カトノリこと,ダンサー加藤範子。久しぶりのステージをみる。この前の公演では,妊婦のからだを惜しげもなくステージにさらして,それでもなお自己の世界を切り拓こうというひたむきな姿は一種異様でもあり,かつ,ダンスの新たな実験でもあった。つねに自己の到達したダンスの境涯を突き崩し,新たな可能性を探求するその姿勢にはこころからのエールを送りたい。
今回の公演もまた,そうしたカトノリの新たな実験だったと思う。その表出が公演のテーマ「境界を超えて」(Beyond a Boundary )にもみることができる。そして,そのテーマを受けて,カトノリのダンスは「背中」がみせる微妙な動きからはじまった。徹底してやわらかなぐにゃぐにゃの動きを貫きながら(身悶えながら?),もっと違う自己(たとえば,内なる他者)と向き合い,かつ,外なる他者とのふれあいをとおして,もっともっと違う自己を見出し,とまどいながらも日常を超えて,非日常の世界に遊ぼうとする。しかし,突如として日常に引き戻され(痒いので掻かずにはいられない),日常と非日常の境界領域でもだえ,どうにもならない,制御不能の自己でも他者でもない,生身の生き物としての現実と向き合うことになる・・・・。これはあくまでもわたしのきわめて個人的な理解の,ひとつの側面にすぎない。しかし,わたしにこのようなメッセージを送り届ける表現にカトノリの新たな実験をみてとることができる。
もっと別の見方も可能だ。たとえば,日常の理性の呪縛から解き放たれたくて仕方のない自己のからだの悶えに身を委ねてみると,自分でも想定もできなかったからだが表出し,その快感に酔い痴れる。そこは日常を超え出た非日常の地平だ。しかし,からだの一部が痒くなると,そこを掻かずにはいられない,もうひとつの衝動が表出する。それもまた理性とは関係のない,自己の,生身のからだの,ありのままの要求にすぎない。にもかかわらず,理性は,この野性ともいうべき生身のからだの要求に抗して,いつまでも掻いていてはいけない,と主張する。と,突如として日常を生きる自己が立ち現れる。こうして,日常と非日常との境界を往来することになる。その境界(Boundary)を超えて安寧をえることの困難が,つねにつきまとう。
カトノリが企画・構成を担当したこの公演のメイン・テーマである「境界」(Boundary )は,4人のダンサーの受け止め方によって,さまざまな顔をみせる。イタリアからやってきたクラウディオ・マランゴンは,日常の「歩く」「走る」からはじめ,次第に自己のからだの中に生じる違和感を手がかりにして,もうひとつの自己のからだに目覚め,そこに身をゆだねていく。すると,そこには日常とはまるで異なる世界のひろがりが待っている。それでもなお,日常がつねに身辺をつきまとい,からだが痒くなってくる。とてもわかりやすい「境界」を超え出ることの困難を表現してみせた。と,わたしは受け止める。
カナダからやってきたマキシーン・ヘップナーと瀬川貴子の二人のダンサーが織りなす「境界」の印象はまた違うものだった。どこか霊的な世界から抜け出してきたようなダンスをみせるヘップナーと,それに対して,ごくふつうの日常を生きている人間が,霊的世界に触れることによって,新たなからだが開かれていくプロセスを,切れ味の鋭いダンスで表現してみせた。そして,二人が互いに交信・共鳴をはじめ,ついには恍惚状態に入っていく。ヘップナーの空恐ろしい「眼力」が印象に残った。とりわけ,瀬川のダンスは秀逸で,わたしにはビンビンと響くものがあった。
このダンスのあとでカトノリが登場し,さきほど述べたようなダンスを披露。これがプログラムの第一部。休憩をはさんで第二部へ。第二部では,これら4人のダンサーが一緒になって踊りはじめる。それぞれが,第一部でみせたまったく異なる「境界」(Boundary)を表現しながら,お互いに刺激し,挑発し合う。そして,次第に変化しながら,もうひとつ次元の異なる「境界」(Boundary)に超え出ていく。この「絡み」が圧巻だった。ときにはその場の力に突き動かされて表出するインプロヴィゼーション(Improvisation=即興)もあって,さらに「境界」(Boundary)を超える奥の深さを感じさせた。構成がしっかりしているので,もっともっとインプロヴィゼーションが表出してもよかったのではないか,とこれはわたしのないものねだり。
