芥川賞作品に,だれが,どのような作品で選ばれるのか,じつは毎回密かに楽しみにしている。だから,『文藝春秋』の芥川賞発表号は欠かさず購入している。それ以外には買ったことはない。ただし,書店で,毎月,手にとってめくってはいる。そして,どんな特集を組み,どんな話題を取り上げているかは,やはり知っておきたいことなので(わたしのとっては),かなりまじめにページをめくって眺めてはいる。
『文藝春秋』3月特別号が,芥川賞発表号になっているので,この号だけは購入した。しかし,そのときは期限のきていた原稿があったので,しばらく,机の横に積んである本の中にまぎれていた。今日は,ちょっとだけわがままを言わせてもらって(ほんとうは,さきに片づけなくてはならない要件があったのだが),芥川賞作品を読むことにした。
今回は,田中真弥さんが,受賞のスピーチで,かなり意図的に審査員の一人であるイシハラシンタロウさんを,ジョークとしてコケにした。これが大受けに受けて,話題を独り占めにしてしまった。こんなことが受賞のスピーチで言えるというのはただものではない,とわたしは直観して,その作品がどんなものなのか楽しみにしていた。
結論からいえば,感動と失望とが相半ばした,というのがわたしのもっとも正直な感想である。その理由は,情況描写(登場人物以外の時空間の描写)は,こんなに美しいことばを羅列して,こんなに懐の深い描写ができる作家として感動したのが一つ,その反面,登場人物の人間そのものの読みの深さという点では,いささか甘い,単純にすぎる,もっと言ってしまえば,人間というものがわかっていない,という不満がわたしには残った。そのために,感動と失望とが交錯する,不思議な作品,というのがわたしの正直な感想である。
「共喰い」という作品のテーマからして,まことに怪しげなものではあるが,内容を読んでみると,まさに「共喰い」以外のなにものでもない。作品の軸になっいるのは,父親と息子が,似た者同士で,セックスをするときに暴力をふるうことによって快感をえる,そういう遺伝子を持ち合わせていることに関する親子の葛藤である。もっと言ってしまえば,息子は父親の相手と交接し,父親は息子の彼女を犯す,だから「共喰い」だというのだ。しかし,そのことによって最後にはとんでもない破局を迎えてしまう。この後半の盛り上がりの描写は,なるほど,芥川賞をもらう作家ならでは・・・という印象をもつ。迫力満点である。
わたしの不満は,この父親と息子をめぐる女性たち,つまり,息子の実の母,そして,義母,息子の彼女,そして,ひたすら男の来訪を待つ女性,この人たちをとおして描かれるべき「人間とはなにか」という根源的な問いと,その描写がほとんど欠落していることに対する失望にある。人間認識についての人生経験がいちじるしく欠落しているのではないか,とこれはわたしの読後の感想である。
それから,慌てて,受賞者インタヴューを読む。そして,芥川賞選評を読む。うーん,と唸ってしまった。ああ,この人は生身の人間との触れ合い,葛藤,ぶつかり合い,悩み苦しみ,というものがほとんどない。すべては,ほんのわずかな実体験と,小説世界を読み込んでえた想像の世界,それだけだ,と。こういう人が,これからどのような作品を書くのか,わたしはあまり期待しない。小さな世界の極限状態を想像力に頼って書くしかない,と思うからだ。
などと,いささか偉そうなことを書いてしまって,ちょっとまずいなぁ,と反省。一瞬,取り消そうかと思ったが,自分が正直に思ったことを書いているのだから,これでいいのだと自分に言い聞かせる。もともと,単なる素人の読解なのだから。
今回の芥川賞の発表を機に,二人の選考委員が辞めるという。いずれもニュースとなって流れているとおり。一人は,石原慎太郎,もう一人は黒井千次。黒井千次は,今回で25年間,50回を機に辞するという。これは一つの見識だろう。しかし,石原慎太郎は,もう,数年前から,芥川賞候補作品にみるべきものはなにもない,とみずからの感性の衰えを棚に上げて,文句ばかり言い続けてきた。だから,辞めて当然,というのがわたしの感想。もはや,若い人たちの書く作品を評価するだけの力はないのだから。
