旅にでるときにもっていく本が何冊かある。それは,わたしの好きな本で,しかもすでに何回も読み返している本ばかりだ。だから,通読するなどという野暮なことはもはやしない。旅のつれづれに,ふと本を取り出して,パッと開いたところを読む。それが不思議に,ちょうど読みたかったところであることが多い。ときには,ピン・ポイントで,長年考えつづけてきたテーマに新しい解決策を指し示してくれるような,まことに示唆に富むところと遭遇することがある。思わず「ウォッ!」と快哉を叫びたくなる。至福のときである。
今回の「48会」に出席するために名古屋を往復するにあたり,2冊ほど文庫本をザックのなかにしのばせておいた。その一冊が折口信夫の『日本芸能史六講』(講談社学術文庫)だった。もう一冊は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)である。この二冊に共通しているのは,どこから読みはじめても,すっと深いところに入り込むことができ,そのつど日常のわたしではないわたしに出会うことができるということだ。生きている喜びとは,新たなわたしに出会うことなのだろう,としみじみ思う。ほのぼのとしたエクスターズである。
新幹線に乗ると,しばらくはぼんやりと車窓の景色を眺めている。いつも見慣れた景色ばかりなのに,ところどころで「エッ」と思わせるような新しい発見がある。が,そういう発見がないとすぐに飽きてくるので,おのずからザックのなかに手を滑り込ませる。そして,手が勝手に一冊を選んでとりだしてくる。ここが肝心なところである。どちらが出てくるかはわからない。つまり,眼でみて判断することを放棄して,手の触覚にゆだねるということ。主体性の放棄。運を天にまかせるということ。大げさにいえば自己を天命にゆだねるということ。計算も打算もない正義の根拠。なんのことはない,一か八かの「賭け」である。
今回は,行きも帰りも,なぜか,わたしの「手」が探り当てたのは『日本藝能史六講』だった。
そして,最初に開いたところには藝能か態藝か,能藝か態藝か,という議論がなされている。そして,能という文字は,態という文字の下の心が省略されて用いられるようになったらしい,と折口は推測し,その根拠をいくつか提示している。しかも,もともとの「態」の意味は「しぐさ」であり,「ものまね」のことだったという。たとえば,後花園天皇の時代(吉野朝)にできたといわれる『下学集』の藝態門には,風流(ふりゅう),早歌(はやうた),曲舞(くせまい),反ばい(へんばい・ばいは門構えの中に下という漢字)・申楽・田楽・松囃(まつばやし)・傀儡(くぐつ)・蹴鞠(けまり)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)といったものが,ひとまとめにされているという。つまり,これらが「藝態」の内容。しかも,この「態」という文字を「のう」と読ませていたかもしれない,と。
わたしのひらめきは,そうか,こんにちの芸能のルーツをたどっていくと,それは「ものまね」にゆきつくのか,ということ。その「ものまね」のはじまりは降臨した神を演ずること,つまり,神の「ものまね」だったこと,その神を迎える「ぬし」を演ずること,さらに,ぬしは神を喜ばせるために即興の歌を歌う,それにつられるようにして神が舞い踊る。このようにしてこんにちの芸能は発生したのではないか,と傍証を挙げながら類推していく。
しかも,こうした類推の仕方は折口特有の方法であって,これを「発生学風」と名づけ,この方法こそが近代のアカデミズムの限界を突破していくために必要なのだ,という。
ここからひらめいたことは,なんと,ザックのなかにもう一冊しのばせていたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のことである。この本のなかでバタイユが展開した方法も,まさしく折口のいう「発生学風」の方法なのだ。サルからヒトになり,さらに人間となるときに,人間の存在の仕方になにが起きたのかというテーマの謎解きは,厳密にいえばだれも実証できないことだ。つまり,近代のアカデミズムの方法では不可能である。しかし,その限界を超えでていくためには,いくつかの仮説を提示しつつ,その仮説の向こうに見え隠れしてくることがらについて類推していくことが必要になる。そして,ヒトがいかにして「発生」し,人間がどのような契機で「発生」するかを傍証で固めていく。いまのところはそのような方法しか存在しないのだから,それに頼るしかない。もちろん,それが正しいという根拠はない。同時に,それが間違いであるという根拠もない。したがって,多くの人が支持するかどうかだけだ。近代のアカデミズムの実証の限界を超えでていくためには,折口のいう「発生学風」という方法をとるしか,いまのところないのだ。
わたしがいま必死で取り組んでいる「スポーツ的なるもの」と「宗教的なるもの」との類縁性の問題も,その発生の「場」のアナロジーとなっていく。つまり,折口のいう「発生学風」な手法をとらざるをえない。だから,折口のこのテクスト『日本藝能史六講』にぐいぐい引き込まれていくというわけである。そして,読めば読むほどに,「スポーツ的なるもの」の発生の場も,折口のいう「藝能」の発生する「場」にあった,と納得できる。
