神戸市外国語大学で行われた西谷修先生の集中講義を聴講させていただきながら,ずーっと考えつづけていたことがあります。それは,わたしが生涯にわたって携わってきたスポーツ史研究やスポーツ文化論研究はこれでよかったのか,という自己反省でした。と同時に,これからとりかかろうとしているスポーツ批評のための理論武装のことでした。
目的意識をはっきりもつということはとても大切なことで,三日間の集中講義は,最初から最後まではらはらドキドキの連続でした。これまでなら,たぶん,一度や二度は居眠りをしたであろうに,今回はそれどころではありませんでした。ボイス・レコーダーをセットしておきながら,書き取りつづけたノートは膨大なものになりました。
いま,それらを整理しながら,西谷先生の発しつづけておられたメッセージはなにであったのだろうか,と考えているところです。そして,まず,最初に脳裏に浮かんできたことは,ヨーロッパ・キリスト教文化圏が世界史の上ではたしてきた役割はなにであったのか,というきわめて大きなテーマでした。
ひとくちに,ヨーロッパ・キリスト教文化圏といってもあまりに抽象的でわかりにくいかも知れません。もう少しくだいておけば,ヨーロッパ・キリスト教社会/国家/文化/言語/思想・哲学/歴史/というように細分化して考えてみるとわかりやすいでしょう。もっと言ってしまえば,ユダヤ・キリスト教のものの見方や考え方,そして,そこから生みだされてくる法律や制度や組織と言ってもいいでしょう。
そのように考えてきたときに,はたとわたしの胸を打つものがありました。それは,オリンピック・ムーブメントとはいったいなにであったのか,という問いでした。問いが浮上するということは,その問いを浮上させる答えも同時に浮上している,ということでもあります。その答えとは以下のとおりです。
オリンピック・ムーブメントはヨーロッパ・キリスト教文化圏による世界制覇のための一つの文化装置ではなかったか,と。
クーベルタンが最初からこのことを意図していたとは考えられません。クーベルタン自身は,きわめて素朴な,のどかな青少年教育の一環としてオリンピック・ムーブメントを位置づけていたはずです。その証拠には,1924年のオリンピック・パリ大会に招待されて開会式をみたあと,「わたしの考えていたオリンピックはこんなものではなかった」と失望を語り,以後,オリンピックに背を向けたと伝えられているからです。そして,同時に,パリ大会直後のIOC総会ではオリンピック憲章の大幅な改正が承認され,オリンピック・ムーブメントはあらたなステージに一歩を進めることになります。そこから,1936年のベルリン大会を経て,こんにちのオリンピック・ムーブメントまでは一直線といっていいでしょう。
つまり,オリンピック・ムーブメントは創始者のクーベルタンの意思とは無縁のところで,一人歩きをはじめていたということです。そして,1924年以後は,IOCを構成する主要メンバーであるヨーロッパ・キリスト教文化圏から選出された理事たちの思いのままに,オリンピック・ムーブメントは演出されることになるからです。
その変化をもののみごとに示しているのは,たとえば,「オリンピックは参加することに意義がある」というステージから,「より速く,より高く,より強く」というオリンピックのモットーへと進展し,やがてはメダル獲得競争へと変身していく,この事実にもみることができます。つまり,開催の主体が都市から国家へと傾斜し,ナショナリズムの色彩が一気に強くなることにも,オリンピック・ムーブメントの大きな変容をみることができます。
こうした動向は,スポーツという名のもとでの勝利至上主義を生み出します。勝つことは「正義」である,と。そして,弱肉強食を合理化する上で眼にみえないけれども,きわめて大きな影響力をもつことになります。すなわち,戦争の論理とのみごとなまでの符合であり,共鳴・共振です。
言ってしまえば,戦争とオリンピックは車の両輪のようにして,第一次世界大戦,第二次世界大戦を通過して,ますます「勝つ」ことだけが正義として定着していくことになります。その結果,メダル獲得競争は国力の反映を意味し,オリンピックは一種の代理戦争となりはてた,と言っても過言ではないでしょう。
こうしたオリンピック・ムーブメントを支えた理念の一つは「自由」の獲得であり,「自由」の理念を世界に普及させることにありました。ですから,近代スポーツ競技は「自由競争」の名のもとに合理化され,多くの支持を得ることになります。つまり,同じ条件のもとで,同じアリーナでの「自由競争」が最大の「売り」になりました。
一見したところ,まことに理路整然としていて,なんら付け入る隙がないようにみえます。しかし,そこには大きな落とし穴が待ち受けていました。なぜなら,同じ条件のもとでの「自由競争」などということは,ことばの綾であって,実情はとてもとてもそんな理想とはほど遠いものだったからです。それはいまも変わりません。それどころか,先進国と途上国の間の格差はますます広がるばかりです。
つまり,スポーツは,いまや単なるスポーツではありません。まさに国力を反映させる映し鏡であると言ってよいでしょう。端的に言ってしまえば,金と最先端科学技術をどこまでスポーツに注ぎ込むことができるか,その競争になっているということです。
かくして,スポーツの世界にも科学的合理主義が神のごとく君臨し,生き物であるはずのアスリートたちの人間性には「盲目」のまま,ますますアスリートたちがロボット化していくことに,なんの矛盾も感じない世界が広がっています。それどころか加速さえされているというべきでしょう。いささか飛躍した話に聞こえるかもしれません。しかし,ジャン=ピエール・デュピュイの『聖なるものの刻印』を通過した人間にとっては,ごく当たり前の話にすぎません。
このように考えてみますと,オリンピック・ムーブメントは,キリスト教文化圏が生みだした「科学的合理主義」による世界制覇のための一つの文化装置であった,というわたしの仮説がほぼ間違いない,というところに到達するのではないでしょうか。
