8月22日(金)・23日(土)と二晩つづけて,沖縄でロックのライブを聞きました。グループの名前は「ロ・カッパ・ローラーズ」。といえば,なんだかそれらしくなりますが,なんのことはないカッパ君こと竹村匡弥とヤッシーこと大城安志の2名に,わたしの知らない若いドラマーが一人加わった,いわゆる即興のバンド。
まあ,ありていに言ってしまえば,竹村匡弥はカッパの研究者でありミュージシャンであり,わたしの教え子。そして,大城安志は仕事をもちながらプロのロックン・ローラーであり,わたしの娘婿。この二人がなぜか馬が合い,こんどのライブで3回目。1回目は大阪,2回目は奈良。そして,こんどの沖縄での3回目と4回目,という次第です。そこに新しく,若いドラマーが参入。まあ,言ってみれば身内の顔なじみの速成バンド。
もっと言ってしまえば,リハーサルもほとんどなしの「ぶっつけ本番」。ロックの詳しいことははわたしにはわかりませんが,それなりに楽しく聞かせてもらいました。
23日のライブは,三部構成。第一部で大城安志がピンで歌い,ギターを演奏。第二部は竹村匡弥がやはりひとりで歌い,ギターで伴奏。第三部で,この2人に若いドラマーが加わり3人の演奏。それぞれ個性がまるで違うにもかかわらず,第三部は不思議な盛り上がりがありました。これぞライブというのでしょうか。
上の写真は演奏中の大城安志。気合の入った,絶叫に近い,全力で声を張っての迫力のある歌唱と,テクニックも相当なものなのだろうなぁと想像させる(わたしにはよくわからないのですが)みごとな演奏でした。これまでにも聞いたことはあるのですが,いつも遠くから聞いていました。今回,初めて,卑近距離で聞いたこともあって,その迫力が直につたわってきました。この男はいったいなにものだろうか,と。
伝え聞くところによれば,中学生のときにロックに目覚め,高校生でバンド・デビューし,一時,相当の人気がでてその勢いでプロを目指して上京。何年か臥薪嘗胆の時期を送りますが,ついに夢敗れて沖縄にもどり,アルバイトをしながらロックのバンドを組み,活動をつづけてきたという。そして,いまもロックとの縁を切ることはできず,毎晩,練習に励み,機会があればどこにでもでかけて行ってライブ演奏をするという日々を送っているそうです。
この写真をみると明らかなように,ロックの世界に忘我没入してしまうと,まるで別人になってしまいます。もはや,この世の人ではなくなり,どこか次元の違う世界の「なにか」に向かって,必死になって「なにか」を伝えようとしているように見受けられました。瀧のように流れる汗をものともせず,全身,バネのようにしてステップを刻み,飛び跳ねての文字通りの熱演です。そうして,次第にかれの世界に聞く者たちを引きずり込んでいきます。いやはや,驚くべき演奏でした。
こんな激しい演奏のなかに,バラードが一曲入り,これはこれでしっとりと聞かせる自作自演でした。全体的に伝わってくるのは,人間の日常の思いやりややさしさに触れたときの感動をロックにして,全身全霊を籠めて表現しているように,わたしには聞こえてきました。ひとことで言ってしまえば「自己超越」。別の言い方をすれば「聖なるもの」(ジャン=ピエール・デュピュイ)に触れる体験。ロックをとおして人間が生きる喜びの源泉に触れる,その快感を追い求めているように聞こえてきます。かれ自身が,演奏をとおして自己を超え出ていくときの快感と同時に,その向こう側に透けて見えてくる純粋無垢の世界への限りない愛,あるいは憧憬。それがかれのロックの真髄となっているのだろう,と想像してしまいました。
この際,はっきりとエールを送っておきましょう。間違いなくロック歌手として一流の域に達している,と。ただ,不運にして売れないだけの話。優れた音楽評論家との出会いに恵まれていない,というべきか。でも,その世界での評価は高いらしく,本土からやってくる一流の演奏家の前座を務めることもあるのだそうです。でも,いまは売れても売れなくても,そんなことは超越したところでロックの面白さを探求しているように見受けます。また,ひとつ上のステージの世界を堪能しているのかもしれません。
片や竹村匡弥の演奏は,大城安志とはまったく対極にあるような演奏で,しっとりと聞かせるものでした。かれとは付き合いが長いので,学生時代から演奏はちょこちょこと聞かせてもらってきました。これまではすべてバンド演奏でしたので,こうして一人語りのような,椅子に座って歌うのははじめてのことでした。
若いころは「ライオン」の異名をもつ声の大きな,吼えるような演奏でした。バンド演奏とピンでの演奏では本質的に演奏スタイルが違いますので,比較することはできません。が,今回の演奏を聞いていて,味のある,そして伸びのある歌唱力に驚きました。こんなに上手いとは,じつは思っていませんでした。加齢とともに腕も心境も高まってきているのでしょう。
