わたしの愛読書の一つに『談』という雑誌があります。発行所は公益財団法人たばこ総合研究センター〔TASC〕。むかしの専売公社のこんにち版。編集長は佐藤真さん。旧専売公社が発行する一風変わった雑誌ですが,なかなかどうして中味は濃い。すこぶる濃いのです。それでついつい読んでいるうちに,すっかりとりこになってしまいました。言ってみれば,編集長の佐藤真さんの術中にはまってしまったということです。
内容は時代の最先端をゆくアカデミックな研究の現状と未来像を描こうとする,きわめてハードなものです。しかもその領域は,人文系の思想・哲学をはじめ,社会科学系のものから自然科学系のものにいたるまで,さらにはアートや科学技術の現状を照らし出すことまで,幅広くテーマとして取り上げられています。佐藤真さんのアンテナの広さと高さには,毎回驚かされています。
その『談』という雑誌は年に3回発行で,今回(7月刊行)が100号の記念号になります。ということは,すでに30年以上の長きにわたってこの雑誌が発行されていることになります。地味な仕事ですが,立派な実績というべきでしょう。
さて,こんな前置きを語っていると際限がなくなりますので,本題に入ります。
今回が100号ということで,一度,原点に立ち返って足元を見つめなおすという意味も籠めて「人間,もう一度見つけだす」という特集を組んだそうです(編集後記による)。それで佐藤さんが選んだ論者は,中村桂子,國分功一郎,鷲田清一さんの3人。その3人に佐藤さんがインタビューをして,それぞれの論者の核心にふれるエキスを引き出す,という仕掛けになっています。
中村桂子さんのテーマは,人間は生き物であり,自然の中にある・・・科学者と共につくる生命論的世界観,というものです。わたしの好みからすれば,この人の「人間は自然の中にある生き物」だ,という持論に賛成で,これまでの単行本(たとえば,『科学者が人間であること』,岩波新書,2013年)も併せて,今回の論調も大満足でした。人間が自然存在であるという,あまりにも当たり前のことを,わたしたちは近代という時代をとおして忘れてしまいました。そのために,こんにちの人間不在のこの混迷をもたらしてしまったのですから,もう一度,「生き物」という原点に立ち返ってやり直そう,という中村さんの主張にこころからエールを送りたいと思います。
新進気鋭の哲学者・國分功一郎さんのテーマは,人間の自由,あるいは思考のための退屈のススメ,というものです。人間の自由を語る國分さんの視座は,これまでの論者にはみられなかった新しさが感じられました。それは,國分さんの著書『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社,2011年)の中ですでに展開された論理でもあるのですが,そのキー・ワードは「楽しみ」です。この「楽しみ」が社会を改革していく原動力になる,と主張されています。このスタンスはとても魅力的で,これからのスポーツ文化を考えていく上でも,多くのヒントを与えてくれるものでした。少し掘り下げて考えてみたいと思います。
最後の鷲田清一さんのテーマは,「人間的」のなかには,「非人間的」が内蔵されている,というものです。このテーマにピンとくるものがあって,読み始めたのですが,わたしの予想とはやや違った論が展開されていて,ウーンと思わず考え込んでしまいました。それは,佐藤さんの問いかけが,鷲田さんの近著『<ひと>の現象学』(筑摩書房,2013年)で語られているヒューマニズムから入ったからだろう,と想像しています。そして,鷲田さんはこのヒューマニズムについて懇切丁寧に解説をされています。そして,ヒューマニズムのグローバリゼーションの問題が取り上げられ,難民の話題へと展開していきます。そして,原発問題をとりあげながら,わたしたちもまた難民予備軍なのだ,と結論つげていらっしゃいます。もちろん,この論旨に異論はないのですが,わたしの期待と違う論の展開に,なにかひとつもの足りないものが残りました。
しかしながら,いつものように冒頭に提示される佐藤真さんの「editor's note」(3・11以後の「人間」)が秀逸で,とても勉強になりました。第100号を編むことの意味が,ヨーロッパの哲学の系譜をふまえて,みごとに結実しています。みごとな模範答案というべきでしょう。ただ,ないものねだりをすれば,東洋的な思想・哲学,たとえば,仏教思想のような視座が加わると,もっと厚みのある論考になり,わたしの期待にも応えてくれることになっただろう,という感想をいだきました。
このあたりのことは,いつか,佐藤真さんと直接お会いしてお話ができればなぁ,と密かに考えているところです。あるいは,わたしの主宰する東京例会にきていただいて,お話を伺うという方法もあるなぁ,と思っています。
いずれにしても,佐藤さんがおっしゃるように,いま,「人間とはなにか」という根源的な問いに立ち返って,もう一度,出直すことが喫緊の課題である,という点ではまったく同感です。そして,わたしが仮説としていま考えていることは,ジョルジュ・バタイユの思想(たとえば『宗教の理論』)と仏教思想はきわめて近いところにあり,しかも,人間とはなにか,を考える上での洞察の深さも秀逸のものだ,ということです。そして,そこにジャン=ピエール・デュピュイの『聖なるものの刻印』を重ね合わせることによって,現代の人間が抱え込んでいる,つまり,わたしたち自身が当面している「破局」の問題が浮かび上がってきます。
