このブログでは,「スポーツ学」とはなにか,と問いかけながら,最初に「学」としての可能性を考えました。つづいて,その「学」は「人間」とはいかなる存在なのか,そして,その「人間」をどのように理解しようとしているのかを考えました。さらに,具体的に,では「スポーツする人間」とはどういう存在なのか,そして,「スポーツする人間」とはなにを目指しているのかを考えてきました。
その結論は,抽象的な言い方になりますが,「絶対矛盾的自己同一」の実現にある,というところに到達しました。となりますと,では,この「絶対矛盾的自己同一」を実現させるための「スポーツとはなにか」が,わたしたちが考えなくてはならないつぎなるテーマとして登場します。
「スポーツとはなにか」。このテーマはある意味では無限です。ですから,この永遠のテーマを総合的に追求する「学」こそが「スポーツ学」なのだ,と言っていいでしょう。「スポーツ学」とは「スポーツの学」です。したがって,「スポーツ学」が研究対象とする「スポーツ」とはなにか,それがこれから考えていこうとする課題です。
しかし,この課題にたいして真っ正面から応答しようとしますと,何冊もの本が書けるほどの分量になってしまいます。そこで,このブログでは,これまであまり光が当てられてこなかったテーマに絞って考えてみたいと思います。それも詳細にではなく,ごく重要だと思われる中核部分に光を当ててみたいと思います。ですから,これから書かれることは,多くの人びとにとっては意外なこと,想定外のこと,と思われるかもしれません。が,しばらくお付き合いください。
最初のテーマは「スポーツの始原について」です。別の言い方をすれば,スポーツ,あるいは,スポーツ的なるもの,がどのような情況のなかから出現してきたのか,すなわち,スポーツの起源はなにか,を考えてみようということです。
この問題は,このブログでいえば,「人間とはいかなる存在なのか」という問い(その6.)と連動することになります。それは,ヒトが動物の世界から離脱し,人間の世界へと移動したとき,なにが起きたのかという問題です。すなわち,ヒトから人間になるとき,なにが起きたのかという問いとリンクする,ということです。
ここでは,繰り返しの議論はできるだけ回避して,その骨子だけを以下に述べておきたいと思います。
ヒトが動物の世界から<横滑り>(バタイユ)して離脱したとき,ヒトははじめて「理性」(思考,記憶)を獲得し「人間」となります。つまり,「なぜ?」という理由・根拠(reason )を問うようになります。そのときの最大の難関は「他者」の存在に気づいたということです。それと同時に「自己」が意識されるようになります。こうして,「わたし」とその周囲に存在する「他者」との関係を考えるようになります。
こうして,「わたし」の意のままになる「他者」(自然)をわがものとし,生活の基盤を確保していきます。しかし,どうしても意のままにならない「他者」(自然)が存在することに気づきます。なかでもわけのわからない「雷」のような自然現象の前では,原初の人間は,ただ,ただ,怯え,震えるだけです。そして,人間の意のままにはならない,とてつもなく大きな「力」が存在する,と考えるようになります。つまり,畏怖の念の誕生です。
そのうちに「雷」が鳴りはじめたら怯えながらからだを丸めて「祈る」という所作をする人間が登場します。「雷」は一定の時間が経過すると納まります。こうして「祈り」と「雷」との関係が意味をもちはじめます。つまり,祈るとそれに応答する存在(=神)を意識するようになります。こうして「雷」は「神が鳴る」(=かみなり)のだから祈ればいい,という因果関係が定着してきます。
つまり,人間にはどうしようもない,人間を超える「力」をもった存在を意識するようになり,これらを「超越神」としてひとくくりに考えるようになります(合理化)。そうして,これらの「超越神」には「祈り」を捧げればいい,と考えるようになります(儀礼の誕生)。こうして,祈りの儀礼が定着するようになります。と同時に,祈りの儀礼がさまざまに進化していきます。さまざまな礼拝の仕方,舞い踊り,即興詩の吟唱,楽器の演奏,歌唱,相撲(素舞い,力くらべ),祈祷,呪術,祝詞,など。
こうした「祈りの儀礼」のひとつが,古代オリンピアの祭典競技です。古代のギリシア人は,神々の頂点に立つゼウス神を喜ばせる「祈りの儀礼」のひとつとして「スポーツ競技」を取り上げました。これが古代オリンピック競技のはじまりです。
ついでに補足しておきますと,古代ギリシアの四大祭典競技のうち,ピュティアでは即興詩の朗詠(音楽)の競技が,ネメアでは即興舞踊の競技が行われていました。これらは,いずれも「祈りの儀礼」として進化をとげたものばかりです。こうした歌舞音曲(芸能)の起源はすべて「祈りの儀礼」が進化したものです。その中に,人並みはずれた身体能力を発揮する「スポーツ」(古代ギリシアでは「競技」)も加えられていたということです。
つまり,歌も舞踊もスポーツも,古代にあっては芸能であり,いずれも「祈りの儀礼」から進化したものだ,ということです。そして,忘れてはならないことは,これらの芸能のめざすところは「自己を超え出る」こと,つまり「トランス状態」(エクスターズ/憑依状態)に入ることによって,「神」と共振・共鳴することにあった,ということです。こんにちもなお,時折,現出する「スポーツによる熱狂」の源泉はここにあるというわけです。
サッカーのピッチに「神が降臨した」・・・・このスーパー・プレイが出現したときの決まり文句も,じつはこうした背景と通底している,現代の神話です。
スポーツの始原をこのように考えてみますと,こんにち,わたしたちが享受しているスポーツがいかに特殊な文化として変化・変容してきたものであるか,ということが歴然としてきます。となりますと,「スポーツとはなにか」という問いの意味がますます重くなってきます。
