本場の,生のエイサーを見たいと思っていました。初めて,本場の,生のエイサーを見たのは数年前の渡嘉敷島でした。スペインのバスク大学からのお客さんたちと一緒でした。かれらとは,「日本・バスク国際セミナー」をとおして顔なじみでしたので,一緒に楽しく見学しました。終わってから民宿で夜遅くまで「エイサー」論議で盛り上がりました。わたしにとっても,深く考えるところがあり,とてもいい経験でした。
それ以外では,東京のデパートなどでの沖縄バザールの催し物の一つとして,数人の人によるエイサーを時折,見かけるだけでした。しかも,この人たちはほとんどセミプロで,沖縄バザールと一緒に各地を移動しているようでした。人数は少ないけれども,とても気合の入った演技で,見るたびに感動していました。そして,「エイサー」とはいったいなにか,と考えてきました。
あとは,YOUTUBEで流れているエイサーを,気が向くと開いて眺めていました。ひとくちにエイサーと言っても,それを演ずる人びとの住む地域によって,ずいぶんと異なります。とても派手な衣装に身を固めて,大きな動作ではなばなしく演ずる地域もあれば,地味な衣装で,静かに祈りにも似たエイサーを演ずる地域もあります。この地域ごとに違うエイサーとはなにか,とずっと考えてきました。
たまたま,ひめゆり平和記念資料館の見学を終えた帰路,那覇空港に近い奥武山スポーツ公園でエイサー祭りをやっていると知り,即決でそこに立ち寄ることにしました。すでに,夕闇が迫る時刻でした。行ってみると,野球場でやっているとのこと。入場券を購入して入ってみると,ライトが煌々と輝いていて,すでにスタンドにはかなり多くの人たちがびっしりと座って,飲み食いをしながらエイサーを見物していました。
日時:2014年8月24日(日)16:00~21:00
場所:那覇市奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)
エイサーが一同に集う!!青年たちの甲子園!
入場したときにもらったリーフレットをみると,前日の23日(土)にも〔創作・郷土芸能の部〕というプログラムが行われたことがわかります。二日間にわたって「青年ふるさとエイサー祭り」が,どうやら毎年,夏の終わりのシーズン・オフの最後の催し物として行われてきて,偶然にも「第50回」という記念の年に出くわした,という次第です。
どの地域の青年会の演ずるエイサーも,それぞれに特徴があって,その意味の違いなどがわかるともっと楽しめたのでしょうが,なにせ,飛び込みですのであまり詳しいことはわかりません。大づかみのところの知識としては,お盆のときに祖先を迎え・送る儀礼がそもそもの基だ,と聞いています。あとは,白塗りの道化はチョンダラーではないか,ということ。チョンダラーは京太郎の沖縄訛りで,京都出身の芸人が沖縄までたどりついて,その芸の一部が継承されたのでは・・・ということくらいです。上り旗は地域の所在を示し,そのすぐ後ろを瓶を担いだ二人がつづきます。その瓶には泡盛が入っていて,いわゆる祭りの振る舞い酒だったようです。いまでは,形骸化してしまって,瓶のようなものを担いでいますが,踊りの激しさからすれば,たぶん空っぽか,それともつくりものではないかと思います。
それと,もう一つのルーツにまつわる話としては,一遍上人がはじめたと言われる踊り念仏があります。もし,一遍上人の踊り念仏が流れてきたのだとすれば,これは相当に激しい踊りであっていいことになります。なぜなら,踊り念仏の発端は,ほとんど飢餓状態で旅をつづけていた一遍上人とその弟子たちが,ある日,突然,迫りくる死を目前にして踊り始め,ほとんどトランス状態(憑依)になって踊ったと伝わっているからです。言ってしまえば,死と隣り合わせの踊りです。その系譜がエイサーに流れているとしたら,これはとても興味深いことになります。一遍上人は時宗の開祖で,阿弥陀仏のお札を全国に配ってあるいた人として知られています。その時宗の人がお札を持って沖縄までやってきたとしたら,これまた面白い話だと思います。なぜなら,沖縄には,いわゆる仏教が本土のようには普及しなかったからです。が,そのほんのわずかな仏教の一つの宗派が伝承していた踊り念仏が沖縄にまで達していたとしたら,これも凄いことだと思います。
