2014年8月11日月曜日

「八百長相撲擁護論」を雑誌『ひろばユニオン』に投稿しました。

 長年,温めてきた「八百長相撲擁護論」を,はじめて世に問うてみることにしました。実際に雑誌が刊行されるのは8月の20日すぎになると思います。ので,その予告編(要点)を書いてみたいと思います。

 投稿した雑誌は労働者学習センターが発行する『ひろばユニオン』です。この雑誌の8月号から「撃!スポーツ批評」という3ページのコラムの連載を依頼され,今回がその2回目の投稿ということになります。第一回目は,このブログにも紹介させていただきましたように,「サッカー熱狂症候群 なぜ熱くなる?」でした。

 この第一回目につづけて,今回は「八百長相撲擁護論」と題して投稿。実際に雑誌に掲載されるときには,このタイトルは使われなくて別のものになる可能性もあります。が,とりあえず,わたしの主張の主旨は「八百長相撲擁護」にあり,その理由・根拠(reason)を示すことにありました。

 その柱立ては,最初に八百長には大きく分けて2種類のものがあることを説き,つづいて八百長の語源を確認し,「谷風の人情相撲」を紹介し,大相撲は見世物興行であって近代スポーツ競技ではないことを提示し,力士は歌舞伎でいえば同じ役者同士の仲間であり,お互いに仲良しであることが前提であることを説き,片八百長や人情相撲は大相撲の世界には抜きがたく存在するものであること,しかも,それらが大相撲の奥行きの深さ,文化としての豊穣さを醸しだす,きわめて重要な文化装置でもあることを説き,最後に,日本の伝統芸能の一つである大相撲をヨーロッパ・キリスト教が生みだした近代スポーツ競技の論理で批判することはナンセンスであることを提示しておきました。

 これらを一つひとつ論じていくと,投稿した原稿と同じものになってしまいますので,ここでは説明が必要だと思われる重要なポイントだけを捕捉するにとどめたいと思います。

 まずは,八百長相撲には2種類あるということについて。一つは,金銭授受をともなう八百長相撲,もしくは,談合による八百長相撲,これらは犯罪であること。これらの八百長相撲は,もちろん排除しなくてはなりません。もう一つの八百長相撲は,片八百長,いわゆる人情相撲です。こちらの八百長相撲は,大相撲にとっては命綱にも等しい,きわめて重要な要素になっていること,つまりこの装置がうまく機能することによって大相撲は成立しているのだ,ということについて縷々説明を加え,こちらの八百長相撲を擁護する,というのがわたしのスタンスである,と。

 その上で,八百長ということばの語源を確認。こんにちの国語辞典には,八百長はわるい意味の語釈しか載っていないので,八百長=悪,というパターンが定着しているようです。が,それは辞典編集者の誤解,あるいは偏見によるものです。できれは,つぎの改訂版を出すときに訂正してくれるよう申しいれるつもりでいます(三省堂の『広辞林』のスポーツ担当の執筆者のひとりはわたしです)。

 八百長のもともとの意味は「手加減」です。八百長ということばそのものは,八百屋の長兵衛の通称がはじまりです。この八百屋の長兵衛さんこと八百長さんが囲碁友だちの大相撲の年寄り・伊勢の海五太夫さんと囲碁を打つときに手加減をして,勝ったり負けたりの互角の勝負を楽しんでいたことに由来します。しかし,ある時,八百長さんの囲碁の力量が並外れたものであることが発覚し,八百長の手加減がばれてしまいます。この「手加減」を拡大解釈して,伊勢の海をとおして相撲の世界に入り込んでいきます。その結果,いい意味の手加減が最初にあったのに,談合や金銭の授受をともなう「手加減」が加わってきて,もっぱら,悪い意味の手加減のことを「八百長」と呼ぶようになった,という次第です。

 しかし,江戸時代には「谷風の人情相撲」という逸話が残されるほどに,八百長は,場合によっては絶賛を浴びる立派な文化であり,大相撲の人気を支える重要な要素のひとつでもありました。ですから,さまざまな八百長相撲が手を変え品を変えして,大相撲の伝統を築いてきました。しかし,大相撲も近代化し,合理化して,とりわけ,昭和のはじめに天皇杯を賜杯されてからはあたかも神事であるかのように崇め奉られるようになります。このあたりから,八百長についての考え方や対応の仕方が大きく変化してきます。

 わけても,日本相撲協会が公益法人としての認可を受けることになると,さらなる合理化が求められることになりました。その結果,徹底的に八百長を排除することが,あたかも正義であるかのようにことは進展していきました。しかし,これは誤りです。大相撲を合理化してしまったら,単なる近代スポーツ競技と同じになってしまいます。味もそっけもない勝ち負けだけの世界になってしまいます。そうなったら,スペクタクルとしての興行は不可能になってしまいます。つまり,「がちんこ勝負」が支配するようになり,力士は怪我人ばかりになってしまうでしょう。

 現代の親方衆のなかでも,一度も八百長相撲をとらなかったと噂されているのは貴乃花親方だけだそうです。しかし,その貴乃花親方ですら,お兄ちゃんとの横綱対決の優勝決定戦では,みごとな八百長(片八百長)相撲をとりました。これはだれの眼にも明らかでしたが,だれひとりとして異論を唱える人はいませんでした。メディアも黙って黙認しました。もちろん,日本相撲協会もなんのコメントもしませんでした。それでいいのです。

 ですから,そんなに簡単に八百長相撲を根絶させることは,わたしからすれば不可能に近い話です。いな,不可能です。というより,片八百長に関しては見破られないように演出に工夫をこらし,見応えのある相撲を展開することの方が,相撲人気は上がってくると思います。かつての,栃錦と若乃花(初代)の八百長相撲は,それはそれはみごとなものでした。一分以上も土俵の上でくんずほぐれつしながらの熱戦を展開するのですから。それに引き換え,がちんこ勝負のときはあっけなく勝負がついてしまい,かえって味気ないほどでした。

 最後に,ヨーロッパ・キリスト教文化圏で生まれた近代スポーツ競技を支える近代合理主義の考え方,もっと言ってしまえば,科学的合理主義の視点からだけの,スポーツのグローバル化の路線で,大相撲を批判することがいかにトンチンカンなことであるか,あるいは,トチ狂っているか,を指摘して,この原稿を閉じました。人間は生き物であること,しかも,感情をともなった生き物であること,相手への思いやりのこころをもつ生き物であること,このことを忘れてはなりません。みんな仲良しの力士同士が,力を合わせて,裸で稽古をし,巡業をし,興行としての本場所をつとめる,そういうスペクタクルであることを忘れてはなりません。

 その意味で,手加減,片八百長,人情相撲については大切に温存すべきだ,というのがわたしの八百長相撲擁護論の骨子です。まだまだ,ことばが足りませんが,概要は理解していただけたのではないかと思います。あとは,刊行される予定の原稿でご確認いただければ・・・と思います。

 今日のところはここまで。
 

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