昨日(11日)の午後,椙山女学園大学(日進キャンパス)で,予定どおり『ショック・ドクトリン』の合評会が行われました。三井悦子さんの司会ではじまり,橋本一径さん,船井廣則さん,井上邦子さんの3人のコメンテーターの読解を手がかりにして,参加者,みんなで議論しました。まずは,驚くほどいろいろの読解があることを知り,とても勉強になりました。
それらの議論のうちのひとつを紹介しておきたいと思います。
それは,第9章「歴史は終った」のか?──ポーランドの危機,中国の虐殺,を取り上げて緻密な読解とコメントを展開してくださった船井廣則さんのパートでの議論です。
船井さんは,まず,冒頭で井上陽水の「限りないもの・・・それが欲望」という『限りない欲望』(1972)の歌の一節を引いて,人間の「欲望」とはいったいなにか,と問いかけた上で,第9章を以下の6つの視点から読解と問題提起をしてくださいました。
1.歴史の終わり
2.天安門事件との関連
3.ポーランドのショック療法
4.ドイツにおける「第三の道」とネオ・リベラリスムス
5.「ネオリベ」はおわったか? 『”経済”を審問する』が答える
6.ドライビング・フォースとしてのメガロサミア
これらのうち,5.「ネオリベ」はおわったか?『”経済”を審問する』が答える,のところで,船井さんはきわめて重要な指摘をしてくださった。当日,配布されたレジュメのなかから引用しておくと,以下のとおりです。
西谷修は同書の中で「市場の法則は「客観的」なのではなく,カール・ポラニーの言うように制度的に作りだしたフィクション。とすれば経済学は科学などではなく,世界を造形するある種の思想を含んでいる。つまり経済学は思想だ。」と,読者の目から鱗を落とさせるフレーズを叫んでいる。また,西谷は別の所でもオバマの「アメリカの原罪」に触れて,「結局アメリカの「自由」というのは,基本的に人を抹消しないと成り立たないもので,アメリカがその原罪を忘れ帳消しにするためには自分の「自由」を世界に広めればよい・・・という衝動からアメリカは免れることができない」と鋭い論理を展開している。
ここには二つの重要なポイントが指摘されています。言うまでもなく,一つは「経済学は思想だ」という指摘であり,もう一つはアメリカの「原罪」と「自由」についての指摘です。後者のアメリカの「原罪」とは,アメリカ立国の前提条件となった先住民を抹殺しなければならなかった歴史過程を意味します。そして,その先住民を排除・抹殺することによってわがものとした移住民のための「自由」,これが,アメリカの求める「自由」にほかなりません。ですから,「テロとの戦い」はその延長線上にある,という次第です。つまり,アメリカの「自由」とは,「テロとの戦い」をとおして,アメリカに反抗する勢力を完全に排除することなしには成立しない,というわけです。
が,ここでの議論で盛り上がったのは,「経済学は思想だ」とする西谷修さんのロジックでした。それに追い打ちをかけるようにして,船井さんはつぎのようにレジュメに書き込んでいます。
6.ドライビング・フォースとしてのメガロサミア
フリードマン主義=自由市場主義の「自由」とは欲望を制限無く開放する自由ではないか。井上陽水の言うように制限のない=限りないものが「欲望」であるなら,制約の取り払われたむき出しの欲望と市場主義とが結び着いたのが新自由主義か。人間が持っている優越願望(megalothymia)の顕現化が根底にありはしないか。
人間をスポーツ現象・行動に向かわせるのも「俺はおまえよりも速い・高い・強い」を達成したい,という優越願望がドライビング・フォースとなっているのでは。とすれば,人間の傾向の一側面をデフォルメしたものとして近代スポーツもネオ・リベラリズムと同根なのか・・・・。たとえば,スポーツの記録の限りない更新。100m走の推定限界値は9秒48。ウサイン・ボルトの北京での記録9秒69。残り余地0秒21。しかし,計測方法や装置の精密化が余地を拡大,記録更新の可能性を引き延ばす。限りないものそれはメガロサミア=欲望=自由?