が,また一方では,沖縄にはミルクさんという存在がいまでも親しまれています。それは,弥勒菩薩の弥勒のことだそうです。しかし,なぜ,弥勒菩薩の存在が沖縄に伝わったのか,これも興味が湧いてきます。弥勒菩薩は困った人がいると浄土の世界から世俗の世界に降りてきて救済してくれる仏さまとして知られています。ですから,弥勒信仰は宗派を超えて,広く普及していったと言われています。それが,沖縄にまで達していたということなのでしょう。
エイサーには,このほかにもいろいろの文化要素が入り交じっているように思います。たとえば,太鼓や鐘を踊りながら打ち鳴らすやり方は,韓国の伝統芸能とよく似ています。そのもとは,ひょっとしたら中国かも知れません。沖縄と中国との古くからの交流史を考えてみますと,そんな気もしてきます。たぶん,エイサーにはもっともっと多くの文化要素が組み込まれ,沖縄的に消化吸収され,一種独特の文化としての体裁をもつようになったのだろう,と推測されます。
こんなことを考えながら,第50回記念青年ふるさとエイサー祭りを堪能しながら眺めていました。このようなエイサーという沖縄に固有の文化が,ウチナンチューとしてのアイデンティティを支える重要な「根」の一つになっているのだろうなぁ,などと考えていました。沖縄の芸能の奥は深いだけではなく,きわめて幅が広く,しかも,日常生活のなかにいまも生きている,この事実には注目していきたいと思っています。カチャーシーなどは,キャンプ・シュワブゲート前の抗議集会でも踊られています。政治と祭りが,いまも同居している,としみじみ思います。
最後に,プログラムの最終を飾ったうるま市平安名青年会の踊ったエイサーが,わたしの眼にはとても印象深く映りました。それは,全体として,とても静かに,丁寧に踊られていました。まるで,エイサー全体が「祈り」そのものではないか,と思ったほどです。衣装もとても地味で,踊りの所作も派手なものではなく,それでいてどこかにため込まれたエネルギーがふつふつとわき出てくるような,そんな印象をもちました。これが,ひょっとしたら,エイサーの原点に近い形態なのかな,と考えたりしました。
来年もこの時期にきて,〔創作・郷土芸能の部〕も合わせて二日間,この「青年ふるさとエイサー祭り」を楽しんでみたい,といまから楽しみにしています。
最後の締めは,いつものようにカチャーシー。大勢の人がグラウンドに降りていって,エイサーの演者たちと一緒になってカチャーシー。ウチナンチューが一つになれる文化。これぞ,沖縄の「根」の根幹にある,と言っていいでしょう。
それ以外では,東京のデパートなどでの沖縄バザールの催し物の一つとして,数人の人によるエイサーを時折,見かけるだけでした。しかも,この人たちはほとんどセミプロで,沖縄バザールと一緒に各地を移動しているようでした。人数は少ないけれども,とても気合の入った演技で,見るたびに感動していました。そして,「エイサー」とはいったいなにか,と考えてきました。
あとは,YOUTUBEで流れているエイサーを,気が向くと開いて眺めていました。ひとくちにエイサーと言っても,それを演ずる人びとの住む地域によって,ずいぶんと異なります。とても派手な衣装に身を固めて,大きな動作ではなばなしく演ずる地域もあれば,地味な衣装で,静かに祈りにも似たエイサーを演ずる地域もあります。この地域ごとに違うエイサーとはなにか,とずっと考えてきました。
たまたま,ひめゆり平和記念資料館の見学を終えた帰路,那覇空港に近い奥武山スポーツ公園でエイサー祭りをやっていると知り,即決でそこに立ち寄ることにしました。すでに,夕闇が迫る時刻でした。行ってみると,野球場でやっているとのこと。入場券を購入して入ってみると,ライトが煌々と輝いていて,すでにスタンドにはかなり多くの人たちがびっしりと座って,飲み食いをしながらエイサーを見物していました。
日時:2014年8月24日(日)16:00~21:00
場所:那覇市奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)
エイサーが一同に集う!!青年たちの甲子園!
