2014年8月31日日曜日

「ひめゆり平和記念資料館」を見学。映像資料に驚愕。戦争する人間の「愚かさ」がひしひしと・・・・。

 8月24日(日)の午後,沖縄のひめゆり平和記念資料館を訪ねました。長年の念願でした。思い返せば,もう,ずいぶん前のことになりますが,別のところで時間を消費してしまい,すでに夕刻になっていましたので,この資料館の入口周辺をちらりと歩いただけで通過してしまいました。それからずっと気がかりになっていました。が,今回,ようやくその念願が叶い,じっくりと時間をかけて見学させていただきました。


 とても綺麗な建物で,上の写真は資料館の入口を横から撮影したものです。左側が正面になります。芝や屋根の漆喰もきれいに手入れがされていて,とても清潔感に満ちていました。このひめゆり平和記念資料館を維持・管理している人たちの,密やかな,内に秘めた心意気のようなものが伝わってきました。この写真はそんなつもりで撮りました。


 正面入口の右側に建つ戦没者・学徒の名前を刻んだ立派な碑が,これです。その手前は,ここもまたひめゆり部隊が医療介護のためにに用いたガマの一つでしょう。こういうガマがあちこちに散在しています。沖縄の島全体が石灰岩が多く,このようなガマが自然にあちこちに出来上がったと聞いています。そこが,防空壕となり,医療施設となり,人びとの命を守る最後の砦となりました。が,このガマで多くの人びとの命が消えていきました。米軍の火炎放射器による攻撃や集団自決もこのガマの中でした。それを思うと,黙って通過するわけにはいきません。おのずから,般若心経が口をついてでてきてしまいました。


 入館したところでいただいたリーフレットの表です。ここにひめゆり平和記念資料館の概要が書かれています。沖縄本島の北部から米軍に追われて日本軍も学徒兵も一般市民も,夜道を這うようにして南下し,この辺りの森やガマを逃げまどった末の,沖縄戦終焉の地がこの周辺でした。ですから,この辺り一帯は多くの人びとの命が散っていった「聖なる地域」でもあります。このリーフレットを読みながら,そんな思いに駆られました。


 リーフレットの裏側です。この資料館の展示コーナーの説明図です。中央の中庭を取り囲むようにして展示室がしつらえられています。順路にしたがって左側から右回りに一巡すると再び入口のカタログなどの販売コーナーにもどってくるようになっています。館内の撮影は禁止されていましたので,どこも撮影することができませんでした。綺麗な中庭は撮影してもいいだろう,と思いましたがなんとなく気が引けて撮ることはできませんでした。

 展示の内容は素晴らしく,これを「撮影禁止」にする理由がわたしには理解できませんでした。日本の美術館や博物館,そして,資料館などのほとんどが展示物の撮影を禁止しています。しかし,ウィーンの美術史美術館のような有名な絵画がずらりと展示されているようなところでも,撮影はできるようになっています。ただし,フラッシュと三脚の使用は禁止です。つまり,プロのカメラマンが撮影し,それで収入を得ることを禁じているだけです。素人が,とりわけ,子どもたちが喜んで写真を撮ることは,むしろ推奨されてさえいます。なぜなら,写真を撮って,友人たちに見せることによって,美術館の楽しさを拡散してくれるからです。イギリスの大英博物館も撮影はOKです。ここは,ところどころに貴重な展示物があって,そこだけは禁止されていますが,それ以外はすべて撮影可です。そういう美術館や博物館の方がヨーロッパでは多いと思います。

 とりわけ,ひめゆり平和記念資料館のような,できるだけ多くの人びとに,ここで起きた悲劇の実態を知ってもらうための啓蒙を目的とした資料館であれば,なおさらのことだと思います。この点は,ひとつ,早急に検討していただきたいことだ,と痛感しながら展示物に見入りました。やはり,強烈な印象を残す展示物がいくつもありました。

 たとえば,慶良間諸島の中の渡嘉敷島への上陸作戦を開始したのは「3/26」という日にちの入った大きな地図がありました。そうか,沖縄上陸作戦のはじまりは1945年3月26日だったのか,とこれは強烈でした。なぜなら,この日はわたしの誕生日であり,わたしもまた愛知県豊橋市の東田国民学校一年生として,防空頭巾をかぶっていろいろの訓練を受けていた,それらの記憶とが,一瞬にして火花が散ったように結びつき,しばらくは震えながら,ぶつぶつと口ごもりながら呆然と立ちつくしていました。そして,少し落ち着いたところで,この日付の入った部分だけでも写真に収めたいという衝動が湧いてきました。が,それすら「館内撮影禁止」という威圧感に負け,諦めるしかありませんでした。

 撮影禁止の理由も根拠もわたしには理解できませんでしたので,大いに不満でした。写真というものは,瞬間の閃き,あるいは感動が引き金となって撮影されるものであり,それがその個人にとってはかけがえのない写真になります。ひめゆり平和記念資料館で,「3/26」が渡嘉敷島への上陸作戦開始の日であることを知ったよ,と言ってその写真を友人たちに拡散したい,この素朴な欲望が「禁止」されている,というわけです。この矛盾をどうか館長さん,できるだけ早く解消してくださるようお願いします。

 終わりの方の展示コーナーで流されていた映像資料は,わたしにとってはきわめつけの衝撃でした。米軍による上陸作戦の映像(渡嘉敷島の海域を軍艦で埋めつくした,船だらけの海)をはじめ,恐るべき艦砲射撃からの砲弾の雨・嵐,上陸してからの火炎放射器による焼き尽くし作戦,などなど。そして,その間に挿入されているひめゆり学徒隊の,奇跡的に生き延びた人たちの(すでに,みんな老婆になっている)証言が,これまた衝撃でした。

 これをみながら,何度も何度も,どんなことがあっても「戦争だけはしてはいけない」と口ずさみ,そして,インドのガンジー首相が唱えた「無抵抗・不服従」という戦争回避のためのスローガンが脳裏に浮かんでは消えを繰り返していました。そして,「憲法九条」をどんなことがあっても守り抜かなくてはならない,という覚悟というか,いや,決意を新たにしていました。

 集団的自衛権の行使容認を推進している安倍政権の政治家諸氏に,この映像で証言しているおばあたちのことばを,のしをつけて送り届けたい,と強く思いました。なかでも「戦争は勝っても,負けても同じです。尊い命を犠牲にするだけのまったく意味のない無駄な行為です」という,きわめつけのことばがわたしの脳裏から離れません。少し冷静に考えれば,だれにでもわかるこの理屈を無視して,戦争をはじめてしまう人間という生き物の愚かさに,なんとしても歯止めをかけなくてはなりません。

 21世紀の最大の課題は,戦争回避と原発廃止のこの二つだと考えています。経済などは,言ってしまえばどうでもいい。生きてさえいかれれば,それでいい。そう,資本主義経済の軛からするりと抜け出して,贈与経済の原点に立ち返る,それだけで済むこと。世界中の知性がそう叫んでいるのに,権力者たちは無視して,金の亡者のままです。諸悪の根源は,ただ,この一点にあります。そこから脱出すること。

 21世紀スポーツ文化研究所のミッションもまた,この一点と深く切り結んでいます。

 唐突ですが,このあたりで一区切りさせていただきます。ここで得た深い深い思いは無限です。また,機会をみつけて,ひめゆり平和記念資料館のことは書いてみたいと思います。ではまた,お元気で。

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