2014年9月8日月曜日

「大相撲 八百長は悪に非ず」。『ひろばユニオン』,9月号,労働者学習センター,に投稿。

 ことしの8月号から連載をはじめた「撃!スポーツ批評」というコラムに,「大相撲 八百長は悪に非ず」を投じました。連載第2回目です。


 原稿は,わたしなりにタイトルをつけて,書き流したものを編集者に送ります。すると,編集者はこの原稿を読んで,自分の好みのタイトルに付け替えます。そして,さらに,小見出しも加えます。そうしてできあがったのが,以下のようになったという次第です。著者は自分の考えをそのままタイトルにします。が,編集者は読者と著者との間をとりもって,よりわかりやすく,あるいは,よりよく伝わりやすくするために,見出しも小見出しも付けなおす,というわけです。

 
こうして,わたしの手元を離れた原稿は,新たないのちを吹き込まれて,一人歩きをはじめます。そして,また別の作品として雑誌に掲載されます。しかも,読者は読者で,また,著者とは別の解釈をして,納得するなり,批評したりする,というわけです。一度,わたしの手元を離れたら,それは別人格。読者のいいなりになるしかありません。という意味では,原稿を書くという営みは,とても厳しいものでもあります。

 「今福龍太×中川五郎」のトーク・イベントのなかで,中川さんがポロリと語ったことばが,いまも忘れられません。

 「本は大切なものです。そして,本というものは恐ろしいものでもあります」。
 「ことばとなる前,ことば以前のこと,あるいは,本になる前の前書物の状態から,ことばはどこに 行くのか,このことを考えると気が遠くなってしまいます」。
 「ことばはどこから出てくるのか」。
 「ことばは一種の暴力です」。

 
こんなようなことを仰ったように記憶します。

 わたしのこの原稿も,わたし自身が書いたことばにわたし自身が啓発されて,わたしが考えたとは思えないようなことばが飛び出したりします。文章となると,もっとたいへんです。言ってしまえば,行き先不明です。書きながら,自分の書いた文章と相談しながら,つぎの文章が飛び出してくるのを待ちます。となると,書くというよりは「書かされている」としかいいようがなくなってきます。

 
このことは,今福さんのことばを想起させます。「そこに座る」というよりは「そこに座らされている」と言った方が真相に近いように思う,と。そして,それが「生きる」ということの意味ではないか,と。それは写真を撮るというよりは「撮らされている」ということとも通底しているのではないか,と。

 この問題系は,近代人の主体性(あるいは,人間の「主体性」)に大きな疑念を投げかける,きわめて奥の深いテーマでもあります。

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