのではないか,そんなことを考えています。
思い返せば,昨年一年は(精確には2月4日から),突然の大病にはじまり,でも驚異的な回復をみせましたが(主治医の話),その後の抗ガン剤治療に悩まされ,身もこころも大きなダメージを受けることになりました。その結果,ものの見方・考え方も大きく変化し,上に書いたような心境に達することとなりました。
ことしもその延長線上にあります。これからさき,どのような心境の変化が起きるのか,それをじっと見守りたいと思っています。まあ,焦らず,騒がず,おのれのからだとこころに素直に向き合い,マイペースで淡々と生きてみたいと思っています。気張ってみたところで脳のはたらきは間違いなく下降線をたどるだけなのですから。その下降線に逆らうことなく,うまく折り合いをつけていこうと思います。
しかしよくよく考えてみれば,大病をした割には,いいことも多々ありました。これまでに経験したこともないようないい仕事もいただきました。また,思いがけずも,わたしなどには縁の薄い世界で活躍された素晴らしい人との出会いもありました。さらには,これまで思い描いていても叶わなかったいい仕事の依頼もいくつかありました(これから取り組む予定)。ですから,ことしは予想外に楽しみがいっぱいです。
そんなわけですので,まだまだ,そんなにかんたんに惚けているわけにもいきません。いえいえ,神様は惚け防止のためにいろいろと励ましの仕事を授けてくださっているのかもしれません。一度,落とした命だと思って,生き延びられた幸運をこころから言祝ぎ,みずからの励ましにしたいと思っています。
どうぞ,本年もこれまでにも増して,ご鞭撻くださいますよう,年頭にあたりこころからお願い申しあげます。
みなさんも,どうぞ,よい年をお迎えください。そして,充実したいい年になりますように。
ではまた,お元気で。
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