西谷修さんが,東京外国語大学で「超哲学」という授業を展開されているという話は,しばらく前から聞いてはいました。この「超哲学」ということばの響きが,最近になってとてもいい具合に,わたしの耳に入ってくるようになりました。できることなら,もぐり込んで聴講させていただきたい,と強く思うようになってきました。こんどの4月から,本気で通ってみようか,と考えはじめています。
しかし,残念なことに,この「超哲学」という授業をとおして,どのような話をなさっているのかはお尋ねしたことがありません。わたしが勝手に想像しているだけのことなのですが,それでも,とても魅力的な授業がイメージできてしまうから不思議です。
そのむかし木田元さんが「反哲学」という概念を提示され,『反哲学史』なる本まで書いていらっしゃいます。その当時は,なんということを言う人なのだろうか,と半信半疑で読んだものです。しかし,その後,木田さんのハイデガーに関する著作を何冊か夢中になって読むことになり,ようやく「反哲学」の意味がおぼろげながら納得できるようになりました。
わたしの理解によれば,ニーチェによってヨーロッパの伝統的な哲学,すなわち形而上学が痛烈に批判され,その<外>にでて,新たな哲学の方法を立ち上げることが叫ばれるようになりました。このニーチェの主張を真っ正面から受け止め,ニーチェの思想を継承すると宣言して,ハイデガーの哲学が誕生します。この事態をとりあげて,木田さんは「反哲学」という概念を用いて,さらに深いところに思考を掘り下げていった,とわたしは理解しています。
しかし,どういうわけか,木田さんは,ハイデガーを批判的に超克することを目指したジョルジュ・バタイユのことはほとんど無視されました。バタイユは,ハイデガーの思想・哲学が,なにゆえにナチズムに利用されることになってしまったのか,という点に注目し,そこを超克することに力を注ぎました。バタイユは,ハイデガーがニーチェを継承すると宣言したことに対して,「わたしはニーチェを生きる」と宣言し,実践していきます。そうして,オーソドックスな哲学者たちがいまでも忌避するような,バタイユの独特の思想・哲学を展開していきました。それは,バタイユの膨大な著作を一望すれば明らかです。とりわけ,「エロチシズム」に深く踏み込んでいったかれの思考は,形而上学に慣れ親しんだ哲学者にとっては鬼門ですらあるのでしょう。しかし,「エロチシズム」を排除した哲学とは,いったい,どういうことなのか,とわたしなどは逆に考え込んでしまいます。
存在論が,ものの存在から,人間の,血の流れている生身の人間の存在,つまり,存在者へと踏み込んだあたりから,形而上学はもはやなにも語れなくなってしまった,とわたしは理解しています。だとすれば,スポーツする身体や,スポーツする人間についての哲学は,形而上学の<外>に踏み出すしかありません。そのきっかけを与えてくれたのがニーチェだとすれば,ニーチェの思想・哲学に注目しなければなりません。その点,ニーチェが提示したとてもわかりやすい概念があります。それは,『悲劇の誕生』のなかで提示された「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の二つの概念です。
このうちの「ディオニュソス的なるもの」を継承し,さらに,大きな構想で思想・哲学を練り上げたものがバタイユの「エロチシズム」に関する論考だった,とわたしは考えています。ですから,わたしが「スポーツ学」(Sportology)を構築するための哲学的なバック・グラウンドを固めるには,バタイユの思想・哲学がもっとも有効ではないかと,現段階では考えています。
ニーチェを継承したハイデガーが「反哲学」(木田)であるとすれば,ニーチェを生きると宣言したバタイユは「超哲学」の実践者ではないか,とわたしは考えています。
しかし,西谷さんがお考えの「超哲学」がどのようなものであるのかは,わたしはまだ知りません。おそらくは,バタイユから始まって,ブランショやレヴィナスやジャン=リュック・ナンシーを経て,ドグマ人類学の提唱者であるピエール・ルジャンドルにまで射程がのびているのだろうなぁ,と想像はしていますが・・・・。明日,太極拳の稽古でお会いしますので,稽古のあとの「カキフライ・オムライス」の時間にお尋ねしてみたいと思っています。わたしの考える「超哲学」が当たらずといえども遠からずであってくれたら嬉しいなぁ,と胸をときめかせています。
じつは,いま,<ISC・21>の研究紀要『スポートロジー』(創刊号)の編集作業に入っていて,終盤にさしかかっています。その中に,わたしの「研究ノート」を一本加えようと考えています。そのタイトルはつぎのようにしてみたいと考えているのですが,いま,決断できないで迷っているところです。つまり,「超哲学」ということばの使用法について,です。そのタイトルは,つぎのようです。
「スポーツ学」(Sportology)構築のための「超哲学」的アプローチ
──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論
この研究ノートのネタは,このブログの熱心な読者であれば,あっ,あれだな,と推測できると思います。そうです。神戸市外国語大学の集中講義のために準備した講義ノートです。受講する学生さんたちに予習してもらうために,このブログをとおして公開したものです。それを,もう一度,加筆・訂正して,なんとか「研究ノート」に仕上げてみたい,という次第です。