「人間とはなにか」は永遠のテーマですが,だからこそ,つねに問い続けることが重要なのだと思います。とりわけ,科学的合理性のなかに埋没してしまい,歯止めのきかない「暴走」状態に陥っている現在のわたしたちにとっては・・・・。
内容は時代の最先端をゆくアカデミックな研究の現状と未来像を描こうとする,きわめてハードなものです。しかもその領域は,人文系の思想・哲学をはじめ,社会科学系のものから自然科学系のものにいたるまで,さらにはアートや科学技術の現状を照らし出すことまで,幅広くテーマとして取り上げられています。佐藤真さんのアンテナの広さと高さには,毎回驚かされています。
その『談』という雑誌は年に3回発行で,今回(7月刊行)が100号の記念号になります。ということは,すでに30年以上の長きにわたってこの雑誌が発行されていることになります。地味な仕事ですが,立派な実績というべきでしょう。
さて,こんな前置きを語っていると際限がなくなりますので,本題に入ります。
今回が100号ということで,一度,原点に立ち返って足元を見つめなおすという意味も籠めて「人間,もう一度見つけだす」という特集を組んだそうです(編集後記による)。それで佐藤さんが選んだ論者は,中村桂子,國分功一郎,鷲田清一さんの3人。その3人に佐藤さんがインタビューをして,それぞれの論者の核心にふれるエキスを引き出す,という仕掛けになっています。
中村桂子さんのテーマは,人間は生き物であり,自然の中にある・・・科学者と共につくる生命論的世界観,というものです。わたしの好みからすれば,この人の「人間は自然の中にある生き物」だ,という持論に賛成で,これまでの単行本(たとえば,『科学者が人間であること』,岩波新書,2013年)も併せて,今回の論調も大満足でした。人間が自然存在であるという,あまりにも当たり前のことを,わたしたちは近代という時代をとおして忘れてしまいました。そのために,こんにちの人間不在のこの混迷をもたらしてしまったのですから,もう一度,「生き物」という原点に立ち返ってやり直そう,という中村さんの主張にこころからエールを送りたいと思います。
新進気鋭の哲学者・國分功一郎さんのテーマは,人間の自由,あるいは思考のための退屈のススメ,というものです。人間の自由を語る國分さんの視座は,これまでの論者にはみられなかった新しさが感じられました。それは,國分さんの著書『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社,2011年)の中ですでに展開された論理でもあるのですが,そのキー・ワードは「楽しみ」です。この「楽しみ」が社会を改革していく原動力になる,と主張されています。このスタンスはとても魅力的で,これからのスポーツ文化を考えていく上でも,多くのヒントを与えてくれるものでした。少し掘り下げて考えてみたいと思います。
最後の鷲田清一さんのテーマは,「人間的」のなかには,「非人間的」が内蔵されている,というものです。このテーマにピンとくるものがあって,読み始めたのですが,わたしの予想とはやや違った論が展開されていて,ウーンと思わず考え込んでしまいました。それは,佐藤さんの問いかけが,鷲田さんの近著『<ひと>の現象学』(筑摩書房,2013年)で語られているヒューマニズムから入ったからだろう,と想像しています。そして,鷲田さんはこのヒューマニズムについて懇切丁寧に解説をされています。そして,ヒューマニズムのグローバリゼーションの問題が取り上げられ,難民の話題へと展開していきます。そして,原発問題をとりあげながら,わたしたちもまた難民予備軍なのだ,と結論つげていらっしゃいます。もちろん,この論旨に異論はないのですが,わたしの期待と違う論の展開に,なにかひとつもの足りないものが残りました。
しかしながら,いつものように冒頭に提示される佐藤真さんの「editor's note」(3・11以後の「人間」)が秀逸で,とても勉強になりました。第100号を編むことの意味が,ヨーロッパの哲学の系譜をふまえて,みごとに結実しています。みごとな模範答案というべきでしょう。ただ,ないものねだりをすれば,東洋的な思想・哲学,たとえば,仏教思想のような視座が加わると,もっと厚みのある論考になり,わたしの期待にも応えてくれることになっただろう,という感想をいだきました。
このあたりのことは,いつか,佐藤真さんと直接お会いしてお話ができればなぁ,と密かに考えているところです。あるいは,わたしの主宰する東京例会にきていただいて,お話を伺うという方法もあるなぁ,と思っています。
いずれにしても,佐藤さんがおっしゃるように,いま,「人間とはなにか」という根源的な問いに立ち返って,もう一度,出直すことが喫緊の課題である,という点ではまったく同感です。そして,わたしが仮説としていま考えていることは,ジョルジュ・バタイユの思想(たとえば『宗教の理論』)と仏教思想はきわめて近いところにあり,しかも,人間とはなにか,を考える上での洞察の深さも秀逸のものだ,ということです。そして,そこにジャン=ピエール・デュピュイの『聖なるものの刻印』を重ね合わせることによって,現代の人間が抱え込んでいる,つまり,わたしたち自身が当面している「破局」の問題が浮かび上がってきます。
「人間とはなにか」は永遠のテーマですが,だからこそ,つねに問い続けることが重要なのだと思います。とりわけ,科学的合理性のなかに埋没してしまい,歯止めのきかない「暴走」状態に陥っている現在のわたしたちにとっては・・・・。
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