野見宿禰とはいったい何者なのか。これが,たつの市の野見宿禰の塚(野見宿禰神社)を前にして立ったときのわたしの印象でした。なにゆえに,これほどの塚が,こんにちまで残されているのか。天皇の古墳ですら,神話時代のものは不明なものが多いというのに。しかも,野見宿禰を祀る神社は全国各地に,驚くほど多く残されているのです。
野見宿禰について広く知られていることは,相撲の元祖であるということと,埴輪を提唱したこと,そして,土師氏を名乗ったこと,の三つくらいなものです。しかも,野見宿禰の相撲は,いまでいうところの相撲ではありません。決闘です。当麻蹴速は「蹴り殺されて」います。その実態は,おそらく垂仁天皇に逆らってまつろわなかった当麻蹴速を野見宿禰が討ち取ったという事績を,相撲に置き換えただけの話だと推測されます。
なのに,野見宿禰が仕えた垂仁天皇よりもその知名度ははるかに高く,しかも,多くの神社として祀られることになったのか。この謎が意味するものはなにか。この謎解きの幻視はふくらむばかりで際限がありません。
そんなことを感じさせるたつの市の野見宿禰神社とはどんな神社なのか,その実態をみてみましょう。まずは,野見宿禰神社というものの位置づけが,この地ではいささか乱れているという点がわたしには気がかりでした。それは,龍野神社にある説明と,野見宿禰神社にある説明とは一致していないのです。
龍野神社は,野見宿禰の塚に登っていく入口に立派な社殿を構えています。しかし,野見宿禰神社は社殿もなにもありません。あるのは,塚だけです。その塚は,龍野神社から山の尾根をかなり登っていったさきにあります。位置関係でいいますと,龍野神社は野見宿禰の塚を守る露払いをしている神社にみえます。しかし,上の写真にもありますように,野見宿禰神社は龍野神社の合祀社だというのです。そのように説明している主体は「龍野史談会」です。
しかし,「霞城文化自然保勝会」による説明はそうではありません。龍野神社については無視です。なにも触れてはいません。つまり,野見宿禰神社は,まったく独立した神社扱いになっています。それもそのはずで,龍野神社は脇坂家の廟であったものを,明治になって神社としただけの話です。つまり,野見宿禰の塚のある山のふもとに脇坂家が廟をつくった,ただ,それだけの話です。言ってしまえば,野見宿禰の威力を借りてそこに廟を建て(文久2年・1862年),それを神社にして(明治8年・1875年),しかも,野見宿禰神社よりも上位に立とうという脇坂家の野望が丸見えです。まことに不自然としかいいようがありません。
では,野見宿禰の塚はどのようなものなのでしょうか。上の写真が塚の前にある門扉です。しかも,この門扉は石でできていて開閉はできません。つまり,ここからさきへは入れない,ということを意味しています。この門扉に彫られている二つの紋は,出雲大社千家氏の家紋です。この石段といい,門扉といいそんなに古いものではないと思われます。がしかし,この石段の周囲から塚全体を囲んでいる玉石は,おそらく塚がつくられた当時のものが積まれていると思われます。
では,この門扉の向こう側はどうなっているのでしょうか。この塚はぐるりと一周できる道がついていますので,裏側にまわってみると,塚の上に登る道がついています。そこを登ってみますと,石でできたどっしりとした祠の裏側にでました。正面にまわってみますと,真ん中に「鏡」が埋め込まれた,ちょっと見たことのない祠でした。そして,その上の部分には不思議な模様が細い線で彫り込まれています。パソコンで拡大してみて,はじめて浮きでてくる程度のものです。この祠もそんなに古いものとは思えません。たぶん,門扉ができたときに一緒に建立されたものと思われます。だとすれば,出雲大社の千家がいまもこの野見宿禰の塚を守っているということなのでしょうか。つまり,いまも出雲大社と直結している,そういう塚だということになります。
さきの門扉のある石段の手前はちょっとした広場になっていて,その周囲を囲む玉垣が並んでいます(上の2枚の写真)。明治・大正時代に活躍した力士や行司が寄進した玉垣が全部で84本あるということです。一本ずつ確かめてみますと,わたしたちにも馴染みのある横綱の名前がずらりと並んでいます。この写真は塚に向かって右側にあるもので,これと対称的に左側にも玉垣が並んでいます。
