すでに,このブログでも書きましたように,12月23日,まる一日かけてたつの市の出雲族に連なる史跡をフィールド・ワークしてきました。神戸市外大の竹谷さんから,たつの市には不思議な神社や地名がいっぱいあると教えられ,いても立ってもいられなくなりました。そこで,竹谷さんを先達に,河童研究者の竹村君(運転手)と3人でフィールド・ワークにでかけました。
結論からいいますと,それは眼からウロコの「衝撃」でした。で,その「衝撃」の中核をなす野見宿禰神社について,今回は限定して,印象を書いておきたいと思います。忘れないうちに。
もう,すでに長い間,野見宿禰という人物の謎について大いなる疑問をいだきつづけ,折をみつけてはその謎解きに挑んできました。しかし,なにせ,野見宿禰といえば,古代史の中でも『日本書紀』の「神話時代」の人物です。文献にはかぎりがあります。そこで,仕方がありませんので,考古遺物を手がかりに,その推理を楽しんでみようと考えてきました。ですから,野見宿禰の謎解きはひとえにフィールド・ワークに頼る以外にはありません。
こうして野見宿禰にまつわる史跡をいろいろ尋ね歩くうちに,徐々に,その存在が大きく感じられるようになっていました。しかし,それでもなお,野見宿禰のイメージはそんなに大きなものではありませんでした。ところが,です。今回の野見宿禰神社を尋ねてみて,そのイメージは一変してしまいました。これは違う,野見宿禰という人物の存在は,こんにちのわたしたちが想像しているものよりも,はるかに大きい,それもとてつもなく大きい,と今回のフィールド・ワークで確信しました。
そのポイントは,野見宿禰の塚(墓)にあります。野見宿禰はこの地で旅の途中にもかかわらず病に倒れ,死を迎えた,と言われています。そして,急遽,この地に野見宿禰の塚(墓)をつくることになりました。この地に塚をつくるということは,この地に縁もゆかりもない人ではない,ということも意味しています。ということは,この地が野見宿禰にとっては塚をつくるに値する,由緒のあるところだったと考えていいでしょう。
その根拠のいくつかのうちに入るものが,土師(はぜ)神社であり,南山天神神社(別名・菅原道真神社)であり,大神神社(現・そうめん神社)であり,古宮天満神社であり,諏訪大明神であり,上富永荒神社であり・・・という具合に出雲族と深い関係をもつと思われる神社が無数に点在しているということです。さらには,土師(はぜ)という地名のひろがりの大きさであり,また,龍野町富永(トミノナガスネヒコとゆかりがあるとわたしは考えています)という地名の,これまたとてつもなく大きな広がりです。そして,その隣には太子町という,これもまた独立した大きなひろがりをもった地名があり,その中心には斑鳩寺がその場を占めています。なぜ,この地にこのような・・・とついつい考えてしまいます。さらには,荒神社(荒神さんを祀った神社)が,これまた無数にこの地のいたるところに集中して散在していることも不思議の一つです。
こういう土地柄についても,これから考えていかなくてはならない重要なテーマの一つです。が,それらはまた追々,わかり次第,書いていきたいと思います。ですので,今回はこの程度の記述にとどめておきましょう。
いささか横道にそれてしまいましたが,ここで問題の核心に入りたいと思います。それは,野見宿禰の死とともに,出雲からも多くの人を動員して,塚づくりに専念したという事実です。そのことは『播磨国風土記』に記述されています。それによりますと,塚をつくるために揖保川から玉石を手わたしで運ぶ人が立ち並び,その光景が壮観であった,といいます。つまり,玉石を運ぶために「野に立つ」人の数が尋常ではなかった,この「野に立つ」が地名の「立野」となり,別の漢字を当てて「龍野」となった,といいます。
しかも,野見宿禰の塚は,揖保川からあまり遠くない山の尾根の中腹につくられています。標高差にして約200mくらいでしょうか。もう少し高いかもしれません。そんな山の中腹まで揖保川の玉石を手わたしで運んだというのです。なかには相当に大きな玉石も含まれています。とてもとても手わたしでは運べない大きさです。ということは,おそらく,修羅にでも乗せて引っ張りあげたに違いありません。それはそれはたいへんな労力です。それが動員できた人物である,ということに注目しておきたいと思います。