感動の第二部が終わって,その余韻に浸りながら,いろいろのことが脳裏をよぎる。カトノリのダンスも一皮剥けたなぁ,と。これまでのあるがままのからだもかなり絞り込んできており,その分,表現の幅が広がってきたように思う。そして,企画・構成もしっかりしたコンセプトに支えられ,わかりやすくなってきたなぁ,と思う。しかし,・・・・?とも思う。
それは,最後の終わり方にあるのかな,と考える。それは,一人ひとりのダンサーが,まるで線香花火の最後の小さな固まりになって,チカチカと火花を散らし,しょぼんと落下していくような,そんな印象が残ったからなのだろう。そこで思いついたことばが「かぶく」。もっともっと「かぶいて」いく勇気が必要なのかなぁ,と。どこかで理性がはたらき,コントロールしてしまっているのではないか,と。もっともっと徹底して「かぶく」こと。それは百尺竿頭出一歩(百尺もある竿の先端に立って,さらに一歩を宙に踏み出せ)という禅の世界にも通ずる,永遠の問いでもある。
それこそが,コンテンポラリー・ダンス(Contemporary Dance)が,つねに問われてきたことではないのか,とわたしは考える。時代の風を感じ取り,世界の変化を先取りする感性が,アーティストとしてのコンテンポラリーダンサーには問われる。
ジョルジュ・バタイユの世界に通暁していた岡本太郎が「芸術は<爆発>だっ!」と吼えたこととも通底する,とわたしは考える。「かぶく」ということはそういうことなのだ,と。出雲阿国が京都四条河原で「かぶいた」のも,やむにやまれぬマグマの「爆発」だったのではないか,と。
そういう「マグマ」を溜め込むこと。それは,繰り返すまでもなく時代や世界と反応しつつ,みずからの思想・哲学を練り上げることでもある。そこから生まれるダンスこそ,批評性の高い,新しい時代を切り拓いていく,優れたアートになりうるのだ,と。
カトノリよ。もう一踏ん張りだ。そして,勇気をもって「かぶく」可し。パウンダリー(Boundary)を超え出ていくために。
今回の公演もまた,そうしたカトノリの新たな実験だったと思う。その表出が公演のテーマ「境界を超えて」(Beyond a Boundary )にもみることができる。そして,そのテーマを受けて,カトノリのダンスは「背中」がみせる微妙な動きからはじまった。徹底してやわらかなぐにゃぐにゃの動きを貫きながら(身悶えながら?),もっと違う自己(たとえば,内なる他者)と向き合い,かつ,外なる他者とのふれあいをとおして,もっともっと違う自己を見出し,とまどいながらも日常を超えて,非日常の世界に遊ぼうとする。しかし,突如として日常に引き戻され(痒いので掻かずにはいられない),日常と非日常の境界領域でもだえ,どうにもならない,制御不能の自己でも他者でもない,生身の生き物としての現実と向き合うことになる・・・・。これはあくまでもわたしのきわめて個人的な理解の,ひとつの側面にすぎない。しかし,わたしにこのようなメッセージを送り届ける表現にカトノリの新たな実験をみてとることができる。
もっと別の見方も可能だ。たとえば,日常の理性の呪縛から解き放たれたくて仕方のない自己のからだの悶えに身を委ねてみると,自分でも想定もできなかったからだが表出し,その快感に酔い痴れる。そこは日常を超え出た非日常の地平だ。しかし,からだの一部が痒くなると,そこを掻かずにはいられない,もうひとつの衝動が表出する。それもまた理性とは関係のない,自己の,生身のからだの,ありのままの要求にすぎない。にもかかわらず,理性は,この野性ともいうべき生身のからだの要求に抗して,いつまでも掻いていてはいけない,と主張する。と,突如として日常を生きる自己が立ち現れる。こうして,日常と非日常との境界を往来することになる。その境界(Boundary)を超えて安寧をえることの困難が,つねにつきまとう。
