「脳よりも腸の方が賢い」というようなタイトルの本が出ているようです。が,今回のこのブログで書くことの具体的な内容は,わたしの主治医がわたしの体調について診察しているときに,たまたまそういう話題になり,詳しく話してくださったものです。
わたしが「天ぷらを食べるとどうも下痢をしてしまうようです」と話すと,「そうですかよ。それは胃腸はまだ天ぷらを食べては駄目だというサインを送っているんですよ。脳はそのことがわかっていないんです」,と。以下は主治医さんのお話の要約です。
脳は栄養価やカロリー計算は得意ですが,いま,胃腸がなにを食べてはいけないと言っているかについてはまったくの「盲目」です。稲垣さんはたぶん管理栄養士の指導を受けて,栄養のバランスやカロリーのことを考えながら,献立をいろいろ工夫していると思います。それは間違いではありません。が脳は意外に「欲望」に弱いのです。ですから,献立を考えるときも脳は欲望と手を結んでしまいます。つまり,脳は計算・打算が得意だというわけです。その結果,調理された食べ物が胃腸にとっていいかどうかは,まったくの別問題です。
胃腸はひたすら,いま現在のからだのトータルの状態を引き受けつつ,食べられたものが適切かどうかを判断します。そして,駄目なものはできるだけ早く「スルー」させて,体外に排泄する,そのことに関しては天才です。脳はその点ではまったくの「盲目」としかいいようがありません。つまり,生命を維持管理していく上での役割分担,あるいは機能の領分の次元がまったく異なるということです。ですから,脳と胃腸のお互いの得意なところをうまく組み合わせていく,協調させていくことが大事です。
なるほど,と納得。「ということは,生身のからだを生き延びていくためには,理性よりも野性の方が頼りになる,ということになりますね」とわたし。「まあ,言ってしまえば,そういうことになりますね」と主治医。そこで,わたしは図にのって「理性がいくら正しいと主張しても,野性が<ノー>と言ったらそれでおしまいですね。人間の生身のからだに君臨しているのは脳ではなくて,胃腸(内臓消化器官)の方ですね」,と。
こんなやりとりをしたあとで,じっくりと考えてみました。そして,ゆきついた結論は,理性は野性にはどこまでいっても勝てない(上位にはなれない),そんなからくりになっているんだ,ということでした。たとえば,睡眠,食欲,性欲,の三大本能に対して理性は意外にもろい。もちろん,理性は必死になって社会生活を営む上での必要最小限のことは守るべく頑張ります。が,その抑制がとれてしまうと,にわかに野性が活躍しはじめます。そのゆきつくさきは「快感」(「恍惚」)です。
その抑制(日常のストレス,など)から逃れるようにして頼るのが,一般的にはお酒。いっときの理性からの解放。それが高じてくると薬物に手を出すことになります。スポーツもまた,じつは,からだの快感(恍惚)がその原動力となっています。つまり,理性のはたらきの外に飛び出す経験,これをわたしは自己を超え出る経験と名づけています。広い意味での「自己超越」ということになります。そこは,まさに「聖なるもの」の世界です。
言ってしまえば,自他の区別のない世界,内在性の世界,動物性の世界,すなわち野性の世界。わたしたち人間はこんにちの高度に文明化した世界に生きることになり,理性万能の世界にどっぷり浸たりこんで生きることを余儀なくされています。つまり,野性がかぎりなく排除され,抑制され,隠蔽されています。その代償として,野性への回帰願望がマグマとなってからだのなかを渦巻くことになってしまいます。ですから,どこかでこのマグマのエネルギーを昇華させる必要があります。そのための文化装置がいろいろに工夫されてきましたが,その多くはアングラの世界に広がっているとしか,いいようがなくなってしまいました。
その点,スポーツは「健全なる身体」と「健全なる精神」を育成するものとして,近代になって合理化されてきました。が,ここでも大きな矛盾を抱え込むことになります。この問題はまたの機会に取り上げてみたいと思います。
理性よりも野性の方が,生きる源泉に近いということをここでは確認できればいいだろうと思います。そのきっかけと根拠を与えてくれたものが,なんと,脳よりも胃腸の方が賢い,というテーゼでした。
