訳者の金子奈美さんから,本邦初のバスク語からの訳本『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』(白水社刊)をいただいたのに,なかなか読む時間がもてずに置いてあった。が,6日(火)午後6時から,作者のキルメン・ウリベを招いて,かれを囲む会が東京外国語大学で開催されるということがわかっていたので,それに間に合わせるために,大急ぎで読んででかけた。
正直に告白しておけば,じつは,こんなにいい本だとは思っていなかったので,心底驚いた。だから,会場に向かう途中もずっとこの本のことを考えていた。というのも,これまで読んできた外国文学とはいささか構えが違うからだ。構えが違うという言い方をしたのは,わたしが馴染んできたいわゆる外国文学の範疇のなかには収まり切らない,不思議な仕掛け/視点が感じられるからだ。たぶん,それはウリベの母語であるバスク語で書くということと深く結びついているに違いない。そして,ウリベもそのことを強く意識して,バスク語だからこそ可能な小説の新たな地平を切り開くべく,果敢に挑戦しているからなのだろう。
その不思議な作者の構えによるのだろう,とにかく最初から最後まで一気に読ませてくれる。訳文もよくこなれていて,読者を魅了してくれる。
わたしの勝手な解釈を許していただけるとすれば,以下のようになろうか。
バスクに固有な世界を,それをありのままに,できるだけ自然体で描くには,しかもバスク世界の深層にまで手がとどくように表現するには,バスク語しかないだろう,ということだ。つまり,作者のこころの奥底から湧き上がってくるような心象風景は,描写不可能なのに違いない。バスク人としての心情を吐露するには,スペイン語では限界があるということだ。別の言い方をすれば,同じことをスペイン語で書くと,おそらくそれは別のスタイルの作品になる,とわたしは考える。繰り返しになるが,バスクに固有の世界を描くにはバスク語しかないだろう,ということだ。他人行儀になることなく,ナチュラルで,しかもバスクに固有のバナキュラーな世界にまで根を降ろしていくとなると,それはもうバスク語でしか不可能だろう。
バスクの伝統スポーツのことを考えつづけてきたわたしが,ウリベの作品に惹きつけられていくのは,以上のような理由からなのだろう。バスクに固有の,あの伝統スポーツは,おそらくわたしのような日本人が感動するのとはまったく次元の違うところで,バスク人のハートの奥深くを刺激してやまないのだろうと思う。たとえば,ペロタ場の一角に座を占めてペロタを見物しているわたしと,わたし以外のバスク人とは,同じペロタをみていながら,そこから感じ取るもの,受け取るものは,まったく次元が違うだろうということだ。
わたしのペロタをみる眼はどこまでいっても日本人としてのまなざしでしかない。つまり,一旦はスポーツの普遍というスクリーンをとおして,その向こうに透けてみえてくるバスクの伝統スポーツとしてわたしの頭の中で概念化したもの,それがわたしに見えている「ペロタ」なのだ。だから,わたしの中でいろいろに物語化され,あるいは,わたしの勝手な想像力にゆだねられ,さまざまな記憶や回想とがないまぜになって,わたしなりのイメージを構築している。わたしにとってのペロタとはそういうものだ。
だから,バスク人がバスク語で書かれた小説を読むということは,おそらく,バスク人がペロタをみるのと基本的には同じなのだろうと思う。わたしが日本人として私小説を読むという営みと,大相撲を鑑賞するという行為とが基本的なところで重なっているように。
今福さんの言い方を借りれば,インスクリプションとディスクリプションの違いということになるだろうし,あるいはまた,批評(クリティック)と評論(コメント)の違いということにもなるのだろう。
