男性の性器があるがままに写っている写真を「卑猥」であるとして,愛知県警にクレームをつけられ,展示写真に薄い布をかけてカメラマンが妥協した,と話題になった「これからの写真」展が,名古屋の栄にある愛知県美術館で開催されており,9月28日が最終日であるというので,友人3人と一緒に,犬山の例会の帰りに立ち寄った。
まず,驚いたのは愛知県美術館の壮大な建物。東京六本木にできた新国立美術館よりも立派。しかも,フロアごとに多種多様なアートの展覧会が催されていて,そのプログラムを見ただけでも圧倒されてしまうほどだ。ちなみに,愛知県美術館はこの建物(愛知芸術文化センター)の10階・11階にある。いやはや,おどろきもものきさんしょのき,おそれいりやのきしぼじん,といった塩梅である。まずは度肝を抜かれた。
だから,「これからの写真」展も,ゆったりとしたスペースにぜいたくの限りをつくした展示になっている。なのに,なぜか,展示作品にパンチ力がなく入れ物に圧倒されてしまっている。展示をする器の方が時代を先取りしていて,展示されている写真の方が遅れをとっているのでは・・・,というそんな印象も受けた。つまり,わたしの感性に訴えるような作品はほとんどなかった,ということ。前衛アートはいつもそうなのだが,わたしにはいまひとつピンとくるものはなかった。
話題の男性ヌードも同じだった。なんだかうっとうしい,厚ぼったいカーテンで仕切られた展示室。そのカーテンをかき分けて,この展示室に入る。入ってすぐ右側の最初の写真は男女が並んで立っている全裸写真。それもとてつもなく大きく引き延ばされている。この写真には男性の性器は写っていなかったが女性の性器(外観)はまるみえ。なのに,この作品はおとがめがなかったらしい。しかし,この写真だけが,なぜか,わたしの印象に強く残った。あとは,男性が二人並んで立ち,ごくふつうに写っているだけ。モデルも素人さん。だから,女性のヌードもごくふつうの,やや太めの外人女性。そして,すべての写真にカメラマン自身が被写体となって写っている。つまり,カメラマンが相手をとっかえひきかえしながら,自分ともうひとりとで被写体となっている。
「これからの写真」の鑑賞ガイドによれば,以下のように説明がある。
鷹野隆大
写真は「写真家か/被写体か」ではない(ここだけ大きな活字)。
どの写真にも写っている男性が,写真家本人である鷹野です。
ふつう,写真家はカメラの背後に立ち,一方的に,被写体を見つめます。
ところが,鷹野は被写体となったモデルと一緒に裸になって,カメラの前で肩を組んで並んでいます。
中には,被写体となった人がシャッターを切っているものもあります。
写真家と被写体との新しい関係性を予感させる作品です。
また,衣服を着た人間からは職業や社会的立場などが想像されますが,
裸になると,途端にそれらがわからなくなります。
衣服という社会的な符合なしでまじまじと人を見るという不思議な体験ができます。
いまは,いわゆる公衆(大衆)浴場というものが激減してしまったので,すっぽんぽんの男性の裸をみるという経験が希有なものになってしまった。残っているのは温泉くらいなもの。それもまあ,みんな前をタオルで隠しているので,まともに性器が眼に入ってくることも少ない。むかしの公衆浴場では,前を隠すこともなく堂々と歩いている人をみかけることも少なくなかった。だから,人さまざまな形態の性器をもっているものなのだなぁ,となんの抵抗もなく当たり前のように納得した記憶がある。
だから,写真という表現の枠組みのなかで,しかも,美術館という限定された展示場で,男性ヌードが大まじめな顔をして二人並んで立っているだけの姿は,別に卑猥だとは思わない。それよりも,男女で並んで立ち,その女性のぶよぶよのからだの,どちらかといえば醜悪な姿をさらけ出し,しかも,ほとんど陰毛らしきものがない女性の性器をみせられる方が,みた経験がないだけに強烈な印象となった。しかし,それが卑猥だとは,感じなかった。いわゆる見慣れた女性ヌード写真は,プロのモデルさんの美しい肢体と,とってつけた前張りの陰毛に覆われた性器は,ワンパターン化していて,なんの変哲もないものでしかない。しかし,素人さんモデルの,ありのままの全裸ヌードは,つまり,前張りのない,生身の性器には,なにか異様なものを感じさせられた。それが,カメラマンの企み/意図だったのだろう,と思う。
