最近のNHKのニュース番組は腹立たしいことばかりですが,その他のドキュメンタリーにはなかなかの傑作があります。NHKスペシャルもその一つで,テーマによっては真剣にみることにしています。
そんな中で,「臨死体験」の謎を追った立花隆の久しぶりの,渾身の取材・レポートに感動しました(9月14日21:00~22:15,NHKスペシャル。臨死体験の謎に迫る・死ぬとき心はどうなるか,先端科学が挑む”死”。立花隆が徹底取材!体外離脱を自ら検証,臨死体験を生む脳の働き)。立花隆ががんを患っているということは知っていましたが,意外や意外,お腹はみごとなほどの太鼓腹。頭が白くなり,足どりがやや不安定にみえましたが,顔はさらに丸くなり,元気そのもの。この人は大丈夫だ,と確信しました。
さて,人間は死ぬとき心はどうなるのか,あの世はあるのかないのか,という立花隆の長年にわたる素朴な疑問にして,根源的な問いに,現代の最先端科学はどこまで答えられるのか。その謎解きのために世界を股にかけて,それぞれの専門家であるサイエンティストたちを立花隆が直撃インタヴューしています。
その中のいくつかのトピックスについて感想を書いておきたいと思います。
まずは,あの世はあるのかないのか。その結論は「思い込み」だ,というのです。つまり,あると思う人にはある,ないと思う人にはない,そういうことだ,と。現代のサイエンスはそれ以上のことは解明できません,というのです。科学とは,因果関係を明らかにするものであって,存在が確認できない死後の世界については手も足も出せません,と。さすがにトップ・クラスのサイエンティストたちは自分たちの役割をきちんと理解している,と感動してしまいました。
いま,売れに売れている東大医学部救急医療センターの某教授の本(同じ内容の焼き直し本がこのところ立て続けに刊行されている)が,科学的な根拠とはなんの関係もないものである,ということが明確になり,わたしなりに安堵しています。そして,立花レポートの結論から言えば,某教授のたんなる「思い込み」にすぎない,ということになります。ですから,某教授はそのように「思い込み」,「信念」をもって自分の見解を主張しているのであって,そこには科学的根拠はなにもない,というそれだけの話です。
しかし,この「思い込み」が人間を人間たらしめているのだ,と立花レポートは結論づけてもいます。人間が生きるということは,人それぞれに「思い込み」に支えられ,それがその人の「信念」となるからなのだ,と。つまりは,科学もまた「思い込み」の一つであり,つぎつぎに新事実の解明によって,それまでの理論仮説はくつがえされていきます。思想・哲学も同じであり,つぎつぎに新しい思想・哲学が誕生しています。その最たるものが宗教である,ということになります。ということは,人は宗教によって救済される生き物だ,とも言えるようです。もちろん,死後の世界を否定する科学者は少なくありません。
立花隆レポートによれば,スウェーデンの著名な某科学者は,若いころには死後の世界の存在を否定していましたが,最近では,死後の世界を信じるようになった,と述懐しています。その理由は,これまで生きてきた情報の総和がそうさせるのであって,確たる根拠はなにもない,と。つまりは「わたしの思い込み」です,と。そして,その方が気持が落ち着きます,とも。その方は奥さんが敬虔なクリスチャンで,いまは余命いくばくもない重い病気にかかっていて,その介護をしているうちに,死後の世界はない,と奥さんに言うことはできなくなってしまった,とも述懐しています。
このほかにも,たくさんのトピックスはありますが,ここでは残念ながら割愛。
ただ一つだけ。立花隆が自らの臨死体験や,リアルとヴァーチャルが簡単に入れ代わってしまうという実験の被験者となったときの体験,そして,最新の科学者たちの主張などをトータルに推理した結論が,それらはみんな「思い込み」ではないか,というところにたどりついたこと,このプロセスは重大な意味をもっているように思います。つまり,この立花隆の結論もまたかれ固有の「思い込み」にすぎないからです。
パスカルの謂いにならえば,「死後の世界はあるか,ないか」と問われたら,まずは「ある」と答えるべきだ,ということになります。パスカルは「神は存在するか,しないか」と問われたら,「存在する」と答える,と明言しています。なぜなら,存在しないと答えたら,話はそこで終わりです。夢も希望もなくなってしまいます。しかし,存在すると答えれば,なぜ?どこに?どのように?・・・という具合にさまざまな議論が展開していきます。この謎解きこそが「生きる」ということの証なのだ,とパスカルはいいます。ですから,パスカルは,人間にとって「賭け」は不可欠なものだ,と主張します。これもまた,パスカルの「思い込み」にすぎませんが・・・・。
こうなりますと,ありとあらゆる人間の思考の到達する結論部分は,みんな「思い込み」ではないか,ということになります。あとは,どれだけ多くの人とその「思い込み」を共有できるか,という問題になってきます。
となると,人間が生きるという営みの結論部分は,よくもわるくもみんな「思い込み」,すなわち「ブートストラップ」(『ほら吹き男爵の冒険』)ではないか,ということになってしまいます。
さてはて,とんでもない知の地平に飛び出してきたぞ,というのがわたしの正直な感想です。と同時に,なぜか,ほとんどなんの違和感もなく納得してしまう自分自身に驚いてもいます。これはとういうことなのだろうか,と。その一つは,近代アカデミズムに対するわたし自身の深い疑問と共振するものがある,と感ずるからなのかもしれません。これもまた,わたしの「思い込み」にすぎませんが・・・・。しばらく考えてみたいと思います。