そういう玉石が長い参道にもたくさん用いられています。そして,塚の周囲を固める土留めの玉石の数も大きさもはんぱではありません。この塚は発掘された記録がありませんので,塚の内側がどうなっているのかはわかりません。しかし,崇神天皇,垂仁天皇と同時代の塚(古墳)が韓国の慶州(キョンジュ)には無数にあります。そのうちの一つは古墳の内側に入ることができます。それをみますと,玉石と土とが二重・三重に積み上げられて作られています。ひょっとすると,同じ手法でこの塚も作られている可能性があります。
といいますのは,この時代の日本列島と韓半島はとても密接な関係にあって,多くの人物が往来し,多くの文化も移入されたことが知られています。しかも,『日本書紀』によれば,崇神,垂仁の両天皇は身長がとてつもなく高くて大きな人物であった,と記録されています。慶州に,同時代に葬られた大王もまた,その骨の長さからして2mを超える身長だったと推定されています。
古代の大王にとって,身体が巨大である,ということはきわめて重要なポイントになります。野見宿禰もまた,たんに,相撲が強かっただけではなく,巨大な身体であったのではないか,とこれはわたしの推測です。だとすれば,野見宿禰は出雲族にとっては大王にも等しい存在だったのではないか,と思われます。
このことを想像しながら,じつは,もう一方で「トミノナガスネヒコ」のことを念頭に置いています。その名のとおり「ナガスネ」,「脛が長い」人であったことは多くの古代史研究者の認めるところです。つまりは,巨大な身体をした出雲族の大王だった,と。このトミノナガスネヒコの末裔がこの地・たつの市のあたりに落ちのびてきて住みついたとすれば,「富永」という地名が広範囲に広がっていても,なんの不思議もありません。となりますと,トミノナガスネヒコと野見宿禰との関係も無視できなくなってきます。ここには,なにか,大きな謎が秘められているのではないか・・・・と。
さて,この稿はひとまずここまでとします。が,最後にひとこと。野見宿禰神社には社殿はありません。あるのは「塚」だけです。それと,塚からはかなり離れたところに鳥居がひとつあるだけです。ということは,奈良の大神神社との関連も考えなければならない大きなポイントとなってきます。
以下,その2.につづく。
結論からいいますと,それは眼からウロコの「衝撃」でした。で,その「衝撃」の中核をなす野見宿禰神社について,今回は限定して,印象を書いておきたいと思います。忘れないうちに。
もう,すでに長い間,野見宿禰という人物の謎について大いなる疑問をいだきつづけ,折をみつけてはその謎解きに挑んできました。しかし,なにせ,野見宿禰といえば,古代史の中でも『日本書紀』の「神話時代」の人物です。文献にはかぎりがあります。そこで,仕方がありませんので,考古遺物を手がかりに,その推理を楽しんでみようと考えてきました。ですから,野見宿禰の謎解きはひとえにフィールド・ワークに頼る以外にはありません。
こうして野見宿禰にまつわる史跡をいろいろ尋ね歩くうちに,徐々に,その存在が大きく感じられるようになっていました。しかし,それでもなお,野見宿禰のイメージはそんなに大きなものではありませんでした。ところが,です。今回の野見宿禰神社を尋ねてみて,そのイメージは一変してしまいました。これは違う,野見宿禰という人物の存在は,こんにちのわたしたちが想像しているものよりも,はるかに大きい,それもとてつもなく大きい,と今回のフィールド・ワークで確信しました。
そのポイントは,野見宿禰の塚(墓)にあります。野見宿禰はこの地で旅の途中にもかかわらず病に倒れ,死を迎えた,と言われています。そして,急遽,この地に野見宿禰の塚(墓)をつくることになりました。この地に塚をつくるということは,この地に縁もゆかりもない人ではない,ということも意味しています。ということは,この地が野見宿禰にとっては塚をつくるに値する,由緒のあるところだったと考えていいでしょう。
