菅原道真が野見宿禰の末裔であるという蔑視を背景にしたあらぬ冤罪によって右大臣の職を解かれ,太宰府に左遷となった話はよく知られているとおりです。と同時に,その2年後には,やり場のない憤怒のはてに病死した,という話も人びとに強烈な印象を与えることになりました。当時,朝廷のあった京都にあっては人びとの間でその話題がもちきりになったといいます。そして,菅原道真の怨霊が京の都を跋扈しているという噂が飛び交った・・・とも。
そして,それを裏付けるような「できごと」(不祥事)がつぎからつぎへと起きたといいます。人びとは,すわ,菅原道真の怨霊の仕業だ,と騒ぎ立てることになり,ますます人びとを恐れさせることになったといいます。そうした「騒ぎ」が「90年」もつづいたというのです。そして,その威力のあまりの強烈さの前に人びとは膝を屈して「天神さま」と崇め奉ることになった,といいます。その証拠が,全国津々浦々にいたるまで広がる「天神さま」信仰です。天神社,天満宮,天満神社,菅原道真神社,菅原神社,八幡社,牛頭天王社,など枚挙にいとまがないほどです。
その経過(90年間の不祥事)を,馬場あき子の『鬼の研究』(ちくま文庫)が詳細に記しています。ちなみに,90年間もつづいたという不祥事とはどのようなものだったのでしょうか。その具体的な例を『鬼の研究』から引いてみたいと思います。より簡潔に年表風にまとめてみました。
901年 菅原道真,太宰府左遷。
903年2月 病死。
903年夏 雷電となって京の都を襲う。7日間連続の雷雨。清涼殿に落雷がつづく。
909年 左大臣時平(道真左遷の首謀者),急逝。時平の耳から小蛇(道真の変化)。
913年 源光(道真のあとの右大臣),急逝。悩乱状態になり死す。
※この二人の急逝の前後には,京都は豪雨洪水に見舞われ,疫病・凶作に悩まされる。
923年 右大弁公忠,病気でもないのに急死。
923年 時平の娘婿にして皇太子の保明親王,早世。
925年 保明親王のあと立太子した3歳の皇子慶頼王,夭折。
930年 清涼殿に落雷。大納言清貫,焼死。右大臣希世,右近衛の舎人忠包,紀蔭連,も落雷により死す。
936年 時平二男,八条大将保忠,急死。
943年 時平三男,敦忠,早世。
955年 北野に「天満大自在天」を祀る。
※以後も,しばしば内裏で火災が発生。
993年 一条天皇が太政大臣正一位を贈る。
以上です。実際の記述はもっともっと精妙になっています。歌人でもある馬場あき子の文章は,まことに美しく,説得力をもっていますので,興味のある方は,ぜひ,確認してみてください。その一部を引いておきますと,以下のとおりです。
思えば気の遠くなるようなながいながい怨みであった。しかしながら,いささか日本人ばなれのしたような,九十年という何代にもわたる長大,かつ,強烈な憤怒と怨みは,この時すでに道真個人をはなれたものとなっていたといえる。それは,自然の破壊的な力と,生死の偶然との重なりに乗じた,見えざる民衆の憤りであり,道真は雷電に仮託された人格をもって,世の不正義を糾弾する声となりきったのである。道真没後の九十年間において,このような弾劾の神としての雷電への崇拝と信仰は定着していった。そしてこの時期は,同時に鈴鹿山系を中心に盗賊が跳梁し,鬼の足跡が不吉なおびえを施政者に与えた時代であったことも併せて考えねばならないであろう。政治の暴力によって破滅した老右大臣,誠実な儒学者への同情が,氏の長者藤原氏の富裕の専制への憤りに転化するには,さして時間のかからぬほどに,民衆は貧しく苦しんでいたし,そのできる抵抗といったら,不幸な暗い風説に托して,強大なものへの呪詛と憤懣をささやきあうことぐらいであったのだから。
以上です。「天神さま」誕生の背景が手にとるように理解できます。馬場あき子の歌人としての鋭い感性と分析に脱帽です。みごととしかいいようがありません。
このことが確認できたことによって,「天神さま」信仰の経緯がすっきりしました。藤原一族は,その後も権力の座にいつき,その末裔はいまも政財界に君臨しているとも言われています。他方,「天神さま」は,出雲大社と一宮の系譜とはことなる,もうひとつの出雲族の系譜としていまも健在です。いまはともかくとして,古代・中世にあっては,朝廷を支える表の藤原一族と,政治権力とは距離を置いたところで隠然たる勢力を誇る出雲族の,微妙な力関係が存在していたことに,いましばらく注目してみたいと思います。