いささか荒っぽい論法になってしまいましたが,この各論は,また別の機会に書いてみたいと思います。ということで,今日のところはここまで。
目的意識をはっきりもつということはとても大切なことで,三日間の集中講義は,最初から最後まではらはらドキドキの連続でした。これまでなら,たぶん,一度や二度は居眠りをしたであろうに,今回はそれどころではありませんでした。ボイス・レコーダーをセットしておきながら,書き取りつづけたノートは膨大なものになりました。
いま,それらを整理しながら,西谷先生の発しつづけておられたメッセージはなにであったのだろうか,と考えているところです。そして,まず,最初に脳裏に浮かんできたことは,ヨーロッパ・キリスト教文化圏が世界史の上ではたしてきた役割はなにであったのか,というきわめて大きなテーマでした。
ひとくちに,ヨーロッパ・キリスト教文化圏といってもあまりに抽象的でわかりにくいかも知れません。もう少しくだいておけば,ヨーロッパ・キリスト教社会/国家/文化/言語/思想・哲学/歴史/というように細分化して考えてみるとわかりやすいでしょう。もっと言ってしまえば,ユダヤ・キリスト教のものの見方や考え方,そして,そこから生みだされてくる法律や制度や組織と言ってもいいでしょう。
そのように考えてきたときに,はたとわたしの胸を打つものがありました。それは,オリンピック・ムーブメントとはいったいなにであったのか,という問いでした。問いが浮上するということは,その問いを浮上させる答えも同時に浮上している,ということでもあります。その答えとは以下のとおりです。
オリンピック・ムーブメントはヨーロッパ・キリスト教文化圏による世界制覇のための一つの文化装置ではなかったか,と。
クーベルタンが最初からこのことを意図していたとは考えられません。クーベルタン自身は,きわめて素朴な,のどかな青少年教育の一環としてオリンピック・ムーブメントを位置づけていたはずです。その証拠には,1924年のオリンピック・パリ大会に招待されて開会式をみたあと,「わたしの考えていたオリンピックはこんなものではなかった」と失望を語り,以後,オリンピックに背を向けたと伝えられているからです。そして,同時に,パリ大会直後のIOC総会ではオリンピック憲章の大幅な改正が承認され,オリンピック・ムーブメントはあらたなステージに一歩を進めることになります。そこから,1936年のベルリン大会を経て,こんにちのオリンピック・ムーブメントまでは一直線といっていいでしょう。
つまり,オリンピック・ムーブメントは創始者のクーベルタンの意思とは無縁のところで,一人歩きをはじめていたということです。そして,1924年以後は,IOCを構成する主要メンバーであるヨーロッパ・キリスト教文化圏から選出された理事たちの思いのままに,オリンピック・ムーブメントは演出されることになるからです。
その変化をもののみごとに示しているのは,たとえば,「オリンピックは参加することに意義がある」というステージから,「より速く,より高く,より強く」というオリンピックのモットーへと進展し,やがてはメダル獲得競争へと変身していく,この事実にもみることができます。つまり,開催の主体が都市から国家へと傾斜し,ナショナリズムの色彩が一気に強くなることにも,オリンピック・ムーブメントの大きな変容をみることができます。
こうした動向は,スポーツという名のもとでの勝利至上主義を生み出します。勝つことは「正義」である,と。そして,弱肉強食を合理化する上で眼にみえないけれども,きわめて大きな影響力をもつことになります。すなわち,戦争の論理とのみごとなまでの符合であり,共鳴・共振です。
言ってしまえば,戦争とオリンピックは車の両輪のようにして,第一次世界大戦,第二次世界大戦を通過して,ますます「勝つ」ことだけが正義として定着していくことになります。その結果,メダル獲得競争は国力の反映を意味し,オリンピックは一種の代理戦争となりはてた,と言っても過言ではないでしょう。
こうしたオリンピック・ムーブメントを支えた理念の一つは「自由」の獲得であり,「自由」の理念を世界に普及させることにありました。ですから,近代スポーツ競技は「自由競争」の名のもとに合理化され,多くの支持を得ることになります。つまり,同じ条件のもとで,同じアリーナでの「自由競争」が最大の「売り」になりました。
一見したところ,まことに理路整然としていて,なんら付け入る隙がないようにみえます。しかし,そこには大きな落とし穴が待ち受けていました。なぜなら,同じ条件のもとでの「自由競争」などということは,ことばの綾であって,実情はとてもとてもそんな理想とはほど遠いものだったからです。それはいまも変わりません。それどころか,先進国と途上国の間の格差はますます広がるばかりです。
つまり,スポーツは,いまや単なるスポーツではありません。まさに国力を反映させる映し鏡であると言ってよいでしょう。端的に言ってしまえば,金と最先端科学技術をどこまでスポーツに注ぎ込むことができるか,その競争になっているということです。
かくして,スポーツの世界にも科学的合理主義が神のごとく君臨し,生き物であるはずのアスリートたちの人間性には「盲目」のまま,ますますアスリートたちがロボット化していくことに,なんの矛盾も感じない世界が広がっています。それどころか加速さえされているというべきでしょう。いささか飛躍した話に聞こえるかもしれません。しかし,ジャン=ピエール・デュピュイの『聖なるものの刻印』を通過した人間にとっては,ごく当たり前の話にすぎません。
このように考えてみますと,オリンピック・ムーブメントは,キリスト教文化圏が生みだした「科学的合理主義」による世界制覇のための一つの文化装置であった,というわたしの仮説がほぼ間違いない,というところに到達するのではないでしょうか。
いささか荒っぽい論法になってしまいましたが,この各論は,また別の機会に書いてみたいと思います。ということで,今日のところはここまで。
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