入場したときにもらったリーフレットをみると,前日の23日(土)にも〔創作・郷土芸能の部〕というプログラムが行われたことがわかります。二日間にわたって「青年ふるさとエイサー祭り」が,どうやら毎年,夏の終わりのシーズン・オフの最後の催し物として行われてきて,偶然にも「第50回」という記念の年に出くわした,という次第です。
どの地域の青年会の演ずるエイサーも,それぞれに特徴があって,その意味の違いなどがわかるともっと楽しめたのでしょうが,なにせ,飛び込みですのであまり詳しいことはわかりません。大づかみのところの知識としては,お盆のときに祖先を迎え・送る儀礼がそもそもの基だ,と聞いています。あとは,白塗りの道化はチョンダラーではないか,ということ。チョンダラーは京太郎の沖縄訛りで,京都出身の芸人が沖縄までたどりついて,その芸の一部が継承されたのでは・・・ということくらいです。上り旗は地域の所在を示し,そのすぐ後ろを瓶を担いだ二人がつづきます。その瓶には泡盛が入っていて,いわゆる祭りの振る舞い酒だったようです。いまでは,形骸化してしまって,瓶のようなものを担いでいますが,踊りの激しさからすれば,たぶん空っぽか,それともつくりものではないかと思います。
それと,もう一つのルーツにまつわる話としては,一遍上人がはじめたと言われる踊り念仏があります。もし,一遍上人の踊り念仏が流れてきたのだとすれば,これは相当に激しい踊りであっていいことになります。なぜなら,踊り念仏の発端は,ほとんど飢餓状態で旅をつづけていた一遍上人とその弟子たちが,ある日,突然,迫りくる死を目前にして踊り始め,ほとんどトランス状態(憑依)になって踊ったと伝わっているからです。言ってしまえば,死と隣り合わせの踊りです。その系譜がエイサーに流れているとしたら,これはとても興味深いことになります。一遍上人は時宗の開祖で,阿弥陀仏のお札を全国に配ってあるいた人として知られています。その時宗の人がお札を持って沖縄までやってきたとしたら,これまた面白い話だと思います。なぜなら,沖縄には,いわゆる仏教が本土のようには普及しなかったからです。が,そのほんのわずかな仏教の一つの宗派が伝承していた踊り念仏が沖縄にまで達していたとしたら,これも凄いことだと思います。
が,また一方では,沖縄にはミルクさんという存在がいまでも親しまれています。それは,弥勒菩薩の弥勒のことだそうです。しかし,なぜ,弥勒菩薩の存在が沖縄に伝わったのか,これも興味が湧いてきます。弥勒菩薩は困った人がいると浄土の世界から世俗の世界に降りてきて救済してくれる仏さまとして知られています。ですから,弥勒信仰は宗派を超えて,広く普及していったと言われています。それが,沖縄にまで達していたということなのでしょう。
エイサーには,このほかにもいろいろの文化要素が入り交じっているように思います。たとえば,太鼓や鐘を踊りながら打ち鳴らすやり方は,韓国の伝統芸能とよく似ています。そのもとは,ひょっとしたら中国かも知れません。沖縄と中国との古くからの交流史を考えてみますと,そんな気もしてきます。たぶん,エイサーにはもっともっと多くの文化要素が組み込まれ,沖縄的に消化吸収され,一種独特の文化としての体裁をもつようになったのだろう,と推測されます。
こんなことを考えながら,第50回記念青年ふるさとエイサー祭りを堪能しながら眺めていました。このようなエイサーという沖縄に固有の文化が,ウチナンチューとしてのアイデンティティを支える重要な「根」の一つになっているのだろうなぁ,などと考えていました。沖縄の芸能の奥は深いだけではなく,きわめて幅が広く,しかも,日常生活のなかにいまも生きている,この事実には注目していきたいと思っています。カチャーシーなどは,キャンプ・シュワブゲート前の抗議集会でも踊られています。政治と祭りが,いまも同居している,としみじみ思います。
最後に,プログラムの最終を飾ったうるま市平安名青年会の踊ったエイサーが,わたしの眼にはとても印象深く映りました。それは,全体として,とても静かに,丁寧に踊られていました。まるで,エイサー全体が「祈り」そのものではないか,と思ったほどです。衣装もとても地味で,踊りの所作も派手なものではなく,それでいてどこかにため込まれたエネルギーがふつふつとわき出てくるような,そんな印象をもちました。これが,ひょっとしたら,エイサーの原点に近い形態なのかな,と考えたりしました。
来年もこの時期にきて,〔創作・郷土芸能の部〕も合わせて二日間,この「青年ふるさとエイサー祭り」を楽しんでみたい,といまから楽しみにしています。
最後の締めは,いつものようにカチャーシー。大勢の人がグラウンドに降りていって,エイサーの演者たちと一緒になってカチャーシー。ウチナンチューが一つになれる文化。これぞ,沖縄の「根」の根幹にある,と言っていいでしょう。
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