カトノリが企画・構成を担当したこの公演のメイン・テーマである「境界」(Boundary )は,4人のダンサーの受け止め方によって,さまざまな顔をみせる。イタリアからやってきたクラウディオ・マランゴンは,日常の「歩く」「走る」からはじめ,次第に自己のからだの中に生じる違和感を手がかりにして,もうひとつの自己のからだに目覚め,そこに身をゆだねていく。すると,そこには日常とはまるで異なる世界のひろがりが待っている。それでもなお,日常がつねに身辺をつきまとい,からだが痒くなってくる。とてもわかりやすい「境界」を超え出ることの困難を表現してみせた。と,わたしは受け止める。
カナダからやってきたマキシーン・ヘップナーと瀬川貴子の二人のダンサーが織りなす「境界」の印象はまた違うものだった。どこか霊的な世界から抜け出してきたようなダンスをみせるヘップナーと,それに対して,ごくふつうの日常を生きている人間が,霊的世界に触れることによって,新たなからだが開かれていくプロセスを,切れ味の鋭いダンスで表現してみせた。そして,二人が互いに交信・共鳴をはじめ,ついには恍惚状態に入っていく。ヘップナーの空恐ろしい「眼力」が印象に残った。とりわけ,瀬川のダンスは秀逸で,わたしにはビンビンと響くものがあった。
このダンスのあとでカトノリが登場し,さきほど述べたようなダンスを披露。これがプログラムの第一部。休憩をはさんで第二部へ。第二部では,これら4人のダンサーが一緒になって踊りはじめる。それぞれが,第一部でみせたまったく異なる「境界」(Boundary)を表現しながら,お互いに刺激し,挑発し合う。そして,次第に変化しながら,もうひとつ次元の異なる「境界」(Boundary)に超え出ていく。この「絡み」が圧巻だった。ときにはその場の力に突き動かされて表出するインプロヴィゼーション(Improvisation=即興)もあって,さらに「境界」(Boundary)を超える奥の深さを感じさせた。構成がしっかりしているので,もっともっとインプロヴィゼーションが表出してもよかったのではないか,とこれはわたしのないものねだり。
感動の第二部が終わって,その余韻に浸りながら,いろいろのことが脳裏をよぎる。カトノリのダンスも一皮剥けたなぁ,と。これまでのあるがままのからだもかなり絞り込んできており,その分,表現の幅が広がってきたように思う。そして,企画・構成もしっかりしたコンセプトに支えられ,わかりやすくなってきたなぁ,と思う。しかし,・・・・?とも思う。
それは,最後の終わり方にあるのかな,と考える。それは,一人ひとりのダンサーが,まるで線香花火の最後の小さな固まりになって,チカチカと火花を散らし,しょぼんと落下していくような,そんな印象が残ったからなのだろう。そこで思いついたことばが「かぶく」。もっともっと「かぶいて」いく勇気が必要なのかなぁ,と。どこかで理性がはたらき,コントロールしてしまっているのではないか,と。もっともっと徹底して「かぶく」こと。それは百尺竿頭出一歩(百尺もある竿の先端に立って,さらに一歩を宙に踏み出せ)という禅の世界にも通ずる,永遠の問いでもある。
それこそが,コンテンポラリー・ダンス(Contemporary Dance)が,つねに問われてきたことではないのか,とわたしは考える。時代の風を感じ取り,世界の変化を先取りする感性が,アーティストとしてのコンテンポラリーダンサーには問われる。
ジョルジュ・バタイユの世界に通暁していた岡本太郎が「芸術は<爆発>だっ!」と吼えたこととも通底する,とわたしは考える。「かぶく」ということはそういうことなのだ,と。出雲阿国が京都四条河原で「かぶいた」のも,やむにやまれぬマグマの「爆発」だったのではないか,と。
そういう「マグマ」を溜め込むこと。それは,繰り返すまでもなく時代や世界と反応しつつ,みずからの思想・哲学を練り上げることでもある。そこから生まれるダンスこそ,批評性の高い,新しい時代を切り拓いていく,優れたアートになりうるのだ,と。
カトノリよ。もう一踏ん張りだ。そして,勇気をもって「かぶく」可し。パウンダリー(Boundary)を超え出ていくために。
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