そのための手がかりが,わたしの場合には「野見宿禰」というわけです。「野見宿禰」遍歴は,これからもっともっと面白くなりそうです。
そして,それを裏付けるような「できごと」(不祥事)がつぎからつぎへと起きたといいます。人びとは,すわ,菅原道真の怨霊の仕業だ,と騒ぎ立てることになり,ますます人びとを恐れさせることになったといいます。そうした「騒ぎ」が「90年」もつづいたというのです。そして,その威力のあまりの強烈さの前に人びとは膝を屈して「天神さま」と崇め奉ることになった,といいます。その証拠が,全国津々浦々にいたるまで広がる「天神さま」信仰です。天神社,天満宮,天満神社,菅原道真神社,菅原神社,八幡社,牛頭天王社,など枚挙にいとまがないほどです。
その経過(90年間の不祥事)を,馬場あき子の『鬼の研究』(ちくま文庫)が詳細に記しています。ちなみに,90年間もつづいたという不祥事とはどのようなものだったのでしょうか。その具体的な例を『鬼の研究』から引いてみたいと思います。より簡潔に年表風にまとめてみました。
901年 菅原道真,太宰府左遷。
903年2月 病死。
903年夏 雷電となって京の都を襲う。7日間連続の雷雨。清涼殿に落雷がつづく。
909年 左大臣時平(道真左遷の首謀者),急逝。時平の耳から小蛇(道真の変化)。
913年 源光(道真のあとの右大臣),急逝。悩乱状態になり死す。
※この二人の急逝の前後には,京都は豪雨洪水に見舞われ,疫病・凶作に悩まされる。
923年 右大弁公忠,病気でもないのに急死。
923年 時平の娘婿にして皇太子の保明親王,早世。
925年 保明親王のあと立太子した3歳の皇子慶頼王,夭折。
930年 清涼殿に落雷。大納言清貫,焼死。右大臣希世,右近衛の舎人忠包,紀蔭連,も落雷により死す。
936年 時平二男,八条大将保忠,急死。
943年 時平三男,敦忠,早世。
955年 北野に「天満大自在天」を祀る。
※以後も,しばしば内裏で火災が発生。
993年 一条天皇が太政大臣正一位を贈る。
以上です。実際の記述はもっともっと精妙になっています。歌人でもある馬場あき子の文章は,まことに美しく,説得力をもっていますので,興味のある方は,ぜひ,確認してみてください。その一部を引いておきますと,以下のとおりです。
思えば気の遠くなるようなながいながい怨みであった。しかしながら,いささか日本人ばなれのしたような,九十年という何代にもわたる長大,かつ,強烈な憤怒と怨みは,この時すでに道真個人をはなれたものとなっていたといえる。それは,自然の破壊的な力と,生死の偶然との重なりに乗じた,見えざる民衆の憤りであり,道真は雷電に仮託された人格をもって,世の不正義を糾弾する声となりきったのである。道真没後の九十年間において,このような弾劾の神としての雷電への崇拝と信仰は定着していった。そしてこの時期は,同時に鈴鹿山系を中心に盗賊が跳梁し,鬼の足跡が不吉なおびえを施政者に与えた時代であったことも併せて考えねばならないであろう。政治の暴力によって破滅した老右大臣,誠実な儒学者への同情が,氏の長者藤原氏の富裕の専制への憤りに転化するには,さして時間のかからぬほどに,民衆は貧しく苦しんでいたし,そのできる抵抗といったら,不幸な暗い風説に托して,強大なものへの呪詛と憤懣をささやきあうことぐらいであったのだから。
以上です。「天神さま」誕生の背景が手にとるように理解できます。馬場あき子の歌人としての鋭い感性と分析に脱帽です。みごととしかいいようがありません。
このことが確認できたことによって,「天神さま」信仰の経緯がすっきりしました。藤原一族は,その後も権力の座にいつき,その末裔はいまも政財界に君臨しているとも言われています。他方,「天神さま」は,出雲大社と一宮の系譜とはことなる,もうひとつの出雲族の系譜としていまも健在です。いまはともかくとして,古代・中世にあっては,朝廷を支える表の藤原一族と,政治権力とは距離を置いたところで隠然たる勢力を誇る出雲族の,微妙な力関係が存在していたことに,いましばらく注目してみたいと思います。
そのための手がかりが,わたしの場合には「野見宿禰」というわけです。「野見宿禰」遍歴は,これからもっともっと面白くなりそうです。
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