いつものことながら,選考委員による「選評」は,じつに面白い。みんな勝手なことを言って,最終的には自己主張のみ。なぜか自己弁護が多すぎる。そんな中で,ただひとり,山田詠美だけが,候補作品を一つずつ取り上げて,自己の感想をきちんと書いている。しかも,強烈に。というか,ほんとうに感じたことをそのままに。これが「選評」というものなのだろう,とわたしは思う。あとの人は誤魔化した。あるいは,逃げた。お茶を濁した。
その典型は,今回から新しく選考委員に加わった島田雅彦。委員を引き受けるときには,「おれは芥川賞を受賞していないから・・・」とかなんとかいいながら,いそいそと引き受けた。そして,今回の,初の「選評」。その見出しが「人を虚仮にしたっていいじゃないか,小説だもの」。ちょっと面白いと思って読みはじめたら,いつのまにか上から目線の,ご高説を披瀝されている。ああ,やっぱり逃げたな,と思った。この人は格好をつけすぎ。
その点,山田詠美は偉い。5人の候補作品を一つずつ取り上げて,その核心に触れ,いいところはいい,でも,駄目なところは駄目,とはっきり言っている。これが言えるというところに,じつは,山田詠美の作家としての凄さがある。わたしなどは,山田詠美の選評を読んで,候補作品5点,全部読んでみたいと思ったほどだ。いまの選考委員の中では,ただひとり,抜け出ているとわたしは思う。さらには,「島田君,そんなことを言ってちゃ駄目じゃん」という山田詠美の声までも聞こえてくる。この二人は特別の仲良しだから。
『太陽の季節』で鮮烈な作家デヴューを果たした石原慎太郎が,「老兵は消えていくのみ。さらば芥川賞」と書いて,この舞台から消えていく。時代は変わったというべきか,はたまた,生理的な老化現象はいかんともしがたいというべきか。
もうひとりの芥川賞作家となった円城 塔の作品「道化師の蝶』は,とてつもなく複雑な作品らしい。いつか,機会をみつけて読んでみたい。
『文藝春秋』3月特別号が,芥川賞発表号になっているので,この号だけは購入した。しかし,そのときは期限のきていた原稿があったので,しばらく,机の横に積んである本の中にまぎれていた。今日は,ちょっとだけわがままを言わせてもらって(ほんとうは,さきに片づけなくてはならない要件があったのだが),芥川賞作品を読むことにした。
今回は,田中真弥さんが,受賞のスピーチで,かなり意図的に審査員の一人であるイシハラシンタロウさんを,ジョークとしてコケにした。これが大受けに受けて,話題を独り占めにしてしまった。こんなことが受賞のスピーチで言えるというのはただものではない,とわたしは直観して,その作品がどんなものなのか楽しみにしていた。
結論からいえば,感動と失望とが相半ばした,というのがわたしのもっとも正直な感想である。その理由は,情況描写(登場人物以外の時空間の描写)は,こんなに美しいことばを羅列して,こんなに懐の深い描写ができる作家として感動したのが一つ,その反面,登場人物の人間そのものの読みの深さという点では,いささか甘い,単純にすぎる,もっと言ってしまえば,人間というものがわかっていない,という不満がわたしには残った。そのために,感動と失望とが交錯する,不思議な作品,というのがわたしの正直な感想である。
「共喰い」という作品のテーマからして,まことに怪しげなものではあるが,内容を読んでみると,まさに「共喰い」以外のなにものでもない。作品の軸になっいるのは,父親と息子が,似た者同士で,セックスをするときに暴力をふるうことによって快感をえる,そういう遺伝子を持ち合わせていることに関する親子の葛藤である。もっと言ってしまえば,息子は父親の相手と交接し,父親は息子の彼女を犯す,だから「共喰い」だというのだ。しかし,そのことによって最後にはとんでもない破局を迎えてしまう。この後半の盛り上がりの描写は,なるほど,芥川賞をもらう作家ならでは・・・という印象をもつ。迫力満点である。
