2月16日のブログで,「3・11」は後近代のはじまり。新しい学としての「スポートロジー」(Sportology)を立ち上げよう,と書きました。しかし,あまりいい反応がありません。いつものことではありますが,いささか寂しい思いをしています。でも,そこでめげてしまっては男が廃る,とばかりに気合を入れ直して,さらに,もう一歩前に出ようと覚悟を決めました。
「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究紀要『IPHIGENEIA』の2011年版を出そうと編集作業の最終段階のところで,「3・11」に遭遇してしまいました。いっぺんに,それどころの話ではなくなってしまいました。さきゆきがまったく見えなくなってしまい,なにも手につかなくなってしまいました。あれから,もう,一年が経過しようとしています。
この一年間,ほんとうにいろいろのことを考えつづけてきました。まずは,ひとりの生身を生きる人間として,そして,つぎにはスポーツ史・スポーツ文化論の研究者として,いったい,なにが間違っていたのだろうか,と。具体的な仕事としては,「ISC・21」のこんごのあり方もふくめて,これまでの研究活動に誤りがなかったかどうか。
毎月の月例研究会のあり方も,そして,これまで刊行してきた研究紀要の内容についても,一度,原点に立ち返って考えてみなければならない・・・と。しかし,なかなか,明確なイメージが浮かばないまま,おろおろと無為の日々を送っていました。ときが問題を解決するともいいます。そろそろその傷も癒えつつあるのでしょうか,もぞもぞと,新たな情熱が頭をもちあげるようになってきました。
ちょうどタイミングがよかったといえば変ですが,昨年(2011年)は,神戸市外国語大学の前期・後期の集中講義で,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をテクストにして,必死でその読解に取り組みました。そのかなりの部分は,このブログにも公開しましたので,ご記憶の方も多いかと思います。とても,難解な文章ですが,読書百回といいますとおり,くり返しくり返し読み直しているうちに,ある一筋の道がみえてきました。
細かな点については,このブログを検索してみてください。
とにかく,バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして,0(ゼロ)からの再スタートを切ることにしました。つまり,破綻してしまった近代の論理を超克して,新たな論理(後近代の論理)を構築するには,現段階でのわたしの知るかぎりでは,バタイユの『宗教の理論』がもっとも「信」をおくことができる,と納得したからです。
で,気づいてみれば,もう2月も終わろうとしています。じつは,年が明けたころから,ことしこそは研究所の紀要を刊行しようと,その心構えだけはできていました。が,からだが動きません。こんな不思議な経験もはじめてでした。そのからだにようやくエンジンがかかりはじめたのは,つい最近になってのことでした。
そして,今日(27日)になって,頭のなかの靄がスカッと晴れました。よし,これでいこう,という基本方針が決まりました。そして,その覚悟も決めました。それが標題に書いたとおりのことです。
長年,紀要名として用いてきた『IPHIGENEIA』に別れを告げ,それに代わる『スポートロジー』という名前で再スタートを切ろう,と。そして,いま,手元にある原稿をかき集めて,できるだけ早く冊子にしよう,と。
そうと決まれば,あとは走るのみ。不思議なもので,気力も体力もみるみる漲ってきました。ここ数日は,かつての絶好調の時代にもどってきたように思います。
「ISC・21」の新しい紀要名は『スポートロジー』。
特集のタイトルは,「スポーツ学」(Sportology)の思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)を手がかりにして。
この内容は,このブログにわたしが書きつづけてきたものをベースにして,加筆修正したものになる予定。つまり,神戸市外国語大学の集中講義でのたたき台として,わたしが提示したものです。
これを,まずは,「スポートロジー」の思想・哲学的な出発点として,世に問うてみよう,という次第です。その意味では,いま,とても新鮮な気持ちでいる,と同時に,いささか緊張しています。
このほかの,いま,予定されている原稿は,合評『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)と鼎談「現代の能面・Part 2.」(今福龍太,西谷修,稲垣正浩),それに原著論文(松浪稔)です。まだ,整理できていない原稿がほかにもありますが,それらは次号に回そうと考えています。
諸般の事情で,この号に原稿を掲載したいという方は,ご一報ください。相談に乗ります。
ということで,いま,現在の研究所紀要のご報告まで。
4月には刊行したいと考えています。
乞う,ご期待!