さて,西谷さんがなんと仰るか,明日の太極拳がいまから楽しみです。いささか怖くもありますが・・・・。
しかし,残念なことに,この「超哲学」という授業をとおして,どのような話をなさっているのかはお尋ねしたことがありません。わたしが勝手に想像しているだけのことなのですが,それでも,とても魅力的な授業がイメージできてしまうから不思議です。
そのむかし木田元さんが「反哲学」という概念を提示され,『反哲学史』なる本まで書いていらっしゃいます。その当時は,なんということを言う人なのだろうか,と半信半疑で読んだものです。しかし,その後,木田さんのハイデガーに関する著作を何冊か夢中になって読むことになり,ようやく「反哲学」の意味がおぼろげながら納得できるようになりました。
わたしの理解によれば,ニーチェによってヨーロッパの伝統的な哲学,すなわち形而上学が痛烈に批判され,その<外>にでて,新たな哲学の方法を立ち上げることが叫ばれるようになりました。このニーチェの主張を真っ正面から受け止め,ニーチェの思想を継承すると宣言して,ハイデガーの哲学が誕生します。この事態をとりあげて,木田さんは「反哲学」という概念を用いて,さらに深いところに思考を掘り下げていった,とわたしは理解しています。
しかし,どういうわけか,木田さんは,ハイデガーを批判的に超克することを目指したジョルジュ・バタイユのことはほとんど無視されました。バタイユは,ハイデガーの思想・哲学が,なにゆえにナチズムに利用されることになってしまったのか,という点に注目し,そこを超克することに力を注ぎました。バタイユは,ハイデガーがニーチェを継承すると宣言したことに対して,「わたしはニーチェを生きる」と宣言し,実践していきます。そうして,オーソドックスな哲学者たちがいまでも忌避するような,バタイユの独特の思想・哲学を展開していきました。それは,バタイユの膨大な著作を一望すれば明らかです。とりわけ,「エロチシズム」に深く踏み込んでいったかれの思考は,形而上学に慣れ親しんだ哲学者にとっては鬼門ですらあるのでしょう。しかし,「エロチシズム」を排除した哲学とは,いったい,どういうことなのか,とわたしなどは逆に考え込んでしまいます。
存在論が,ものの存在から,人間の,血の流れている生身の人間の存在,つまり,存在者へと踏み込んだあたりから,形而上学はもはやなにも語れなくなってしまった,とわたしは理解しています。だとすれば,スポーツする身体や,スポーツする人間についての哲学は,形而上学の<外>に踏み出すしかありません。そのきっかけを与えてくれたのがニーチェだとすれば,ニーチェの思想・哲学に注目しなければなりません。その点,ニーチェが提示したとてもわかりやすい概念があります。それは,『悲劇の誕生』のなかで提示された「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の二つの概念です。
このうちの「ディオニュソス的なるもの」を継承し,さらに,大きな構想で思想・哲学を練り上げたものがバタイユの「エロチシズム」に関する論考だった,とわたしは考えています。ですから,わたしが「スポーツ学」(Sportology)を構築するための哲学的なバック・グラウンドを固めるには,バタイユの思想・哲学がもっとも有効ではないかと,現段階では考えています。
ニーチェを継承したハイデガーが「反哲学」(木田)であるとすれば,ニーチェを生きると宣言したバタイユは「超哲学」の実践者ではないか,とわたしは考えています。
しかし,西谷さんがお考えの「超哲学」がどのようなものであるのかは,わたしはまだ知りません。おそらくは,バタイユから始まって,ブランショやレヴィナスやジャン=リュック・ナンシーを経て,ドグマ人類学の提唱者であるピエール・ルジャンドルにまで射程がのびているのだろうなぁ,と想像はしていますが・・・・。明日,太極拳の稽古でお会いしますので,稽古のあとの「カキフライ・オムライス」の時間にお尋ねしてみたいと思っています。わたしの考える「超哲学」が当たらずといえども遠からずであってくれたら嬉しいなぁ,と胸をときめかせています。
じつは,いま,<ISC・21>の研究紀要『スポートロジー』(創刊号)の編集作業に入っていて,終盤にさしかかっています。その中に,わたしの「研究ノート」を一本加えようと考えています。そのタイトルはつぎのようにしてみたいと考えているのですが,いま,決断できないで迷っているところです。つまり,「超哲学」ということばの使用法について,です。そのタイトルは,つぎのようです。
「スポーツ学」(Sportology)構築のための「超哲学」的アプローチ
──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論
この研究ノートのネタは,このブログの熱心な読者であれば,あっ,あれだな,と推測できると思います。そうです。神戸市外国語大学の集中講義のために準備した講義ノートです。受講する学生さんたちに予習してもらうために,このブログをとおして公開したものです。それを,もう一度,加筆・訂正して,なんとか「研究ノート」に仕上げてみたい,という次第です。
さて,西谷さんがなんと仰るか,明日の太極拳がいまから楽しみです。いささか怖くもありますが・・・・。
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