わたしの不満は,この父親と息子をめぐる女性たち,つまり,息子の実の母,そして,義母,息子の彼女,そして,ひたすら男の来訪を待つ女性,この人たちをとおして描かれるべき「人間とはなにか」という根源的な問いと,その描写がほとんど欠落していることに対する失望にある。人間認識についての人生経験がいちじるしく欠落しているのではないか,とこれはわたしの読後の感想である。
それから,慌てて,受賞者インタヴューを読む。そして,芥川賞選評を読む。うーん,と唸ってしまった。ああ,この人は生身の人間との触れ合い,葛藤,ぶつかり合い,悩み苦しみ,というものがほとんどない。すべては,ほんのわずかな実体験と,小説世界を読み込んでえた想像の世界,それだけだ,と。こういう人が,これからどのような作品を書くのか,わたしはあまり期待しない。小さな世界の極限状態を想像力に頼って書くしかない,と思うからだ。
などと,いささか偉そうなことを書いてしまって,ちょっとまずいなぁ,と反省。一瞬,取り消そうかと思ったが,自分が正直に思ったことを書いているのだから,これでいいのだと自分に言い聞かせる。もともと,単なる素人の読解なのだから。
今回の芥川賞の発表を機に,二人の選考委員が辞めるという。いずれもニュースとなって流れているとおり。一人は,石原慎太郎,もう一人は黒井千次。黒井千次は,今回で25年間,50回を機に辞するという。これは一つの見識だろう。しかし,石原慎太郎は,もう,数年前から,芥川賞候補作品にみるべきものはなにもない,とみずからの感性の衰えを棚に上げて,文句ばかり言い続けてきた。だから,辞めて当然,というのがわたしの感想。もはや,若い人たちの書く作品を評価するだけの力はないのだから。
いつものことながら,選考委員による「選評」は,じつに面白い。みんな勝手なことを言って,最終的には自己主張のみ。なぜか自己弁護が多すぎる。そんな中で,ただひとり,山田詠美だけが,候補作品を一つずつ取り上げて,自己の感想をきちんと書いている。しかも,強烈に。というか,ほんとうに感じたことをそのままに。これが「選評」というものなのだろう,とわたしは思う。あとの人は誤魔化した。あるいは,逃げた。お茶を濁した。
その典型は,今回から新しく選考委員に加わった島田雅彦。委員を引き受けるときには,「おれは芥川賞を受賞していないから・・・」とかなんとかいいながら,いそいそと引き受けた。そして,今回の,初の「選評」。その見出しが「人を虚仮にしたっていいじゃないか,小説だもの」。ちょっと面白いと思って読みはじめたら,いつのまにか上から目線の,ご高説を披瀝されている。ああ,やっぱり逃げたな,と思った。この人は格好をつけすぎ。
その点,山田詠美は偉い。5人の候補作品を一つずつ取り上げて,その核心に触れ,いいところはいい,でも,駄目なところは駄目,とはっきり言っている。これが言えるというところに,じつは,山田詠美の作家としての凄さがある。わたしなどは,山田詠美の選評を読んで,候補作品5点,全部読んでみたいと思ったほどだ。いまの選考委員の中では,ただひとり,抜け出ているとわたしは思う。さらには,「島田君,そんなことを言ってちゃ駄目じゃん」という山田詠美の声までも聞こえてくる。この二人は特別の仲良しだから。
『太陽の季節』で鮮烈な作家デヴューを果たした石原慎太郎が,「老兵は消えていくのみ。さらば芥川賞」と書いて,この舞台から消えていく。時代は変わったというべきか,はたまた,生理的な老化現象はいかんともしがたいというべきか。
もうひとりの芥川賞作家となった円城 塔の作品「道化師の蝶』は,とてつもなく複雑な作品らしい。いつか,機会をみつけて読んでみたい。
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