以上が,船井さんの問題提起です。こういう挑発的な問題提起をされると,議論は一斉に活気づいてきます。そこで取り上げられた話題は多岐にわたりました。たとえば,4月からの中学校での柔道必修化の問題は,目前に迫る大テーマでしたので,さまざまな意見が飛び交いました。そうして,最終的に行き着いたわたしなりの結論は「スポーツに思想を」というものでした。つまり,思想なきスポーツはもはやありえない,と。
スポーツは,もはや,単なる遊びや娯楽ではなくなっています。現代という時代を生きるわたしたちにとっては必要不可欠の文化となっています。しかも,人間の生き方までをも規定する力をもちはじめています。場合によっては,政治や経済よりも大きな影響力をもつにいたっています。にもかかわらず,スポーツには「思想」が欠落しています。
思想なき経済が迷走するのと同様に,思想なきスポーツもまた迷走してしまいます。いま,わたしたちに求められている最大の課題は「思想」ではないか,というところに徐々に話題が集結していきました。司会者のそろそろ終わりに・・・・という発言を振り切って,もう一つだけ,もう一つでけという具合に議論に熱中しているあまり,気がついてみれば,予定時間を30分もオーバーしていました。
「スポーツに思想を」。これが当分のわたしたちの共通の大きな課題として浮上することになりました。いささか遅きに失した感もなきにしもあらず,というところですが,気がついたときが吉日,まずは「隗よりはじめよ」という次第です。
しかし,少しだけ補足をさせていただければ,わたしたちのこの研究会は,じつは,当初から「スポーツに思想を」という大きなテーマをもっていました。しかし,それを全面に押し出すようなプレゼンテーターが少なかった,ということです。その意味では,この『ショック・ドクトリン』合評会は絶妙なタイミングだったと思います。
次回,3月19日(月)には,西谷修さんをゲスト・スピーカーにお迎えして『ショック・ドクトリン』読解に取り組みます。できることなら,フリードマンの新自由主義を標榜した経済学(一般経済学)にたいして,バタイユの目指した「普遍経済学」の位置づけなどのお話がうかがえたらありがたいと思っています。とりわけ,マルセル・モースの『贈与論』と関連させて。そのほかにも,お聞きしたい話は満載です。いまから,とても楽しみにしています。
それらの議論のうちのひとつを紹介しておきたいと思います。
それは,第9章「歴史は終った」のか?──ポーランドの危機,中国の虐殺,を取り上げて緻密な読解とコメントを展開してくださった船井廣則さんのパートでの議論です。
船井さんは,まず,冒頭で井上陽水の「限りないもの・・・それが欲望」という『限りない欲望』(1972)の歌の一節を引いて,人間の「欲望」とはいったいなにか,と問いかけた上で,第9章を以下の6つの視点から読解と問題提起をしてくださいました。
1.歴史の終わり
2.天安門事件との関連
3.ポーランドのショック療法
4.ドイツにおける「第三の道」とネオ・リベラリスムス
5.「ネオリベ」はおわったか? 『”経済”を審問する』が答える
6.ドライビング・フォースとしてのメガロサミア
これらのうち,5.「ネオリベ」はおわったか?『”経済”を審問する』が答える,のところで,船井さんはきわめて重要な指摘をしてくださった。当日,配布されたレジュメのなかから引用しておくと,以下のとおりです。
西谷修は同書の中で「市場の法則は「客観的」なのではなく,カール・ポラニーの言うように制度的に作りだしたフィクション。とすれば経済学は科学などではなく,世界を造形するある種の思想を含んでいる。つまり経済学は思想だ。」と,読者の目から鱗を落とさせるフレーズを叫んでいる。また,西谷は別の所でもオバマの「アメリカの原罪」に触れて,「結局アメリカの「自由」というのは,基本的に人を抹消しないと成り立たないもので,アメリカがその原罪を忘れ帳消しにするためには自分の「自由」を世界に広めればよい・・・という衝動からアメリカは免れることができない」と鋭い論理を展開している。