河童の研究者としても,近年,とても充実してきていて,将来が嘱望されるところにきています。すでに,某大手出版社からオーダーがきているほどです。これまでの蓄積をまとめれば,いつでも本になる,そういう域に達しています。このことと,ロックの演奏は,どうもシンクロしているのではないか,と聞きながら思っていました。
つまり,河童の研究は,いわゆるヨーロッパ近代が生みだした資料実証というアカデミズムにはそぐわない世界です。その資料実証主義の厚い壁をぶち破っていくことが河童研究には求められます。言ってみれば,それは想像の世界であり,創造の世界でもあります。そのためには,読者を納得させるだけの説得力ある論理構成と情動を突き動かす文章表現が求められます。
このアカデミズムの壁を突き破るための努力とロックの演奏は,なんの矛盾もなくシンクロする,とわたしは考えています。つまり,硬直してしまったアカデミズムの土手っ腹に穴を開ける営みは,ロックそのものではないか,という次第です。
この表情からも,やはり,もう一つの「自己超越」の世界が予感されます。歌っている本人が気持よくならなければ,それを聞く人に伝わるわけがありません。ミュージシャンにはそういう世界にみずから飛び込んでいける才能が不可欠です。竹村匡弥には,そういう才能が備わっているように思います。それは日常生活にも現れていて,初対面の人とも,それも大物の研究者とも,すぐに友だちになれる才覚はみていて羨ましいかぎりです。わたしには持ち合わせがない,素晴らしい才能の持ち主だということを,今回,再認識した次第です。いやいや,恐れ入りました。
というところで,第三部の感想は割愛。
いずれにしても,この二人の演奏に触れて,わたし自身の認識が大きく変化させられたことを,ここでは正直に告白しておきたいと思います。人間はみんなそれぞれの世界で伸びていく,成長していく,そのよきサンプルに久しぶりに出会った,という心地よい印象が強烈です。
至福の二晩のライブでした。ありがとう。二人のロックン・ローラーにこころからの敬意と感謝の気持を表して,このブログを閉じたいと思います。謝謝。
〔追記〕
お詫びと訂正。「ロ・カッパ・ローラーズ」はバンドの名前ではなく,ライブの名前だそうです。お詫びして訂正させていただきます。
まあ,ありていに言ってしまえば,竹村匡弥はカッパの研究者でありミュージシャンであり,わたしの教え子。そして,大城安志は仕事をもちながらプロのロックン・ローラーであり,わたしの娘婿。この二人がなぜか馬が合い,こんどのライブで3回目。1回目は大阪,2回目は奈良。そして,こんどの沖縄での3回目と4回目,という次第です。そこに新しく,若いドラマーが参入。まあ,言ってみれば身内の顔なじみの速成バンド。
もっと言ってしまえば,リハーサルもほとんどなしの「ぶっつけ本番」。ロックの詳しいことははわたしにはわかりませんが,それなりに楽しく聞かせてもらいました。
23日のライブは,三部構成。第一部で大城安志がピンで歌い,ギターを演奏。第二部は竹村匡弥がやはりひとりで歌い,ギターで伴奏。第三部で,この2人に若いドラマーが加わり3人の演奏。それぞれ個性がまるで違うにもかかわらず,第三部は不思議な盛り上がりがありました。これぞライブというのでしょうか。
上の写真は演奏中の大城安志。気合の入った,絶叫に近い,全力で声を張っての迫力のある歌唱と,テクニックも相当なものなのだろうなぁと想像させる(わたしにはよくわからないのですが)みごとな演奏でした。これまでにも聞いたことはあるのですが,いつも遠くから聞いていました。今回,初めて,卑近距離で聞いたこともあって,その迫力が直につたわってきました。この男はいったいなにものだろうか,と。
伝え聞くところによれば,中学生のときにロックに目覚め,高校生でバンド・デビューし,一時,相当の人気がでてその勢いでプロを目指して上京。何年か臥薪嘗胆の時期を送りますが,ついに夢敗れて沖縄にもどり,アルバイトをしながらロックのバンドを組み,活動をつづけてきたという。そして,いまもロックとの縁を切ることはできず,毎晩,練習に励み,機会があればどこにでもでかけて行ってライブ演奏をするという日々を送っているそうです。
この写真をみると明らかなように,ロックの世界に忘我没入してしまうと,まるで別人になってしまいます。もはや,この世の人ではなくなり,どこか次元の違う世界の「なにか」に向かって,必死になって「なにか」を伝えようとしているように見受けられました。瀧のように流れる汗をものともせず,全身,バネのようにしてステップを刻み,飛び跳ねての文字通りの熱演です。そうして,次第にかれの世界に聞く者たちを引きずり込んでいきます。いやはや,驚くべき演奏でした。