そんなわけで,このテクストもまた,わたしにとっては大事な座右の書なのである。これからも,なにかと思考が行き詰まってしまったときには,必ず繙くことになる書であることは間違いない。そして,そのつど,なんらかの新たな思考のヒントを提示してくれるはずである。これまでもそうであったように。
今回の「48会」に出席するために名古屋を往復するにあたり,2冊ほど文庫本をザックのなかにしのばせておいた。その一冊が折口信夫の『日本芸能史六講』(講談社学術文庫)だった。もう一冊は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)である。この二冊に共通しているのは,どこから読みはじめても,すっと深いところに入り込むことができ,そのつど日常のわたしではないわたしに出会うことができるということだ。生きている喜びとは,新たなわたしに出会うことなのだろう,としみじみ思う。ほのぼのとしたエクスターズである。
新幹線に乗ると,しばらくはぼんやりと車窓の景色を眺めている。いつも見慣れた景色ばかりなのに,ところどころで「エッ」と思わせるような新しい発見がある。が,そういう発見がないとすぐに飽きてくるので,おのずからザックのなかに手を滑り込ませる。そして,手が勝手に一冊を選んでとりだしてくる。ここが肝心なところである。どちらが出てくるかはわからない。つまり,眼でみて判断することを放棄して,手の触覚にゆだねるということ。主体性の放棄。運を天にまかせるということ。大げさにいえば自己を天命にゆだねるということ。計算も打算もない正義の根拠。なんのことはない,一か八かの「賭け」である。
今回は,行きも帰りも,なぜか,わたしの「手」が探り当てたのは『日本藝能史六講』だった。
そして,最初に開いたところには藝能か態藝か,能藝か態藝か,という議論がなされている。そして,能という文字は,態という文字の下の心が省略されて用いられるようになったらしい,と折口は推測し,その根拠をいくつか提示している。しかも,もともとの「態」の意味は「しぐさ」であり,「ものまね」のことだったという。たとえば,後花園天皇の時代(吉野朝)にできたといわれる『下学集』の藝態門には,風流(ふりゅう),早歌(はやうた),曲舞(くせまい),反ばい(へんばい・ばいは門構えの中に下という漢字)・申楽・田楽・松囃(まつばやし)・傀儡(くぐつ)・蹴鞠(けまり)・笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)といったものが,ひとまとめにされているという。つまり,これらが「藝態」の内容。しかも,この「態」という文字を「のう」と読ませていたかもしれない,と。
わたしのひらめきは,そうか,こんにちの芸能のルーツをたどっていくと,それは「ものまね」にゆきつくのか,ということ。その「ものまね」のはじまりは降臨した神を演ずること,つまり,神の「ものまね」だったこと,その神を迎える「ぬし」を演ずること,さらに,ぬしは神を喜ばせるために即興の歌を歌う,それにつられるようにして神が舞い踊る。このようにしてこんにちの芸能は発生したのではないか,と傍証を挙げながら類推していく。
しかも,こうした類推の仕方は折口特有の方法であって,これを「発生学風」と名づけ,この方法こそが近代のアカデミズムの限界を突破していくために必要なのだ,という。
ここからひらめいたことは,なんと,ザックのなかにもう一冊しのばせていたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のことである。この本のなかでバタイユが展開した方法も,まさしく折口のいう「発生学風」の方法なのだ。サルからヒトになり,さらに人間となるときに,人間の存在の仕方になにが起きたのかというテーマの謎解きは,厳密にいえばだれも実証できないことだ。つまり,近代のアカデミズムの方法では不可能である。しかし,その限界を超えでていくためには,いくつかの仮説を提示しつつ,その仮説の向こうに見え隠れしてくることがらについて類推していくことが必要になる。そして,ヒトがいかにして「発生」し,人間がどのような契機で「発生」するかを傍証で固めていく。いまのところはそのような方法しか存在しないのだから,それに頼るしかない。もちろん,それが正しいという根拠はない。同時に,それが間違いであるという根拠もない。したがって,多くの人が支持するかどうかだけだ。近代のアカデミズムの実証の限界を超えでていくためには,折口のいう「発生学風」という方法をとるしか,いまのところないのだ。
わたしがいま必死で取り組んでいる「スポーツ的なるもの」と「宗教的なるもの」との類縁性の問題も,その発生の「場」のアナロジーとなっていく。つまり,折口のいう「発生学風」な手法をとらざるをえない。だから,折口のこのテクスト『日本藝能史六講』にぐいぐい引き込まれていくというわけである。そして,読めば読むほどに,「スポーツ的なるもの」の発生の場も,折口のいう「藝能」の発生する「場」にあった,と納得できる。
そんなわけで,このテクストもまた,わたしにとっては大事な座右の書なのである。これからも,なにかと思考が行き詰まってしまったときには,必ず繙くことになる書であることは間違いない。そして,そのつど,なんらかの新たな思考のヒントを提示してくれるはずである。これまでもそうであったように。
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