というわけで,これからしばらくは「スポーツとはなにか」について,さまざまな断章を切り取ってきて思考を深めていく努力をしてみたいと思います。
その結論は,抽象的な言い方になりますが,「絶対矛盾的自己同一」の実現にある,というところに到達しました。となりますと,では,この「絶対矛盾的自己同一」を実現させるための「スポーツとはなにか」が,わたしたちが考えなくてはならないつぎなるテーマとして登場します。
「スポーツとはなにか」。このテーマはある意味では無限です。ですから,この永遠のテーマを総合的に追求する「学」こそが「スポーツ学」なのだ,と言っていいでしょう。「スポーツ学」とは「スポーツの学」です。したがって,「スポーツ学」が研究対象とする「スポーツ」とはなにか,それがこれから考えていこうとする課題です。
しかし,この課題にたいして真っ正面から応答しようとしますと,何冊もの本が書けるほどの分量になってしまいます。そこで,このブログでは,これまであまり光が当てられてこなかったテーマに絞って考えてみたいと思います。それも詳細にではなく,ごく重要だと思われる中核部分に光を当ててみたいと思います。ですから,これから書かれることは,多くの人びとにとっては意外なこと,想定外のこと,と思われるかもしれません。が,しばらくお付き合いください。
最初のテーマは「スポーツの始原について」です。別の言い方をすれば,スポーツ,あるいは,スポーツ的なるもの,がどのような情況のなかから出現してきたのか,すなわち,スポーツの起源はなにか,を考えてみようということです。
この問題は,このブログでいえば,「人間とはいかなる存在なのか」という問い(その6.)と連動することになります。それは,ヒトが動物の世界から離脱し,人間の世界へと移動したとき,なにが起きたのかという問題です。すなわち,ヒトから人間になるとき,なにが起きたのかという問いとリンクする,ということです。
ここでは,繰り返しの議論はできるだけ回避して,その骨子だけを以下に述べておきたいと思います。
ヒトが動物の世界から<横滑り>(バタイユ)して離脱したとき,ヒトははじめて「理性」(思考,記憶)を獲得し「人間」となります。つまり,「なぜ?」という理由・根拠(reason )を問うようになります。そのときの最大の難関は「他者」の存在に気づいたということです。それと同時に「自己」が意識されるようになります。こうして,「わたし」とその周囲に存在する「他者」との関係を考えるようになります。
こうして,「わたし」の意のままになる「他者」(自然)をわがものとし,生活の基盤を確保していきます。しかし,どうしても意のままにならない「他者」(自然)が存在することに気づきます。なかでもわけのわからない「雷」のような自然現象の前では,原初の人間は,ただ,ただ,怯え,震えるだけです。そして,人間の意のままにはならない,とてつもなく大きな「力」が存在する,と考えるようになります。つまり,畏怖の念の誕生です。
そのうちに「雷」が鳴りはじめたら怯えながらからだを丸めて「祈る」という所作をする人間が登場します。「雷」は一定の時間が経過すると納まります。こうして「祈り」と「雷」との関係が意味をもちはじめます。つまり,祈るとそれに応答する存在(=神)を意識するようになります。こうして「雷」は「神が鳴る」(=かみなり)のだから祈ればいい,という因果関係が定着してきます。
つまり,人間にはどうしようもない,人間を超える「力」をもった存在を意識するようになり,これらを「超越神」としてひとくくりに考えるようになります(合理化)。そうして,これらの「超越神」には「祈り」を捧げればいい,と考えるようになります(儀礼の誕生)。こうして,祈りの儀礼が定着するようになります。と同時に,祈りの儀礼がさまざまに進化していきます。さまざまな礼拝の仕方,舞い踊り,即興詩の吟唱,楽器の演奏,歌唱,相撲(素舞い,力くらべ),祈祷,呪術,祝詞,など。
こうした「祈りの儀礼」のひとつが,古代オリンピアの祭典競技です。古代のギリシア人は,神々の頂点に立つゼウス神を喜ばせる「祈りの儀礼」のひとつとして「スポーツ競技」を取り上げました。これが古代オリンピック競技のはじまりです。
ついでに補足しておきますと,古代ギリシアの四大祭典競技のうち,ピュティアでは即興詩の朗詠(音楽)の競技が,ネメアでは即興舞踊の競技が行われていました。これらは,いずれも「祈りの儀礼」として進化をとげたものばかりです。こうした歌舞音曲(芸能)の起源はすべて「祈りの儀礼」が進化したものです。その中に,人並みはずれた身体能力を発揮する「スポーツ」(古代ギリシアでは「競技」)も加えられていたということです。
つまり,歌も舞踊もスポーツも,古代にあっては芸能であり,いずれも「祈りの儀礼」から進化したものだ,ということです。そして,忘れてはならないことは,これらの芸能のめざすところは「自己を超え出る」こと,つまり「トランス状態」(エクスターズ/憑依状態)に入ることによって,「神」と共振・共鳴することにあった,ということです。こんにちもなお,時折,現出する「スポーツによる熱狂」の源泉はここにあるというわけです。
サッカーのピッチに「神が降臨した」・・・・このスーパー・プレイが出現したときの決まり文句も,じつはこうした背景と通底している,現代の神話です。
スポーツの始原をこのように考えてみますと,こんにち,わたしたちが享受しているスポーツがいかに特殊な文化として変化・変容してきたものであるか,ということが歴然としてきます。となりますと,「スポーツとはなにか」という問いの意味がますます重くなってきます。
というわけで,これからしばらくは「スポーツとはなにか」について,さまざまな断章を切り取ってきて思考を深めていく努力をしてみたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