この小説のストーリーはまことに単純である。ビルバオからニューヨークに到着するまでの間に,主人公の脳裏に浮かんでくる記憶や回想を,現実のフライトと重ね合わせて描いているだけだ。しかし,その仕掛けはじつに巧妙で,ぐいぐいとウリベ・ワールドに分け入っていくことになる。主人公の回想は祖父から三代にわたるファミリー・ヒストリーを縦糸に,それぞれ祖父,父親をめぐる人間模様を横糸にして紡ぎだされる物語である。そして,ここでも,先祖代々,営々として引き継がれてきた漁師としての伝統世界が,わたしの世代で終わりを告げ,詩人・作家へと転進していく姿を描いている。つまり,失われ行くものへの複雑な郷愁を描きつつ,それらを断ち切るようにして新しい世界に飛び出していくわたしが浮き彫りになってくる。それをビルバオからニューヨークへのフライトという大きな流れと重ね合わせながら・・・・。しかも,記憶や回想のほとんどが想像/創造されたもので,真実は闇のなかに深く沈んだままなのだ,というライトモチーフも浮かび上がってくる。しかも,それが「生きる」ということの実体なのだ・・・とも。
もう,これ以上,作品の内容に分け入っていくのは止めよう。これから読む人の楽しみを残しておくために。
昨夜(6日)のイベント「バスク語から世界へ──作家キルメン・ウリベを迎えて」では,ばったりと萩尾生さん(バスク研究者)にお会いし,並んで座した。萩尾さんから専門家としてのご意見などを伺いながら,作家ウリベの話に耳を傾ける,という僥倖にめぐまれた。最初と最後にウリベ自身によるバスク語の詩の朗読があった。萩尾さんの感想では,その詩はバスク語としても限りなく美しいとのこと。わたしは音声だけに意識を集中させ,その響きに耳を傾ける。とても柔らかな響きのなかに,どことなく粘り強さのようなものを感じることができた。
このつづきの話を萩尾さんともさせていただければと密かに期待している。
また,今福さんからは,延命庵をやりませんかと誘われているので,訳者の金子さんをまじえてその機会をつくることができれば・・・・と,こちらは実現可能な話。
バスク語からの初の翻訳本である『ビルバオ─ニューヨーク─ビルバオ』(金子美奈訳,白水社刊),ご一読を。そして,この本について語り合える人の多からんことを。
正直に告白しておけば,じつは,こんなにいい本だとは思っていなかったので,心底驚いた。だから,会場に向かう途中もずっとこの本のことを考えていた。というのも,これまで読んできた外国文学とはいささか構えが違うからだ。構えが違うという言い方をしたのは,わたしが馴染んできたいわゆる外国文学の範疇のなかには収まり切らない,不思議な仕掛け/視点が感じられるからだ。たぶん,それはウリベの母語であるバスク語で書くということと深く結びついているに違いない。そして,ウリベもそのことを強く意識して,バスク語だからこそ可能な小説の新たな地平を切り開くべく,果敢に挑戦しているからなのだろう。
その不思議な作者の構えによるのだろう,とにかく最初から最後まで一気に読ませてくれる。訳文もよくこなれていて,読者を魅了してくれる。
わたしの勝手な解釈を許していただけるとすれば,以下のようになろうか。
バスクに固有な世界を,それをありのままに,できるだけ自然体で描くには,しかもバスク世界の深層にまで手がとどくように表現するには,バスク語しかないだろう,ということだ。つまり,作者のこころの奥底から湧き上がってくるような心象風景は,描写不可能なのに違いない。バスク人としての心情を吐露するには,スペイン語では限界があるということだ。別の言い方をすれば,同じことをスペイン語で書くと,おそらくそれは別のスタイルの作品になる,とわたしは考える。繰り返しになるが,バスクに固有の世界を描くにはバスク語しかないだろう,ということだ。他人行儀になることなく,ナチュラルで,しかもバスクに固有のバナキュラーな世界にまで根を降ろしていくとなると,それはもうバスク語でしか不可能だろう。
バスクの伝統スポーツのことを考えつづけてきたわたしが,ウリベの作品に惹きつけられていくのは,以上のような理由からなのだろう。バスクに固有の,あの伝統スポーツは,おそらくわたしのような日本人が感動するのとはまったく次元の違うところで,バスク人のハートの奥深くを刺激してやまないのだろうと思う。たとえば,ペロタ場の一角に座を占めてペロタを見物しているわたしと,わたし以外のバスク人とは,同じペロタをみていながら,そこから感じ取るもの,受け取るものは,まったく次元が違うだろうということだ。
