正直に言って,失望。とってつけたような「Part Four」。「自由」と「愛」ということばを多用し,なにか崇高な理想を描いているかにみえるが,中味は空疎。理が先走ってしまって空中分解。自滅してしまった,というべきか。
もう,ずいぶん前の話になるが,そう,1974年版の「Part Three」までの『かもめのジョナサン』を読んだときは,素直に感動した。これは,まるでスポーツのトップ・アスリートたちが到達するであろう「ゾーン」の世界を描いたものだ,と感じたからである。ちょうど,「ものの豊かさ」がゆきわたりはじめ,物欲に眼がくらんだ人びとの精神の荒廃が,なにかと取り沙汰された時代だった。そして,アメリカからはヒッピー文化が伝わり,日本でも一種のブームを呼んでいたころだ。「こころの貧しさ」に警鐘を鳴らす本もまた出回りはじめたころだった。
だからこの本は不思議な魅力を備えた本として,多くの読者を獲得した。そして,絶賛された。わたしもその中のひとりだった。だから,ちょうどそのころ連載していた「文学にみるスポーツ」の題材としても取り上げた。つまり,ジョナサンのストイックなまでに飛行技術を探求する姿が,トップ・アスリートたちの姿と二重写しになってみえてきたからである。それはそれで一つの読み方として間違っていたとは思わない。
しかし,今回,「Part One」から「Part Four」まで一気に読んだ感想は,「失望」そのものだった。それは「Part One」を読み始めた冒頭から,違和感が浮き彫りになって,その違和感がしつこく最後までとりついて離れようとはしなかった。
その違和感とは,ジョナサンが仲間の群れのかもめたちを見る視線,と言っていいだろう。つまり,群れのかもめたちが,ただ,餌をわがものとするためだけに飛行することの無意味さに気づいていない,という「上から目線」にはじまる。それは,くる日もくる日もただ餌をわがものとするためだけに飛行し,ただ,それだけの繰り返しで生涯を終えていくことの虚しさを,「無意味だ」と言って切って捨てる描写にある,と言い換えてもいい。
著者のリチャード・バックの頭には,「食べる」ことしか,生き物の最重要課題はないかのように,それ以外のことはいっさい触れようともしない。「生きる」とはどういうことか,という根源的な問いが著者の頭にはあって,それに対する疑問をジョナサンにしきりに語らせる。ただ「食べる」ことのために飛行するのなら,「生きる」に値しない,と。そして,平凡な日々を送る群れの仲間を「上から目線」で卑下し,群れを無視して単独行動をとりはじめる。そして,ついにはその群れから追放されることを,勝ち誇ったかのように描く。つまり,「自由」を獲得したのだ,と言わぬばかりに・・・。
しかし,それは違うのではないか,とわたし。
かもめにとって飛行するのは,まずは「食べる」ことを確保するためだ。しかし,それだけではない。かもめの生涯は,「食べる」「眠る」「生殖する」の三つが少なくともベースにあって,これがかもめの「生」の基本である(人間も生き物という点では同じ)。このことと,著者が主張する「自由」と「愛」は切っても切れない関係にある,とわたしは考える。しかし,リチャード・バックは「食べる」ことだけを取り上げ,それで「よし」とする。
もっとはっきり言ってしまおう。リチャード・バックは「生きる」ことの意味を追求しつつ,「セックス」についてはなにも語らない。なぜか? そこには二つの理由があるように思う。一つは,キリスト教的世界観にあってはセックスは「原罪」であり,一種の「タブー」であること。もう一つは,ヨーロッパの伝統的な「哲学」にあってはセックスは思考の対象外であること。リチャード・バックもまた,その世界にどっぷりと浸かり,それでよしとしている,とわたしは受け止める。言ってしまえば,ヨーロッパ・キリスト教文化圏に生きる人間としての「制約」を,無意識のうちに体現しているのだ,と。
1974年版からは,すでに40年という時間が経過している。その間,わたし自身の世界観や人生観(思想・哲学もふくめて)もまた大きく変化した。とりわけ,「9・11」を経て,「3・11」を通過したいま,未来のない「破局」と向き合って「生きる」ことを余儀なくされ,その意味を根源から日々,問い続けなくてはならない,そういう「とき」に身をゆだねるしかない,となっては・・・・。
しかし,著者リチャード・バックもまた,こんにちの「破局」には気づいているのである。この完成版の序文の最後のところに,つぎのように書き記している。引いておこう。
「・・・・・カモメたちは,世界の自由の終わりを見たのか?
