2012年2月20日月曜日

芥川賞作品『道化師の蝶』(円城塔)を読む。

昨日につづいて,もう一つの芥川賞作品,円城塔の『道化師の蝶』を読みました。選考委員の「選評」を読んで,もっとも気になっていたのがこの作品でした。選考委員の間で大きく議論が分かれ,激論が闘わされたようです。

最初にわたしの感想を書いておけば,とても面白かった。そして,もう一度読んでみたいと思いました。いやいや,一度ではなく,これから何回も読んでみようかな,と思っています。なぜなら,読むたびごとに新たな発見がありそうな,そういう予感がするからです。それだけではありません。この作品の奥行きの深さは,いまのわたしの理解のかぎりでも「無限」です。しかも,さまざまな隠喩が隠されていて,読み方によっては恐ろしい作品にもなっています。そのうちの一つを紹介しておけば,いまの日本人が立たされている情況(「3・11」以後を生きるわたしたち)にも,そのまま当てはまってしまう展開にもなっています。

とりわけ,後半に入ってくるとにわかに隠喩が伝わるようになり,鉛筆を片手に,線を引き,書き込みをしながら読みました。こんな小説は久しぶりです。ですから,また,しばらく時間をおいて読むことになるだろう,とこれはもはや間違いないでしょう。それほどまでに魅力的な作品だとわたしは受け止めました。

受賞者インタヴューでは,「小説製造機械になるのが夢です」と作者は語っています。その意味は,おそらくは,伝統的な近代小説の枠組みを取り払って,わたしのことばで言えば,後近代の小説を徹底的に展開してみたい,ということのようです。その意味でも,わたしとはフィーリング的には合うところが多くあります。しかし,この人の小説は「難解」です。わかろうとすることを拒否しているようにも受け取れます。逆にいえば,わかりやすく書くこと,そのこと自体が「近代」の虚構であった,と作者は主張したがっているようにもみえます。つまり,近代の論理的整合性の枠組みこそが,わたしたちの生き方そのものを歪曲してしまい,挙げ句の果ては,核による汚染社会に到達してしまいました。しかも,その道筋は正しいと信じて。

まずは,あまり先入観なしに,円城塔さんの『道化師の蝶』を,真っ白なこころで読んでみてください。そして,自由自在に,さまざまなことを連想してみてください。そこで浮かび上がってくる世界が,その人の読みなのですから。そこには「正しい」読み方も「間違った」読み方もありません。作品そのものが発している「なにか」のどこに反応するかは読み手の自由です。

そのことを前提にした上で,イシハラ委員の感想の一部を紹介しておきます。
「どんなつもりでか,再度の投票でも過半数に至らなかった『道化師の蝶』なる作品は,最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが,こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに突き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなばだ疑わしい。」

それに引き換え,川上弘美委員の「選評」はみごとです。この評を読むだけでも,ひとつの作品を読むような,なんともさわやかな気分にさせてくれます。そして,いかにも川上弘美だなぁ,と感心もしてしまいます。部分だけでも紹介してみたいと思って探してみましたが,やはり,無理でした。全体でひとつの作品の体裁をなしているのですから。ぜひ,書店で立ち読みでもしてみてください。ここだけで結構です。イシハラ君が,いかに「消え去るのみ」の存在であるかは,ここでも明らかです。

選考委員の「選評」を読んでみると,どうやら川上弘美,山田詠美,小川洋子の三人が『道化師の蝶』を推したようですが,なかなか同意がえられず,最後の最後になって,黒井千次,島田雅彦,宮本輝,の三人が同意したようです。もちろん,実際はどうであったかはわかりません。以上は,「選評」を読んでのわたしの印象です。イシハラ君だけは,最後まで反対だったのでしょう。

いずれにしても,円城塔さんの作品は,未来に向けて限りなき可能性を秘めた素晴らしい作品だ,というのがわたしの感想。この作品を読みながら,わたしの脳裏には,ソシュール,デリダ,ラカン,バタイユ,という人たちの思想が,何回も駆けめぐっていました。そういう思考回路のない人には,たんなる「難解」な小説でしかないのだろうなぁ,と思います。

まずは,ご一読の上,感想などお聞かせくだされば幸いです。

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