相撲のぶつかり稽古のときに上位の力士が胸を出して,下位の力士がぶちかましてくるのを受け止めるときの姿勢。両脚を前後に大きく開いて腰を落として構える。前脚は深く曲げ,上体をその上にしっかりと固定し,後脚を大きくうしろに伸ばしてかかとで踏ん張り,胸を出して「さあ,来い」と構える姿勢。下位の力士は上位の力士の胸に向ってぶちかまし,胸に頭をつけ,もろはずで力一杯に押す。胸を出した力士は,そのままの姿勢を保ちながら,土俵の上をすべるようにしてズルズルと後退する。土俵の俵に後脚がかかったところで,こんどは頭つけている力士を押し返す。腰の構えはそのままで,相手の力士の両腕をはさみつけるようにして,ぐいぐいと押していく。そして,相手の力士の後脚が俵にかかったところで,もう一度,相手力士に押させる。これをくり返す。下位の力士は,あっという間に息が上り,ふらふらになる。こうして意識が朦朧となるまで力を出して,相撲の基本の姿勢を身につける。
このときの胸を出す力士の両脚・腰・上体の構えの姿勢が太極拳のゴンブー(弓歩)の姿勢と同じです,と李自力老師は仰る。相撲の好きなわたしには,とてもわかりやすい説明である。すぐに頭で納得できたので,早速,やってみる。なるほど,この姿勢がゴンブー(弓歩)の決めの姿勢だったのか,とわたしのからだが納得。基本の稽古のときの腕を腰のうしろで組んで,脚だけのゴンブーの稽古はなんとかできるようになる。しかし,ゴンブーの姿勢は,24式のなかにもいろいろのところに組み込まれている。手足を同調させながらのゴンブーは,これまた,別物である。一つひとつ,稽古を重ねていって身につける以外に方法はない。
しかし,わたしたち素人のする太極拳の稽古は,大相撲の稽古場のような激しいものではない。ゴンブーの構えを完全に身につけるまで追い込むほどの時間もかけない。あとは,自分ひとりで稽古をしなさい,ということになる。しかし,ひとり稽古はついつい甘えがでてしまう。適当なところで終わり。だから,なかなか上達しない。みんなで稽古するときに,その場の力を借りて,ゴンブーの構えの姿勢を何回も何回もくり返して覚えるしか方法はない。
つまり,太極拳もまた,自己との闘いなのだ。みずからを律する力のレベルに応じて,ゴンブーの構えの姿勢もできあがってくる。それは,一緒に稽古をしている人たちのゴンブーの構えの姿勢をみれば一目瞭然だ。
だから,李老師はその人に合わせて指導助言をしてくださる。李老師の動きを盗み取るようにして凝視し,動きを分節化し,自分のなかにイメージをつくる。それでも足りないので,DVDをくり返しくり返し眺めて,少しずつ李老師の動きに近いイメージを脳裏に焼き付けていく。
いやはや,こんなに簡単な動きなのに,そして,ゆっくりとしたスロー・モーションなのに,こんなに難しいとは・・・・。太極拳は奥が深い,としみじみ思う。
このときの胸を出す力士の両脚・腰・上体の構えの姿勢が太極拳のゴンブー(弓歩)の姿勢と同じです,と李自力老師は仰る。相撲の好きなわたしには,とてもわかりやすい説明である。すぐに頭で納得できたので,早速,やってみる。なるほど,この姿勢がゴンブー(弓歩)の決めの姿勢だったのか,とわたしのからだが納得。基本の稽古のときの腕を腰のうしろで組んで,脚だけのゴンブーの稽古はなんとかできるようになる。しかし,ゴンブーの姿勢は,24式のなかにもいろいろのところに組み込まれている。手足を同調させながらのゴンブーは,これまた,別物である。一つひとつ,稽古を重ねていって身につける以外に方法はない。
しかし,わたしたち素人のする太極拳の稽古は,大相撲の稽古場のような激しいものではない。ゴンブーの構えを完全に身につけるまで追い込むほどの時間もかけない。あとは,自分ひとりで稽古をしなさい,ということになる。しかし,ひとり稽古はついつい甘えがでてしまう。適当なところで終わり。だから,なかなか上達しない。みんなで稽古するときに,その場の力を借りて,ゴンブーの構えの姿勢を何回も何回もくり返して覚えるしか方法はない。
つまり,太極拳もまた,自己との闘いなのだ。みずからを律する力のレベルに応じて,ゴンブーの構えの姿勢もできあがってくる。それは,一緒に稽古をしている人たちのゴンブーの構えの姿勢をみれば一目瞭然だ。
だから,李老師はその人に合わせて指導助言をしてくださる。李老師の動きを盗み取るようにして凝視し,動きを分節化し,自分のなかにイメージをつくる。それでも足りないので,DVDをくり返しくり返し眺めて,少しずつ李老師の動きに近いイメージを脳裏に焼き付けていく。
いやはや,こんなに簡単な動きなのに,そして,ゆっくりとしたスロー・モーションなのに,こんなに難しいとは・・・・。太極拳は奥が深い,としみじみ思う。
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