2015年1月5日月曜日

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(『修証義』より)。

 生(しょう)を明(あき)らめ死(し)を明(あき)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)の因縁(いんねん)なり,生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし,但(ただし)生死(しょうじ)即(すなわ)ち涅槃(ねはん)と心得(こころえ)て,生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく,涅槃(ねはん)として欣(ねが)うべきもなし,是時(このとき)初(はじ)めて生死(しょうじ)を離(はな)るる分(ぶん)あり,唯(ただ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)と究尽(ぐうじん)すべし。

 『修証義』の冒頭の部分です。つまり,第一章総序の第一節に相当します。

 2014年は想定外のできごとがあり,一年間,人生についていろいろと考えることが多くありました。からだの大きな変化は,当然のことながら,心にも大きな変化が生じました。その所為でしょうか,『般若心経』の読解・私家版を書いてみたいという思いが強くなってきました。いつかは書いてみたいとは,以前から思っていたことではあります。しかし,これほど強い願望となってきたのは,やはり,昨年の思いがけない体験があったからでしょう。

 そんなことを年初から考えているうちに,ふと,『修証義』のことが脳裏に浮かび,こちらの方が気がかりになってきました。そして,久しぶりに経本を取り出して読んでみました。その冒頭(第一節)を読んだだけで,ガツンと頭をハンマーで叩かれたような衝撃を受けました。こちらの感度の研ぎすまされ方によって,響き方がまったく違ってしまいます。驚きました。若いころから馴染んできた章句なのに・・・・。まったく違う世界が目の前に開けたからです。

 ちなみに,『修証義』は,「しゅしょうぎ」と読みます。意味は,修=修行とはなにか,証=悟りとはなにか,ということを説いた経本,ということです。禅仏教の曹洞宗がとても大事にしているお経です。もともとは,道元さんが書いた『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)があまりに難解なので,その中で説かれている教えの要点を抜粋し,だれが読んでもわかるように書き改めたもの,それが『修証義』だと言われています。このお経は,全部で5章31節から成っています。

 道元さんは『正法眼蔵』の中で「修証一等」(しゅしょういっとう)ということを説いています。このことばの意味は「修行することと悟ることとは一つのことであって,そこに区別はなく,まったく同じことなのだ」ということです。別の言い方をすれば,修行がそのまま悟りであり,悟りがすなわち修行なのだ,ということになります。つまり,修と証は表裏一体だということです。言ってしまえば,無理をしてむつかしい修行をしてもなんの意味もないですよ,修行は悟りのレベルに合わせて行えばいいのですよ,ということです。ああ,こんな世界がみえてきたなぁ,と思うことがそのまま修行なのだ,と。それを裏返せば,修行に入ると,たとえば,坐禅をするとふっと浮かび上がってくる世界が現れる,それがそのまま悟りなのだ,とも。「修証」とはそういうものなのでしょう。ですから,道元は「只管打坐」(しかんたざ)と説きました。「ただ,ひたすら坐禅をしなさい」,と。それが,そのまま修行であり,悟りなのだ,と。

 ですから,『修証義』の冒頭の経文(第一章・第一節)は,「修証一等」にならって,「生死一等」と説いていると解釈していいのではないか,と思います。あとは,この章句を読み取るレシーバーの感度の問題です。このポイントだけはずさなければ,いかように受け止めようと読む人の自由だと思います。それが,すなわち,読む人の「修証」のレベルでもある,ということなのでしょう。

ことしは,折にふれ,『修証義』の世界に遊んでみようと思っています。

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