そんな中で,「臨死体験」の謎を追った立花隆の久しぶりの,渾身の取材・レポートに感動しました(9月14日21:00~22:15,NHKスペシャル。臨死体験の謎に迫る・死ぬとき心はどうなるか,先端科学が挑む”死”。立花隆が徹底取材!体外離脱を自ら検証,臨死体験を生む脳の働き)。立花隆ががんを患っているということは知っていましたが,意外や意外,お腹はみごとなほどの太鼓腹。頭が白くなり,足どりがやや不安定にみえましたが,顔はさらに丸くなり,元気そのもの。この人は大丈夫だ,と確信しました。
さて,人間は死ぬとき心はどうなるのか,あの世はあるのかないのか,という立花隆の長年にわたる素朴な疑問にして,根源的な問いに,現代の最先端科学はどこまで答えられるのか。その謎解きのために世界を股にかけて,それぞれの専門家であるサイエンティストたちを立花隆が直撃インタヴューしています。
その中のいくつかのトピックスについて感想を書いておきたいと思います。
まずは,あの世はあるのかないのか。その結論は「思い込み」だ,というのです。つまり,あると思う人にはある,ないと思う人にはない,そういうことだ,と。現代のサイエンスはそれ以上のことは解明できません,というのです。科学とは,因果関係を明らかにするものであって,存在が確認できない死後の世界については手も足も出せません,と。さすがにトップ・クラスのサイエンティストたちは自分たちの役割をきちんと理解している,と感動してしまいました。
いま,売れに売れている東大医学部救急医療センターの某教授の本(同じ内容の焼き直し本がこのところ立て続けに刊行されている)が,科学的な根拠とはなんの関係もないものである,ということが明確になり,わたしなりに安堵しています。そして,立花レポートの結論から言えば,某教授のたんなる「思い込み」にすぎない,ということになります。ですから,某教授はそのように「思い込み」,「信念」をもって自分の見解を主張しているのであって,そこには科学的根拠はなにもない,というそれだけの話です。
しかし,この「思い込み」が人間を人間たらしめているのだ,と立花レポートは結論づけてもいます。人間が生きるということは,人それぞれに「思い込み」に支えられ,それがその人の「信念」となるからなのだ,と。つまりは,科学もまた「思い込み」の一つであり,つぎつぎに新事実の解明によって,それまでの理論仮説はくつがえされていきます。思想・哲学も同じであり,つぎつぎに新しい思想・哲学が誕生しています。その最たるものが宗教である,ということになります。ということは,人は宗教によって救済される生き物だ,とも言えるようです。もちろん,死後の世界を否定する科学者は少なくありません。
立花隆レポートによれば,スウェーデンの著名な某科学者は,若いころには死後の世界の存在を否定していましたが,最近では,死後の世界を信じるようになった,と述懐しています。その理由は,これまで生きてきた情報の総和がそうさせるのであって,確たる根拠はなにもない,と。つまりは「わたしの思い込み」です,と。そして,その方が気持が落ち着きます,とも。その方は奥さんが敬虔なクリスチャンで,いまは余命いくばくもない重い病気にかかっていて,その介護をしているうちに,死後の世界はない,と奥さんに言うことはできなくなってしまった,とも述懐しています。
このほかにも,たくさんのトピックスはありますが,ここでは残念ながら割愛。
ただ一つだけ。立花隆が自らの臨死体験や,リアルとヴァーチャルが簡単に入れ代わってしまうという実験の被験者となったときの体験,そして,最新の科学者たちの主張などをトータルに推理した結論が,それらはみんな「思い込み」ではないか,というところにたどりついたこと,このプロセスは重大な意味をもっているように思います。つまり,この立花隆の結論もまたかれ固有の「思い込み」にすぎないからです。
パスカルの謂いにならえば,「死後の世界はあるか,ないか」と問われたら,まずは「ある」と答えるべきだ,ということになります。パスカルは「神は存在するか,しないか」と問われたら,「存在する」と答える,と明言しています。なぜなら,存在しないと答えたら,話はそこで終わりです。夢も希望もなくなってしまいます。しかし,存在すると答えれば,なぜ?どこに?どのように?・・・という具合にさまざまな議論が展開していきます。この謎解きこそが「生きる」ということの証なのだ,とパスカルはいいます。ですから,パスカルは,人間にとって「賭け」は不可欠なものだ,と主張します。これもまた,パスカルの「思い込み」にすぎませんが・・・・。
こうなりますと,ありとあらゆる人間の思考の到達する結論部分は,みんな「思い込み」ではないか,ということになります。あとは,どれだけ多くの人とその「思い込み」を共有できるか,という問題になってきます。
となると,人間が生きるという営みの結論部分は,よくもわるくもみんな「思い込み」,すなわち「ブートストラップ」(『ほら吹き男爵の冒険』)ではないか,ということになってしまいます。
さてはて,とんでもない知の地平に飛び出してきたぞ,というのがわたしの正直な感想です。と同時に,なぜか,ほとんどなんの違和感もなく納得してしまう自分自身に驚いてもいます。これはとういうことなのだろうか,と。その一つは,近代アカデミズムに対するわたし自身の深い疑問と共振するものがある,と感ずるからなのかもしれません。これもまた,わたしの「思い込み」にすぎませんが・・・・。しばらく考えてみたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