新作ドキュメンタリー『即身仏を訪ねて──涅槃の考古学』完成記念上映とトークとシンポジウム「身体表出の日本的様相」,というイベントがあるというのででかけてきました。わたしの興味は「即身仏」と「身体表出の日本的様相」のこの二つ。
日時:9月10日(水)14:20
場所:草月ホール
主催:「身体表出の日本的様相」実行委員会,アテネ・フランセ文化センター
行ってみて驚いたのは盛りだくさんのプログラム。14:20にはじまって終わったのは20:00を過ぎていました。そんな時間になっているとはとても思えないほどに,わたしにとっては充実した時間でした。なぜなら,意外な発見と違和感が多々あったからです。結論的に言ってしまえば,映画人と呼ばれる人たちのみている世界が垣間見えたこと,その世界の不思議さと驚きと違和,というところでしょうか。それらの内容については,いずれ分割して書いてみたいと思っています。それほどの内容があるということです。
とりあえず,今回は,その長丁場のプログラムのなかにあった,小笠原隆夫監督(今回のイベントの仕掛け人であり,上映作品の監督)と大野慶人さんとの「舞踏とトーク」をとりあげてみたいと思います。なぜなら,もっとも感動し,もっとも大きな発見があったからです。
大野慶人さんは,断るまでもなく,舞踏家大野一雄さんのご長男。敗戦のときに6歳だったということですので,わたしとほとんど同世代。そんな年齢の方だとは知りませんでした。なぜなら,大野一雄さんの舞踏のときに脇役として登場する大野慶人さんは,じつに若々しくて,ソフトでしなやかな舞踏を展開されていたからです。それに引き換え,大野一雄さんの舞踏は動きの無駄を徹底的にそぎ落とした骨の部分を際立たせる,じつに重々しいものでした。
その大野慶人さんの舞踏が,大野一雄さんの再来か,と思わせるほどの,じつに重々しいものでした。まさか大野慶人さんの舞踏がみられるとは思ってもいませんでしたので,まずは,驚きました。しかも,これは偶然ですが,前から二列目の席に陣取っていましたので,至近距離での舞踏に触れることができました。これはラッキーでした。
こんな偶然もあって,大野慶人さんのからだの動きの一部始終が,しかも,その繊細な動きの微妙な震えも息遣いも,そして,少しうるんだ眼が宇宙の彼方をみやるような,えもいわれぬまなざしも,というようなありとあらゆるものが一つのかたまりとなって,そうオーラとなってわたしのからだのなかにするりと入り込んできました。
これはいったいどういうことなのか,と不思議な感覚でした。とりわけ,「竹」というテーマの舞踏が衝撃的でした。タイトルは大野慶人さんが舞踏を終えたあとのトークで知りました。ですから,みているときはタイトルはなにもわかりません。ただ,目の前で大野慶人さんの舞踏が展開されているだけです。タイトルもなにも知らないまま,みているこちらは無心です。ぼんやりとした無意識にも似た無心です。その無心に,大野慶人さんの舞踏が,するりと入り込んできたのです。
最初の立った姿勢から,まずは,重心をじつに時間をかけてゆっくりと下げていってかがみ込みます。その間,脚も胴体も腕も微妙に震えています。かがみ込んだ姿勢では,なぜか,かかとを浮かせたままの両脚が微細な震動を起こしています。重さと固さと震動とが入り交じった不思議な姿勢をしばらくの間,保っています。そして,その姿勢からふたたび重心を上に押し上げるようにして,じつにゆっくりと静かに,それでいて力強く立ち上がっていきます。ただ,それだけの動作なのに大野慶人さんの呼吸はすでに一杯いっぱいになっています。汗もじっとりと浮かんでいます。眼はうるんでみえます。
そして,こんどは立位の姿勢から,さらに上に伸び上がっていきます。それも,じつにゆっくりと静かに重心をめいっぱい高くしたところで,こんどは両腕が上に向かって静かに伸びていきます。そして,最後には,ややうるんだ憂いをふくんだ眼が天上高く見上げています。ここまでで,わたしのからだは完全に硬直してしまいました。大野慶人さんのからだとシンクロしはじめているのです。これはいったいどういうことなのか,と自問しながら舞踏に集中。
ここから大野慶人さんのからだは,ゆっくりと回転をはじめたり,なにかに押されるようにして横に揺れたり,ほんのわずかずつ横に動いたり,と舞踏がつづきます。しかし,どうみても大野慶人さんのからだが,次第にひとつの「物体」に見えてきます。大野慶人さんのからだが限りなく物体になりきっている,といえばいいでしょうか。肉体と物体の境界領域をせめぎ合っているように,わたしの眼にはみえてきました。なにか,原初の生命現象の表出というべきか,ちょっとことばでは表現不能の「なにか」がわたしのからだに入り込んできました。
この舞踏のあと,大野慶人さんはつぎのようなトークをなさいました。やや甲高い声で,しかし,抑制された静かな声で,ことばを選びながら,こちらもゆっくりと話されました。その内容を聞いていて,なるほどとこれまた驚きました。大野慶人さんは郡司正勝さんから「竹」の話を聞き,大きな感銘を受けたというのです。竹は中が空洞である。からっぽなのだ。竹は中が「からだ」。これがわたしたちの身体を「からだ」と呼ぶようになった語源である,と。
からだは,中が空洞なのだから,外からなんでも入ってくるし,勝手に外に出ていってもしまう。つまり,出入り自由なのだ。からだとはそういうものだ。だからこそ,なににでも「なる」ことができるし,究極的には「なる」しかないのだ。それがからだというものだ。
