11月1日のブログで,シモーヌ・ヴェーユの「権利と義務」について,Nさんからのお話を軸にして書きましたところ,補足・修正のメールが今日(4日),Nさんからとどきましたので,そのうちの重要だと思われる部分を紹介させていただきます。同時に,一部,わたしの記憶違いがあったようですので,お詫びしながら,その理由についても記しておきたいと思います。
シモーヌ・ヴェーユの原書テクストで用いられている「義務」のフランス語は”obligation”で,英語とまったく同じです。第一義は道徳・宗教上のなすべきこと,つとめ,責務といったところで,そこから法律上の義務,債務,などに転用されます。英語の”duty”にあたる"devoir"は,支払い義務,哲学の当為(そうあるべき),宿題,などに使われて,怠ると罰がくるような感じがつきまといます。日本語で「権利・義務」というときには,つい”duty”=”devoir”を思い浮かべてしまいますが,病気で倒れているひとを助けるのは,ある人にとっては避けがたい”obligation”ではあっても,”devoir”ではないと言いたい気がします。というのは,”devoir”にはすでに,なにか社会規範等々を前提しているようなニュアンスがあって,そうしないと誰かに叱られるから,という感じがするからです。
以上が,Nさんからの補足・修正の要旨です。なるほど,英語と同じ表記の”obligation”を用いているとすれば,やはり,日本語訳は「義務」しかないということになるのでしょう。また,もうひとつの「義務」に相当する”duty”=”devoir”と”obligation”のニュアンスの違いについても,丁寧にNさんが補足説明をしてくださっていますので,そのイメージはかなり明確になってきました。あとは,しっかりとテクストの第一部 魂の欲求 のところを読み込むことにしたいと思います。
なお,わたしの記憶違い(あるいは,聞き違い=最近はよくあること)は,なにかの話の流れで,フランス語の”oblige”ということばが聞こえたような気がして,すぐに,「ああ,ノブレス・オブリージの,あのオブリージだ」と思い込んだのが原因のようです。断るまでもなく,”noblesse oblige”は,広辞苑にも載っている外来語で「高い地位/貴族階級に伴う道徳的・精神的義務」という語釈がなされています。
ここからはわたしの勝手なアナロジーですが,こんにちのスポーツマンシップや武士道精神などのルーツもたどっていくと,おそらくこのノブレス・オブリージにいたりつくに違いない,と考えています。スポーツマンシップのもとになったのはジェントルマンシップであることは確かですので,そのもとをたどれば騎士道精神,そのさらにもとをたどれば,このノブレス・オブリージに到達するというわけです。
となれば,スポーツマンシップやスポーツのマナーなども,一種の「義務」であり,それを共有することによって「根をもつこと」にもなっていく・・・・,だから,激しく競い合うライバルとも深い友情で結ばれていくことにもなっていく・・・・,勝敗を超えた絆が生まれてくることにもなっていく・・・・,などとあれこれ想像をたくましくしているところです。これらの点については,もう少し,シモーヌ・ヴェーユの「義務」について読み込みをした上で,あるいは,「魂の欲求」の意味を熟読玩味した上で,ある種の結論を出してみたいと思っています。
というようなわけで,シモーヌ・ヴェーユの「義務」”obligation”は,スポーツ文化を考える上でも重要なキー概念になりうるものではないか,と考えています。こうなると,シモーヌ・ヴェーユのいう「根をもつこと」の意味や概念が,スポーツ史研究にとってもますます重要性を帯びてくるという次第です。
取り急ぎ,Nさんの補足・修正と,わたしのアイディアの紹介まで。
シモーヌ・ヴェーユの原書テクストで用いられている「義務」のフランス語は”obligation”で,英語とまったく同じです。第一義は道徳・宗教上のなすべきこと,つとめ,責務といったところで,そこから法律上の義務,債務,などに転用されます。英語の”duty”にあたる"devoir"は,支払い義務,哲学の当為(そうあるべき),宿題,などに使われて,怠ると罰がくるような感じがつきまといます。日本語で「権利・義務」というときには,つい”duty”=”devoir”を思い浮かべてしまいますが,病気で倒れているひとを助けるのは,ある人にとっては避けがたい”obligation”ではあっても,”devoir”ではないと言いたい気がします。というのは,”devoir”にはすでに,なにか社会規範等々を前提しているようなニュアンスがあって,そうしないと誰かに叱られるから,という感じがするからです。
以上が,Nさんからの補足・修正の要旨です。なるほど,英語と同じ表記の”obligation”を用いているとすれば,やはり,日本語訳は「義務」しかないということになるのでしょう。また,もうひとつの「義務」に相当する”duty”=”devoir”と”obligation”のニュアンスの違いについても,丁寧にNさんが補足説明をしてくださっていますので,そのイメージはかなり明確になってきました。あとは,しっかりとテクストの第一部 魂の欲求 のところを読み込むことにしたいと思います。
なお,わたしの記憶違い(あるいは,聞き違い=最近はよくあること)は,なにかの話の流れで,フランス語の”oblige”ということばが聞こえたような気がして,すぐに,「ああ,ノブレス・オブリージの,あのオブリージだ」と思い込んだのが原因のようです。断るまでもなく,”noblesse oblige”は,広辞苑にも載っている外来語で「高い地位/貴族階級に伴う道徳的・精神的義務」という語釈がなされています。
ここからはわたしの勝手なアナロジーですが,こんにちのスポーツマンシップや武士道精神などのルーツもたどっていくと,おそらくこのノブレス・オブリージにいたりつくに違いない,と考えています。スポーツマンシップのもとになったのはジェントルマンシップであることは確かですので,そのもとをたどれば騎士道精神,そのさらにもとをたどれば,このノブレス・オブリージに到達するというわけです。
となれば,スポーツマンシップやスポーツのマナーなども,一種の「義務」であり,それを共有することによって「根をもつこと」にもなっていく・・・・,だから,激しく競い合うライバルとも深い友情で結ばれていくことにもなっていく・・・・,勝敗を超えた絆が生まれてくることにもなっていく・・・・,などとあれこれ想像をたくましくしているところです。これらの点については,もう少し,シモーヌ・ヴェーユの「義務」について読み込みをした上で,あるいは,「魂の欲求」の意味を熟読玩味した上で,ある種の結論を出してみたいと思っています。
というようなわけで,シモーヌ・ヴェーユの「義務」”obligation”は,スポーツ文化を考える上でも重要なキー概念になりうるものではないか,と考えています。こうなると,シモーヌ・ヴェーユのいう「根をもつこと」の意味や概念が,スポーツ史研究にとってもますます重要性を帯びてくるという次第です。
取り急ぎ,Nさんの補足・修正と,わたしのアイディアの紹介まで。
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