やはり,わたしたちはもっともっと「からだの声」に素直に耳を傾ける努力が必要だ,とこれはわたしの反省。
わたしが「天ぷらを食べるとどうも下痢をしてしまうようです」と話すと,「そうですかよ。それは胃腸はまだ天ぷらを食べては駄目だというサインを送っているんですよ。脳はそのことがわかっていないんです」,と。以下は主治医さんのお話の要約です。
脳は栄養価やカロリー計算は得意ですが,いま,胃腸がなにを食べてはいけないと言っているかについてはまったくの「盲目」です。稲垣さんはたぶん管理栄養士の指導を受けて,栄養のバランスやカロリーのことを考えながら,献立をいろいろ工夫していると思います。それは間違いではありません。が脳は意外に「欲望」に弱いのです。ですから,献立を考えるときも脳は欲望と手を結んでしまいます。つまり,脳は計算・打算が得意だというわけです。その結果,調理された食べ物が胃腸にとっていいかどうかは,まったくの別問題です。
胃腸はひたすら,いま現在のからだのトータルの状態を引き受けつつ,食べられたものが適切かどうかを判断します。そして,駄目なものはできるだけ早く「スルー」させて,体外に排泄する,そのことに関しては天才です。脳はその点ではまったくの「盲目」としかいいようがありません。つまり,生命を維持管理していく上での役割分担,あるいは機能の領分の次元がまったく異なるということです。ですから,脳と胃腸のお互いの得意なところをうまく組み合わせていく,協調させていくことが大事です。
なるほど,と納得。「ということは,生身のからだを生き延びていくためには,理性よりも野性の方が頼りになる,ということになりますね」とわたし。「まあ,言ってしまえば,そういうことになりますね」と主治医。そこで,わたしは図にのって「理性がいくら正しいと主張しても,野性が<ノー>と言ったらそれでおしまいですね。人間の生身のからだに君臨しているのは脳ではなくて,胃腸(内臓消化器官)の方ですね」,と。
こんなやりとりをしたあとで,じっくりと考えてみました。そして,ゆきついた結論は,理性は野性にはどこまでいっても勝てない(上位にはなれない),そんなからくりになっているんだ,ということでした。たとえば,睡眠,食欲,性欲,の三大本能に対して理性は意外にもろい。もちろん,理性は必死になって社会生活を営む上での必要最小限のことは守るべく頑張ります。が,その抑制がとれてしまうと,にわかに野性が活躍しはじめます。そのゆきつくさきは「快感」(「恍惚」)です。
その抑制(日常のストレス,など)から逃れるようにして頼るのが,一般的にはお酒。いっときの理性からの解放。それが高じてくると薬物に手を出すことになります。スポーツもまた,じつは,からだの快感(恍惚)がその原動力となっています。つまり,理性のはたらきの外に飛び出す経験,これをわたしは自己を超え出る経験と名づけています。広い意味での「自己超越」ということになります。そこは,まさに「聖なるもの」の世界です。
言ってしまえば,自他の区別のない世界,内在性の世界,動物性の世界,すなわち野性の世界。わたしたち人間はこんにちの高度に文明化した世界に生きることになり,理性万能の世界にどっぷり浸たりこんで生きることを余儀なくされています。つまり,野性がかぎりなく排除され,抑制され,隠蔽されています。その代償として,野性への回帰願望がマグマとなってからだのなかを渦巻くことになってしまいます。ですから,どこかでこのマグマのエネルギーを昇華させる必要があります。そのための文化装置がいろいろに工夫されてきましたが,その多くはアングラの世界に広がっているとしか,いいようがなくなってしまいました。
その点,スポーツは「健全なる身体」と「健全なる精神」を育成するものとして,近代になって合理化されてきました。が,ここでも大きな矛盾を抱え込むことになります。この問題はまたの機会に取り上げてみたいと思います。
理性よりも野性の方が,生きる源泉に近いということをここでは確認できればいいだろうと思います。そのきっかけと根拠を与えてくれたものが,なんと,脳よりも胃腸の方が賢い,というテーゼでした。
やはり,わたしたちはもっともっと「からだの声」に素直に耳を傾ける努力が必要だ,とこれはわたしの反省。
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