ここには二つの重要なポイントが指摘されています。言うまでもなく,一つは「経済学は思想だ」という指摘であり,もう一つはアメリカの「原罪」と「自由」についての指摘です。後者のアメリカの「原罪」とは,アメリカ立国の前提条件となった先住民を抹殺しなければならなかった歴史過程を意味します。そして,その先住民を排除・抹殺することによってわがものとした移住民のための「自由」,これが,アメリカの求める「自由」にほかなりません。ですから,「テロとの戦い」はその延長線上にある,という次第です。つまり,アメリカの「自由」とは,「テロとの戦い」をとおして,アメリカに反抗する勢力を完全に排除することなしには成立しない,というわけです。
が,ここでの議論で盛り上がったのは,「経済学は思想だ」とする西谷修さんのロジックでした。それに追い打ちをかけるようにして,船井さんはつぎのようにレジュメに書き込んでいます。
6.ドライビング・フォースとしてのメガロサミア
フリードマン主義=自由市場主義の「自由」とは欲望を制限無く開放する自由ではないか。井上陽水の言うように制限のない=限りないものが「欲望」であるなら,制約の取り払われたむき出しの欲望と市場主義とが結び着いたのが新自由主義か。人間が持っている優越願望(megalothymia)の顕現化が根底にありはしないか。
人間をスポーツ現象・行動に向かわせるのも「俺はおまえよりも速い・高い・強い」を達成したい,という優越願望がドライビング・フォースとなっているのでは。とすれば,人間の傾向の一側面をデフォルメしたものとして近代スポーツもネオ・リベラリズムと同根なのか・・・・。たとえば,スポーツの記録の限りない更新。100m走の推定限界値は9秒48。ウサイン・ボルトの北京での記録9秒69。残り余地0秒21。しかし,計測方法や装置の精密化が余地を拡大,記録更新の可能性を引き延ばす。限りないものそれはメガロサミア=欲望=自由?
以上が,船井さんの問題提起です。こういう挑発的な問題提起をされると,議論は一斉に活気づいてきます。そこで取り上げられた話題は多岐にわたりました。たとえば,4月からの中学校での柔道必修化の問題は,目前に迫る大テーマでしたので,さまざまな意見が飛び交いました。そうして,最終的に行き着いたわたしなりの結論は「スポーツに思想を」というものでした。つまり,思想なきスポーツはもはやありえない,と。
スポーツは,もはや,単なる遊びや娯楽ではなくなっています。現代という時代を生きるわたしたちにとっては必要不可欠の文化となっています。しかも,人間の生き方までをも規定する力をもちはじめています。場合によっては,政治や経済よりも大きな影響力をもつにいたっています。にもかかわらず,スポーツには「思想」が欠落しています。
思想なき経済が迷走するのと同様に,思想なきスポーツもまた迷走してしまいます。いま,わたしたちに求められている最大の課題は「思想」ではないか,というところに徐々に話題が集結していきました。司会者のそろそろ終わりに・・・・という発言を振り切って,もう一つだけ,もう一つでけという具合に議論に熱中しているあまり,気がついてみれば,予定時間を30分もオーバーしていました。
「スポーツに思想を」。これが当分のわたしたちの共通の大きな課題として浮上することになりました。いささか遅きに失した感もなきにしもあらず,というところですが,気がついたときが吉日,まずは「隗よりはじめよ」という次第です。
しかし,少しだけ補足をさせていただければ,わたしたちのこの研究会は,じつは,当初から「スポーツに思想を」という大きなテーマをもっていました。しかし,それを全面に押し出すようなプレゼンテーターが少なかった,ということです。その意味では,この『ショック・ドクトリン』合評会は絶妙なタイミングだったと思います。
次回,3月19日(月)には,西谷修さんをゲスト・スピーカーにお迎えして『ショック・ドクトリン』読解に取り組みます。できることなら,フリードマンの新自由主義を標榜した経済学(一般経済学)にたいして,バタイユの目指した「普遍経済学」の位置づけなどのお話がうかがえたらありがたいと思っています。とりわけ,マルセル・モースの『贈与論』と関連させて。そのほかにも,お聞きしたい話は満載です。いまから,とても楽しみにしています。
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