しかし,薄い布をかけて下半身だけを見えなくした問題の写真の方がはるかに違和感を覚えた。なぜなら,薄い布をとおして,男性性器がぼんやりと透けてみえているからだ。これだったら,薄い布などで隠さないで,そっくりそのまま展示した方があっけらかんとしていて,アートとしての意味もでてこようというものだ。展示場を右側から左回りでみていった最後の一枚が,この問題の写真である。それだけに,なおさら,微妙な印象を残す。しかも,その問題写真のすぐ横に椅子に座って微妙な表情をしてこちらを見ている女性がいるのも,なんとも不可思議な光景だった。もっと,あっけらかんとした,ふつうの表情でいてほしかった。眼が合うと,とまどったような表情のまま眼を逸らす。この人の存在が,かえって気がかりになり,鑑賞の邪魔にすらなっていた。
結論から言えば,男性の性器の写っていない,肩を組んで立っているだけの写真は,海水浴場の光景と変わらない平凡なものだ。しかも,表情がほとんどない写真だ。むしろ,大まじめに構えてみえる。というか,すっぽんぽんになってカメラの前に立つ緊張感が,むきだしになっていると言った方がいいかもしれない。ただ,それだけだ。見ている途中で,全部の写真に同じ男性が写っているんだなぁ,と気づき,なぜだろう,と疑問を感ずる程度。あとで鑑賞ガイドなるものを読んで,なるほど,そういうことだったのか,と思う程度。そんな程度の写真だ。わたしの感性では退屈さだけが目立つ「駄作」。その退屈さの中に,性器丸出しの男性ヌードを織り込むこと,それこそがカメラマンの最大の企みであったはず。でも,それでも「駄作」は駄作だ。そんな駄作に愛知県警がいちゃもんをつけたばかりに,カメラマンの鷹野隆大の名が広く認知されることになってしまった。県警のやったことは,完全なる「勇み足」であり,カメラマンの名前を有名にしただけの話。なんのこっちゃ,というのがわたしの率直な感想。
なぜか,砂を噛む思いで美術館をあとにした。いつもなら,間違いなく図録を買うのだが,その意欲もないまま・・・・。そして,アートとはいったいなんなのだろうか,という根源的な疑問すら湧いてきた。文学作品のセックス描写(たとえば,有名な『チャタレイ夫人の恋人』の裁判)も同じだ。でも,この問題は解決し,問題箇所の「全訳」版もでて,一件落着。それからすでに相当の時間が流れている。そして,第二次安倍政権の出現。これによって時代は一気に逆流をはじめた。やはり,時代が逆流しはじめた兆候のひとつがここにも現れた,ということなのだろう。いやな予感ばかりが脳裏を駆けめぐる。そのことを露呈させたという意味では,この写真展は意味があったというべきかもしれない。だとすれば,ナチズムのようなアート監視体勢が,頭をもたげた,その魁としかいいようがない。
憂鬱な世の中になっていく。
まず,驚いたのは愛知県美術館の壮大な建物。東京六本木にできた新国立美術館よりも立派。しかも,フロアごとに多種多様なアートの展覧会が催されていて,そのプログラムを見ただけでも圧倒されてしまうほどだ。ちなみに,愛知県美術館はこの建物(愛知芸術文化センター)の10階・11階にある。いやはや,おどろきもものきさんしょのき,おそれいりやのきしぼじん,といった塩梅である。まずは度肝を抜かれた。
だから,「これからの写真」展も,ゆったりとしたスペースにぜいたくの限りをつくした展示になっている。なのに,なぜか,展示作品にパンチ力がなく入れ物に圧倒されてしまっている。展示をする器の方が時代を先取りしていて,展示されている写真の方が遅れをとっているのでは・・・,というそんな印象も受けた。つまり,わたしの感性に訴えるような作品はほとんどなかった,ということ。前衛アートはいつもそうなのだが,わたしにはいまひとつピンとくるものはなかった。
話題の男性ヌードも同じだった。なんだかうっとうしい,厚ぼったいカーテンで仕切られた展示室。そのカーテンをかき分けて,この展示室に入る。入ってすぐ右側の最初の写真は男女が並んで立っている全裸写真。それもとてつもなく大きく引き延ばされている。この写真には男性の性器は写っていなかったが女性の性器(外観)はまるみえ。なのに,この作品はおとがめがなかったらしい。しかし,この写真だけが,なぜか,わたしの印象に強く残った。あとは,男性が二人並んで立ち,ごくふつうに写っているだけ。モデルも素人さん。だから,女性のヌードもごくふつうの,やや太めの外人女性。そして,すべての写真にカメラマン自身が被写体となって写っている。つまり,カメラマンが相手をとっかえひきかえしながら,自分ともうひとりとで被写体となっている。
「これからの写真」の鑑賞ガイドによれば,以下のように説明がある。
鷹野隆大
写真は「写真家か/被写体か」ではない(ここだけ大きな活字)。
どの写真にも写っている男性が,写真家本人である鷹野です。
ふつう,写真家はカメラの背後に立ち,一方的に,被写体を見つめます。
ところが,鷹野は被写体となったモデルと一緒に裸になって,カメラの前で肩を組んで並んでいます。