「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究紀要『IPHIGENEIA』の2011年版を出そうと編集作業の最終段階のところで,「3・11」に遭遇してしまいました。いっぺんに,それどころの話ではなくなってしまいました。さきゆきがまったく見えなくなってしまい,なにも手につかなくなってしまいました。あれから,もう,一年が経過しようとしています。
この一年間,ほんとうにいろいろのことを考えつづけてきました。まずは,ひとりの生身を生きる人間として,そして,つぎにはスポーツ史・スポーツ文化論の研究者として,いったい,なにが間違っていたのだろうか,と。具体的な仕事としては,「ISC・21」のこんごのあり方もふくめて,これまでの研究活動に誤りがなかったかどうか。
毎月の月例研究会のあり方も,そして,これまで刊行してきた研究紀要の内容についても,一度,原点に立ち返って考えてみなければならない・・・と。しかし,なかなか,明確なイメージが浮かばないまま,おろおろと無為の日々を送っていました。ときが問題を解決するともいいます。そろそろその傷も癒えつつあるのでしょうか,もぞもぞと,新たな情熱が頭をもちあげるようになってきました。
ちょうどタイミングがよかったといえば変ですが,昨年(2011年)は,神戸市外国語大学の前期・後期の集中講義で,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をテクストにして,必死でその読解に取り組みました。そのかなりの部分は,このブログにも公開しましたので,ご記憶の方も多いかと思います。とても,難解な文章ですが,読書百回といいますとおり,くり返しくり返し読み直しているうちに,ある一筋の道がみえてきました。
細かな点については,このブログを検索してみてください。
とにかく,バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして,0(ゼロ)からの再スタートを切ることにしました。つまり,破綻してしまった近代の論理を超克して,新たな論理(後近代の論理)を構築するには,現段階でのわたしの知るかぎりでは,バタイユの『宗教の理論』がもっとも「信」をおくことができる,と納得したからです。
で,気づいてみれば,もう2月も終わろうとしています。じつは,年が明けたころから,ことしこそは研究所の紀要を刊行しようと,その心構えだけはできていました。が,からだが動きません。こんな不思議な経験もはじめてでした。そのからだにようやくエンジンがかかりはじめたのは,つい最近になってのことでした。
そして,今日(27日)になって,頭のなかの靄がスカッと晴れました。よし,これでいこう,という基本方針が決まりました。そして,その覚悟も決めました。それが標題に書いたとおりのことです。
長年,紀要名として用いてきた『IPHIGENEIA』に別れを告げ,それに代わる『スポートロジー』という名前で再スタートを切ろう,と。そして,いま,手元にある原稿をかき集めて,できるだけ早く冊子にしよう,と。
そうと決まれば,あとは走るのみ。不思議なもので,気力も体力もみるみる漲ってきました。ここ数日は,かつての絶好調の時代にもどってきたように思います。
「ISC・21」の新しい紀要名は『スポートロジー』。
特集のタイトルは,「スポーツ学」(Sportology)の思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)を手がかりにして。
この内容は,このブログにわたしが書きつづけてきたものをベースにして,加筆修正したものになる予定。つまり,神戸市外国語大学の集中講義でのたたき台として,わたしが提示したものです。
これを,まずは,「スポートロジー」の思想・哲学的な出発点として,世に問うてみよう,という次第です。その意味では,いま,とても新鮮な気持ちでいる,と同時に,いささか緊張しています。
このほかの,いま,予定されている原稿は,合評『理性の探求』(西谷修著,岩波書店)と鼎談「現代の能面・Part 2.」(今福龍太,西谷修,稲垣正浩),それに原著論文(松浪稔)です。まだ,整理できていない原稿がほかにもありますが,それらは次号に回そうと考えています。
諸般の事情で,この号に原稿を掲載したいという方は,ご一報ください。相談に乗ります。
ということで,いま,現在の研究所紀要のご報告まで。
4月には刊行したいと考えています。
乞う,ご期待!
1 件のコメント:
『Sportlogy』
ぜひ読ませてください。
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