こんな激しい演奏のなかに,バラードが一曲入り,これはこれでしっとりと聞かせる自作自演でした。全体的に伝わってくるのは,人間の日常の思いやりややさしさに触れたときの感動をロックにして,全身全霊を籠めて表現しているように,わたしには聞こえてきました。ひとことで言ってしまえば「自己超越」。別の言い方をすれば「聖なるもの」(ジャン=ピエール・デュピュイ)に触れる体験。ロックをとおして人間が生きる喜びの源泉に触れる,その快感を追い求めているように聞こえてきます。かれ自身が,演奏をとおして自己を超え出ていくときの快感と同時に,その向こう側に透けて見えてくる純粋無垢の世界への限りない愛,あるいは憧憬。それがかれのロックの真髄となっているのだろう,と想像してしまいました。
この際,はっきりとエールを送っておきましょう。間違いなくロック歌手として一流の域に達している,と。ただ,不運にして売れないだけの話。優れた音楽評論家との出会いに恵まれていない,というべきか。でも,その世界での評価は高いらしく,本土からやってくる一流の演奏家の前座を務めることもあるのだそうです。でも,いまは売れても売れなくても,そんなことは超越したところでロックの面白さを探求しているように見受けます。また,ひとつ上のステージの世界を堪能しているのかもしれません。
片や竹村匡弥の演奏は,大城安志とはまったく対極にあるような演奏で,しっとりと聞かせるものでした。かれとは付き合いが長いので,学生時代から演奏はちょこちょこと聞かせてもらってきました。これまではすべてバンド演奏でしたので,こうして一人語りのような,椅子に座って歌うのははじめてのことでした。
若いころは「ライオン」の異名をもつ声の大きな,吼えるような演奏でした。バンド演奏とピンでの演奏では本質的に演奏スタイルが違いますので,比較することはできません。が,今回の演奏を聞いていて,味のある,そして伸びのある歌唱力に驚きました。こんなに上手いとは,じつは思っていませんでした。加齢とともに腕も心境も高まってきているのでしょう。
河童の研究者としても,近年,とても充実してきていて,将来が嘱望されるところにきています。すでに,某大手出版社からオーダーがきているほどです。これまでの蓄積をまとめれば,いつでも本になる,そういう域に達しています。このことと,ロックの演奏は,どうもシンクロしているのではないか,と聞きながら思っていました。
つまり,河童の研究は,いわゆるヨーロッパ近代が生みだした資料実証というアカデミズムにはそぐわない世界です。その資料実証主義の厚い壁をぶち破っていくことが河童研究には求められます。言ってみれば,それは想像の世界であり,創造の世界でもあります。そのためには,読者を納得させるだけの説得力ある論理構成と情動を突き動かす文章表現が求められます。
このアカデミズムの壁を突き破るための努力とロックの演奏は,なんの矛盾もなくシンクロする,とわたしは考えています。つまり,硬直してしまったアカデミズムの土手っ腹に穴を開ける営みは,ロックそのものではないか,という次第です。
この表情からも,やはり,もう一つの「自己超越」の世界が予感されます。歌っている本人が気持よくならなければ,それを聞く人に伝わるわけがありません。ミュージシャンにはそういう世界にみずから飛び込んでいける才能が不可欠です。竹村匡弥には,そういう才能が備わっているように思います。それは日常生活にも現れていて,初対面の人とも,それも大物の研究者とも,すぐに友だちになれる才覚はみていて羨ましいかぎりです。わたしには持ち合わせがない,素晴らしい才能の持ち主だということを,今回,再認識した次第です。いやいや,恐れ入りました。
というところで,第三部の感想は割愛。
いずれにしても,この二人の演奏に触れて,わたし自身の認識が大きく変化させられたことを,ここでは正直に告白しておきたいと思います。人間はみんなそれぞれの世界で伸びていく,成長していく,そのよきサンプルに久しぶりに出会った,という心地よい印象が強烈です。
至福の二晩のライブでした。ありがとう。二人のロックン・ローラーにこころからの敬意と感謝の気持を表して,このブログを閉じたいと思います。謝謝。
〔追記〕
お詫びと訂正。「ロ・カッパ・ローラーズ」はバンドの名前ではなく,ライブの名前だそうです。お詫びして訂正させていただきます。
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