わたしのペロタをみる眼はどこまでいっても日本人としてのまなざしでしかない。つまり,一旦はスポーツの普遍というスクリーンをとおして,その向こうに透けてみえてくるバスクの伝統スポーツとしてわたしの頭の中で概念化したもの,それがわたしに見えている「ペロタ」なのだ。だから,わたしの中でいろいろに物語化され,あるいは,わたしの勝手な想像力にゆだねられ,さまざまな記憶や回想とがないまぜになって,わたしなりのイメージを構築している。わたしにとってのペロタとはそういうものだ。
だから,バスク人がバスク語で書かれた小説を読むということは,おそらく,バスク人がペロタをみるのと基本的には同じなのだろうと思う。わたしが日本人として私小説を読むという営みと,大相撲を鑑賞するという行為とが基本的なところで重なっているように。
今福さんの言い方を借りれば,インスクリプションとディスクリプションの違いということになるだろうし,あるいはまた,批評(クリティック)と評論(コメント)の違いということにもなるのだろう。
この小説のストーリーはまことに単純である。ビルバオからニューヨークに到着するまでの間に,主人公の脳裏に浮かんでくる記憶や回想を,現実のフライトと重ね合わせて描いているだけだ。しかし,その仕掛けはじつに巧妙で,ぐいぐいとウリベ・ワールドに分け入っていくことになる。主人公の回想は祖父から三代にわたるファミリー・ヒストリーを縦糸に,それぞれ祖父,父親をめぐる人間模様を横糸にして紡ぎだされる物語である。そして,ここでも,先祖代々,営々として引き継がれてきた漁師としての伝統世界が,わたしの世代で終わりを告げ,詩人・作家へと転進していく姿を描いている。つまり,失われ行くものへの複雑な郷愁を描きつつ,それらを断ち切るようにして新しい世界に飛び出していくわたしが浮き彫りになってくる。それをビルバオからニューヨークへのフライトという大きな流れと重ね合わせながら・・・・。しかも,記憶や回想のほとんどが想像/創造されたもので,真実は闇のなかに深く沈んだままなのだ,というライトモチーフも浮かび上がってくる。しかも,それが「生きる」ということの実体なのだ・・・とも。
もう,これ以上,作品の内容に分け入っていくのは止めよう。これから読む人の楽しみを残しておくために。
昨夜(6日)のイベント「バスク語から世界へ──作家キルメン・ウリベを迎えて」では,ばったりと萩尾生さん(バスク研究者)にお会いし,並んで座した。萩尾さんから専門家としてのご意見などを伺いながら,作家ウリベの話に耳を傾ける,という僥倖にめぐまれた。最初と最後にウリベ自身によるバスク語の詩の朗読があった。萩尾さんの感想では,その詩はバスク語としても限りなく美しいとのこと。わたしは音声だけに意識を集中させ,その響きに耳を傾ける。とても柔らかな響きのなかに,どことなく粘り強さのようなものを感じることができた。
このつづきの話を萩尾さんともさせていただければと密かに期待している。
また,今福さんからは,延命庵をやりませんかと誘われているので,訳者の金子さんをまじえてその機会をつくることができれば・・・・と,こちらは実現可能な話。
バスク語からの初の翻訳本である『ビルバオ─ニューヨーク─ビルバオ』(金子美奈訳,白水社刊),ご一読を。そして,この本について語り合える人の多からんことを。
1 件のコメント:
いきなりのコメント失礼致します。
僕もこの作品に魅せられました。
曇り空と晴れ間が交互に包み込むような感覚を覚え、
また暗く/明るい海の波を眺めているような気がしました。
僕も訳者と同じ秋田県出身ですが、地元男鹿市の海を思い出さずにはいられませんでした。
また、大学学部時代はスペイン語を専攻していたこともあり、多角的な意味で親近感をぬぐい去ることができす、思わず書店で即買いをしました。
このような作品が、多くの人に知れ渡り、読後の同じ気持ち、また違うそれぞれの感覚を共有していけたら、世界平和までとはいきませんが、何か僕たちの周りで物事が温かい方向へ変わっていくのではないかと思います。
粗末なコメントですが、誰かと共有させていただきたく、失礼致しました。
ありがとうございました。
言語学専攻大学院生
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