この写真は,ふもとの龍野神社からの長い参道を登りつめた最後の石段です。ここを詰めれば,さきほどの塚の正面に到着します。この気宇壮大な塚の構えは,実際に歩いてみますと,そこはかとなくわたしのからだやこころにある種の「力」となって,あるなにかを迫ってくるように感じます。それはいったいなんなのだろうか,と考えてしまいます。
奈良・若草山の頂上には,前方後円墳の鶯塚古墳があります。だれの塚なのか諸説がありますが,垂仁天皇の関係者のものではないかとも言われています。だとしたら,あまりにも荒れ放題のままで,迫力も威力も感じられません。
それにひきかえ,野見宿禰の塚は,山の尾根全体を古墳に見立てたかと思わせる,そういう構えをいまも残しています。しかも,荒れることなく,出雲大社の千家によって,威容を保ったままきちんと保存されています。
やはり,野見宿禰は只者ではない,と考えざるをえません。しかも,その末裔が菅原道真であること,そして,天神信仰の恐るべきひろがりと合わせ考えると,ますます,野見宿禰の存在が気になってきます。野見宿禰の実像はひょっとしたら・・・・〇〇〇ではなかろうか,とわたしの幻視はまたまた広がっていきます。
野見宿禰について広く知られていることは,相撲の元祖であるということと,埴輪を提唱したこと,そして,土師氏を名乗ったこと,の三つくらいなものです。しかも,野見宿禰の相撲は,いまでいうところの相撲ではありません。決闘です。当麻蹴速は「蹴り殺されて」います。その実態は,おそらく垂仁天皇に逆らってまつろわなかった当麻蹴速を野見宿禰が討ち取ったという事績を,相撲に置き換えただけの話だと推測されます。
なのに,野見宿禰が仕えた垂仁天皇よりもその知名度ははるかに高く,しかも,多くの神社として祀られることになったのか。この謎が意味するものはなにか。この謎解きの幻視はふくらむばかりで際限がありません。
そんなことを感じさせるたつの市の野見宿禰神社とはどんな神社なのか,その実態をみてみましょう。まずは,野見宿禰神社というものの位置づけが,この地ではいささか乱れているという点がわたしには気がかりでした。それは,龍野神社にある説明と,野見宿禰神社にある説明とは一致していないのです。
龍野神社は,野見宿禰の塚に登っていく入口に立派な社殿を構えています。しかし,野見宿禰神社は社殿もなにもありません。あるのは,塚だけです。その塚は,龍野神社から山の尾根をかなり登っていったさきにあります。位置関係でいいますと,龍野神社は野見宿禰の塚を守る露払いをしている神社にみえます。しかし,上の写真にもありますように,野見宿禰神社は龍野神社の合祀社だというのです。そのように説明している主体は「龍野史談会」です。
この写真は,ふもとの龍野神社からの長い参道を登りつめた最後の石段です。ここを詰めれば,さきほどの塚の正面に到着します。この気宇壮大な塚の構えは,実際に歩いてみますと,そこはかとなくわたしのからだやこころにある種の「力」となって,あるなにかを迫ってくるように感じます。それはいったいなんなのだろうか,と考えてしまいます。
奈良・若草山の頂上には,前方後円墳の鶯塚古墳があります。だれの塚なのか諸説がありますが,垂仁天皇の関係者のものではないかとも言われています。だとしたら,あまりにも荒れ放題のままで,迫力も威力も感じられません。
それにひきかえ,野見宿禰の塚は,山の尾根全体を古墳に見立てたかと思わせる,そういう構えをいまも残しています。しかも,荒れることなく,出雲大社の千家によって,威容を保ったままきちんと保存されています。
やはり,野見宿禰は只者ではない,と考えざるをえません。しかも,その末裔が菅原道真であること,そして,天神信仰の恐るべきひろがりと合わせ考えると,ますます,野見宿禰の存在が気になってきます。野見宿禰の実像はひょっとしたら・・・・〇〇〇ではなかろうか,とわたしの幻視はまたまた広がっていきます。
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