その根拠のいくつかのうちに入るものが,土師(はぜ)神社であり,南山天神神社(別名・菅原道真神社)であり,大神神社(現・そうめん神社)であり,古宮天満神社であり,諏訪大明神であり,上富永荒神社であり・・・という具合に出雲族と深い関係をもつと思われる神社が無数に点在しているということです。さらには,土師(はぜ)という地名のひろがりの大きさであり,また,龍野町富永(トミノナガスネヒコとゆかりがあるとわたしは考えています)という地名の,これまたとてつもなく大きな広がりです。そして,その隣には太子町という,これもまた独立した大きなひろがりをもった地名があり,その中心には斑鳩寺がその場を占めています。なぜ,この地にこのような・・・とついつい考えてしまいます。さらには,荒神社(荒神さんを祀った神社)が,これまた無数にこの地のいたるところに集中して散在していることも不思議の一つです。
こういう土地柄についても,これから考えていかなくてはならない重要なテーマの一つです。が,それらはまた追々,わかり次第,書いていきたいと思います。ですので,今回はこの程度の記述にとどめておきましょう。
いささか横道にそれてしまいましたが,ここで問題の核心に入りたいと思います。それは,野見宿禰の死とともに,出雲からも多くの人を動員して,塚づくりに専念したという事実です。そのことは『播磨国風土記』に記述されています。それによりますと,塚をつくるために揖保川から玉石を手わたしで運ぶ人が立ち並び,その光景が壮観であった,といいます。つまり,玉石を運ぶために「野に立つ」人の数が尋常ではなかった,この「野に立つ」が地名の「立野」となり,別の漢字を当てて「龍野」となった,といいます。
しかも,野見宿禰の塚は,揖保川からあまり遠くない山の尾根の中腹につくられています。標高差にして約200mくらいでしょうか。もう少し高いかもしれません。そんな山の中腹まで揖保川の玉石を手わたしで運んだというのです。なかには相当に大きな玉石も含まれています。とてもとても手わたしでは運べない大きさです。ということは,おそらく,修羅にでも乗せて引っ張りあげたに違いありません。それはそれはたいへんな労力です。それが動員できた人物である,ということに注目しておきたいと思います。
野見宿禰の塚よりもかなり下にある展望台からの眺望
といいますのは,この時代の日本列島と韓半島はとても密接な関係にあって,多くの人物が往来し,多くの文化も移入されたことが知られています。しかも,『日本書紀』によれば,崇神,垂仁の両天皇は身長がとてつもなく高くて大きな人物であった,と記録されています。慶州に,同時代に葬られた大王もまた,その骨の長さからして2mを超える身長だったと推定されています。
古代の大王にとって,身体が巨大である,ということはきわめて重要なポイントになります。野見宿禰もまた,たんに,相撲が強かっただけではなく,巨大な身体であったのではないか,とこれはわたしの推測です。だとすれば,野見宿禰は出雲族にとっては大王にも等しい存在だったのではないか,と思われます。
このことを想像しながら,じつは,もう一方で「トミノナガスネヒコ」のことを念頭に置いています。その名のとおり「ナガスネ」,「脛が長い」人であったことは多くの古代史研究者の認めるところです。つまりは,巨大な身体をした出雲族の大王だった,と。このトミノナガスネヒコの末裔がこの地・たつの市のあたりに落ちのびてきて住みついたとすれば,「富永」という地名が広範囲に広がっていても,なんの不思議もありません。となりますと,トミノナガスネヒコと野見宿禰との関係も無視できなくなってきます。ここには,なにか,大きな謎が秘められているのではないか・・・・と。
さて,この稿はひとまずここまでとします。が,最後にひとこと。野見宿禰神社には社殿はありません。あるのは「塚」だけです。それと,塚からはかなり離れたところに鳥居がひとつあるだけです。ということは,奈良の大神神社との関連も考えなければならない大きなポイントとなってきます。
以下,その2.につづく。
0 件のコメント:
コメントを投稿