中には,被写体となった人がシャッターを切っているものもあります。
写真家と被写体との新しい関係性を予感させる作品です。
また,衣服を着た人間からは職業や社会的立場などが想像されますが,
裸になると,途端にそれらがわからなくなります。
衣服という社会的な符合なしでまじまじと人を見るという不思議な体験ができます。
いまは,いわゆる公衆(大衆)浴場というものが激減してしまったので,すっぽんぽんの男性の裸をみるという経験が希有なものになってしまった。残っているのは温泉くらいなもの。それもまあ,みんな前をタオルで隠しているので,まともに性器が眼に入ってくることも少ない。むかしの公衆浴場では,前を隠すこともなく堂々と歩いている人をみかけることも少なくなかった。だから,人さまざまな形態の性器をもっているものなのだなぁ,となんの抵抗もなく当たり前のように納得した記憶がある。
だから,写真という表現の枠組みのなかで,しかも,美術館という限定された展示場で,男性ヌードが大まじめな顔をして二人並んで立っているだけの姿は,別に卑猥だとは思わない。それよりも,男女で並んで立ち,その女性のぶよぶよのからだの,どちらかといえば醜悪な姿をさらけ出し,しかも,ほとんど陰毛らしきものがない女性の性器をみせられる方が,みた経験がないだけに強烈な印象となった。しかし,それが卑猥だとは,感じなかった。いわゆる見慣れた女性ヌード写真は,プロのモデルさんの美しい肢体と,とってつけた前張りの陰毛に覆われた性器は,ワンパターン化していて,なんの変哲もないものでしかない。しかし,素人さんモデルの,ありのままの全裸ヌードは,つまり,前張りのない,生身の性器には,なにか異様なものを感じさせられた。それが,カメラマンの企み/意図だったのだろう,と思う。
しかし,薄い布をかけて下半身だけを見えなくした問題の写真の方がはるかに違和感を覚えた。なぜなら,薄い布をとおして,男性性器がぼんやりと透けてみえているからだ。これだったら,薄い布などで隠さないで,そっくりそのまま展示した方があっけらかんとしていて,アートとしての意味もでてこようというものだ。展示場を右側から左回りでみていった最後の一枚が,この問題の写真である。それだけに,なおさら,微妙な印象を残す。しかも,その問題写真のすぐ横に椅子に座って微妙な表情をしてこちらを見ている女性がいるのも,なんとも不可思議な光景だった。もっと,あっけらかんとした,ふつうの表情でいてほしかった。眼が合うと,とまどったような表情のまま眼を逸らす。この人の存在が,かえって気がかりになり,鑑賞の邪魔にすらなっていた。
結論から言えば,男性の性器の写っていない,肩を組んで立っているだけの写真は,海水浴場の光景と変わらない平凡なものだ。しかも,表情がほとんどない写真だ。むしろ,大まじめに構えてみえる。というか,すっぽんぽんになってカメラの前に立つ緊張感が,むきだしになっていると言った方がいいかもしれない。ただ,それだけだ。見ている途中で,全部の写真に同じ男性が写っているんだなぁ,と気づき,なぜだろう,と疑問を感ずる程度。あとで鑑賞ガイドなるものを読んで,なるほど,そういうことだったのか,と思う程度。そんな程度の写真だ。わたしの感性では退屈さだけが目立つ「駄作」。その退屈さの中に,性器丸出しの男性ヌードを織り込むこと,それこそがカメラマンの最大の企みであったはず。でも,それでも「駄作」は駄作だ。そんな駄作に愛知県警がいちゃもんをつけたばかりに,カメラマンの鷹野隆大の名が広く認知されることになってしまった。県警のやったことは,完全なる「勇み足」であり,カメラマンの名前を有名にしただけの話。なんのこっちゃ,というのがわたしの率直な感想。
なぜか,砂を噛む思いで美術館をあとにした。いつもなら,間違いなく図録を買うのだが,その意欲もないまま・・・・。そして,アートとはいったいなんなのだろうか,という根源的な疑問すら湧いてきた。文学作品のセックス描写(たとえば,有名な『チャタレイ夫人の恋人』の裁判)も同じだ。でも,この問題は解決し,問題箇所の「全訳」版もでて,一件落着。それからすでに相当の時間が流れている。そして,第二次安倍政権の出現。これによって時代は一気に逆流をはじめた。やはり,時代が逆流しはじめた兆候のひとつがここにも現れた,ということなのだろう。いやな予感ばかりが脳裏を駆けめぐる。そのことを露呈させたという意味では,この写真展は意味があったというべきかもしれない。だとすれば,ナチズムのようなアート監視体勢が,頭をもたげた,その魁としかいいようがない。
憂鬱な世の中になっていく。
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