ついにあるべきところに置かれた最終章 Part Four は,そうは言わないだろう。誰も未来を知らなかった時に書かれたものなのだから。しかし,いまわたしたちはその未来を知ってしまっているのである」。
完成版のPart Four が,とってつけたような陳腐なものにみえる原因はここにあったのだ。著者も承知の上で,この最終章を「40年前」に書いたそのままを,「とってつけたように」加えたのである。なぜ,こんなことをしたのか。なぜ,40年後の「いま」を踏まえて修正を加え「完成」としなかったのか。理解不能である。
わたしが「失望」を感じた概要は以上のとおりである。
なのに,メディアはこぞって,この「完成版」を持ち上げ,絶賛する。なぜなのか。わたしにはこのことの方が「不気味」(Unheimlichkeit)である。そして,なぜか,空恐ろしくなってくる。
もう,ずいぶん前の話になるが,そう,1974年版の「Part Three」までの『かもめのジョナサン』を読んだときは,素直に感動した。これは,まるでスポーツのトップ・アスリートたちが到達するであろう「ゾーン」の世界を描いたものだ,と感じたからである。ちょうど,「ものの豊かさ」がゆきわたりはじめ,物欲に眼がくらんだ人びとの精神の荒廃が,なにかと取り沙汰された時代だった。そして,アメリカからはヒッピー文化が伝わり,日本でも一種のブームを呼んでいたころだ。「こころの貧しさ」に警鐘を鳴らす本もまた出回りはじめたころだった。
だからこの本は不思議な魅力を備えた本として,多くの読者を獲得した。そして,絶賛された。わたしもその中のひとりだった。だから,ちょうどそのころ連載していた「文学にみるスポーツ」の題材としても取り上げた。つまり,ジョナサンのストイックなまでに飛行技術を探求する姿が,トップ・アスリートたちの姿と二重写しになってみえてきたからである。それはそれで一つの読み方として間違っていたとは思わない。
しかし,今回,「Part One」から「Part Four」まで一気に読んだ感想は,「失望」そのものだった。それは「Part One」を読み始めた冒頭から,違和感が浮き彫りになって,その違和感がしつこく最後までとりついて離れようとはしなかった。
その違和感とは,ジョナサンが仲間の群れのかもめたちを見る視線,と言っていいだろう。つまり,群れのかもめたちが,ただ,餌をわがものとするためだけに飛行することの無意味さに気づいていない,という「上から目線」にはじまる。それは,くる日もくる日もただ餌をわがものとするためだけに飛行し,ただ,それだけの繰り返しで生涯を終えていくことの虚しさを,「無意味だ」と言って切って捨てる描写にある,と言い換えてもいい。
著者のリチャード・バックの頭には,「食べる」ことしか,生き物の最重要課題はないかのように,それ以外のことはいっさい触れようともしない。「生きる」とはどういうことか,という根源的な問いが著者の頭にはあって,それに対する疑問をジョナサンにしきりに語らせる。ただ「食べる」ことのために飛行するのなら,「生きる」に値しない,と。そして,平凡な日々を送る群れの仲間を「上から目線」で卑下し,群れを無視して単独行動をとりはじめる。そして,ついにはその群れから追放されることを,勝ち誇ったかのように描く。つまり,「自由」を獲得したのだ,と言わぬばかりに・・・。
しかし,それは違うのではないか,とわたし。
かもめにとって飛行するのは,まずは「食べる」ことを確保するためだ。しかし,それだけではない。かもめの生涯は,「食べる」「眠る」「生殖する」の三つが少なくともベースにあって,これがかもめの「生」の基本である(人間も生き物という点では同じ)。このことと,著者が主張する「自由」と「愛」は切っても切れない関係にある,とわたしは考える。しかし,リチャード・バックは「食べる」ことだけを取り上げ,それで「よし」とする。
もっとはっきり言ってしまおう。リチャード・バックは「生きる」ことの意味を追求しつつ,「セックス」についてはなにも語らない。なぜか? そこには二つの理由があるように思う。一つは,キリスト教的世界観にあってはセックスは「原罪」であり,一種の「タブー」であること。もう一つは,ヨーロッパの伝統的な「哲学」にあってはセックスは思考の対象外であること。リチャード・バックもまた,その世界にどっぷりと浸かり,それでよしとしている,とわたしは受け止める。言ってしまえば,ヨーロッパ・キリスト教文化圏に生きる人間としての「制約」を,無意識のうちに体現しているのだ,と。
1974年版からは,すでに40年という時間が経過している。その間,わたし自身の世界観や人生観(思想・哲学もふくめて)もまた大きく変化した。とりわけ,「9・11」を経て,「3・11」を通過したいま,未来のない「破局」と向き合って「生きる」ことを余儀なくされ,その意味を根源から日々,問い続けなくてはならない,そういう「とき」に身をゆだねるしかない,となっては・・・・。
しかし,著者リチャード・バックもまた,こんにちの「破局」には気づいているのである。この完成版の序文の最後のところに,つぎのように書き記している。引いておこう。
「・・・・・カモメたちは,世界の自由の終わりを見たのか?
ついにあるべきところに置かれた最終章 Part Four は,そうは言わないだろう。誰も未来を知らなかった時に書かれたものなのだから。しかし,いまわたしたちはその未来を知ってしまっているのである」。
完成版のPart Four が,とってつけたような陳腐なものにみえる原因はここにあったのだ。著者も承知の上で,この最終章を「40年前」に書いたそのままを,「とってつけたように」加えたのである。なぜ,こんなことをしたのか。なぜ,40年後の「いま」を踏まえて修正を加え「完成」としなかったのか。理解不能である。
わたしが「失望」を感じた概要は以上のとおりである。
なのに,メディアはこぞって,この「完成版」を持ち上げ,絶賛する。なぜなのか。わたしにはこのことの方が「不気味」(Unheimlichkeit)である。そして,なぜか,空恐ろしくなってくる。
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