こんな風に郡司正勝さんは話してくださった,と大野慶人さんは静かに語り,さきほどの舞踏のテーマはその「竹」です,バンブー・ダンスです,と仰る。なるほど,とこころの底から得心しました。身に沁みてわかる(この話もなさいました),とはこういうことなのだと,納得。
こんな風にして,対談者の小笠原隆夫監督をそっちのけにしたまま,つぎからつぎへと惜しげもなく舞踏をし,その舞踏についてのトークを一人語りでし,息継ぐ間もないほどでした。そうして,わたしの中にあった「舞踏」というものに対する構えのようなものが,ひとつずつ取り払われていきました。「紙一重」というテーマの舞踏とトークも強烈でした。また,和紙を思いっきり引っ張りながら伸ばしていき,あるところからはふにゃふにゃな一本の長いひもになる舞踏とトークもまた強烈な印象となって残りました。指人形を使った舞踏にも驚かされました。
これらの舞踏の一つひとつを語るのは割愛させていただきます。
それよりなにより,大野慶人さんの舞踏が大野一雄さんの舞踏に限りなく近づいていることを知り,じつに驚きました。年齢相応のからだで踊る,それ以上でもないし,それ以下でもない,あるがままのからだで「なるようになる」,そんな,かつての大野一雄さんの境地に慶人さんもまたなりつつある,と感じました。
舞踏とはなにか・・・とずっと考えつづけていたことの核心に触れる部分に,大野慶人さんの舞踏とトークがみごとに答えてくれました。喉にひっかかっていた骨がポロリと落ちたように思います。それは,肉体と物体の関係性です。じつは,ドイツ語の Koerper はこの両方の意味を含意しています。同時に,死体の意味ももっています。つまり,肉体も物体も死体も,じつは同義なのだ,と。となると,舞踏がこの三つの世界を自在に往来するのは,なんの不思議てもない,と。むしろ,原点回帰というべきでしょう。
そこで閃いたのが,ジョルジュ・バタイユのいう「動物性」の世界であり,「内在性」の世界です。そして,人間の深層心理には,動物性や内在性への強い回帰願望がひそんでいる,という考え方です。ここからさきのことは,これまでのブログのなかで詳細に論じてきていますので,これもまた,ここで割愛。結論的に触れておけば,人間は生の源泉に触れたいという衝動と無縁ではありえない,ということ。舞踏もまた「生の源泉」に触れたいという衝動に突き動かされている,と。別の言い方をすれば「聖なるもの」(ジャン・ピエール・デュピュイ)との交信・共鳴・共振の表出である,と。
ここに至りついただけで,わたしは大満足でした。これから機会があれば大野慶人さんの舞踏を追ってみたいと強く思いました。舞台の上まで車椅子で登場し,そこで衣装に着替えたとたんに,ひとりで立ち,踊りはじめた大野一雄さんの舞台はわすれられません。舞踏,恐るべし,です。まさに「身体表出」そのものというべきでしょうか。「表出」とは,そういうものだ,とわたしは理解しています。ここにもひとつ大きな議論が待っています。このことは,いずれ機会をあらためて・・・・。
とりあえず,大野慶人さんの舞踏とトークが,これまでのわたしの蒙昧な思考のもやもやを,もののみごとに晴らしてくれたことに感謝。
日時:9月10日(水)14:20
場所:草月ホール
主催:「身体表出の日本的様相」実行委員会,アテネ・フランセ文化センター
行ってみて驚いたのは盛りだくさんのプログラム。14:20にはじまって終わったのは20:00を過ぎていました。そんな時間になっているとはとても思えないほどに,わたしにとっては充実した時間でした。なぜなら,意外な発見と違和感が多々あったからです。結論的に言ってしまえば,映画人と呼ばれる人たちのみている世界が垣間見えたこと,その世界の不思議さと驚きと違和,というところでしょうか。それらの内容については,いずれ分割して書いてみたいと思っています。それほどの内容があるということです。
とりあえず,今回は,その長丁場のプログラムのなかにあった,小笠原隆夫監督(今回のイベントの仕掛け人であり,上映作品の監督)と大野慶人さんとの「舞踏とトーク」をとりあげてみたいと思います。なぜなら,もっとも感動し,もっとも大きな発見があったからです。
大野慶人さんは,断るまでもなく,舞踏家大野一雄さんのご長男。敗戦のときに6歳だったということですので,わたしとほとんど同世代。そんな年齢の方だとは知りませんでした。なぜなら,大野一雄さんの舞踏のときに脇役として登場する大野慶人さんは,じつに若々しくて,ソフトでしなやかな舞踏を展開されていたからです。それに引き換え,大野一雄さんの舞踏は動きの無駄を徹底的にそぎ落とした骨の部分を際立たせる,じつに重々しいものでした。
その大野慶人さんの舞踏が,大野一雄さんの再来か,と思わせるほどの,じつに重々しいものでした。まさか大野慶人さんの舞踏がみられるとは思ってもいませんでしたので,まずは,驚きました。しかも,これは偶然ですが,前から二列目の席に陣取っていましたので,至近距離での舞踏に触れることができました。これはラッキーでした。
こんな偶然もあって,大野慶人さんのからだの動きの一部始終が,しかも,その繊細な動きの微妙な震えも息遣いも,そして,少しうるんだ眼が宇宙の彼方をみやるような,えもいわれぬまなざしも,というようなありとあらゆるものが一つのかたまりとなって,そうオーラとなってわたしのからだのなかにするりと入り込んできました。
これはいったいどういうことなのか,と不思議な感覚でした。とりわけ,「竹」というテーマの舞踏が衝撃的でした。タイトルは大野慶人さんが舞踏を終えたあとのトークで知りました。ですから,みているときはタイトルはなにもわかりません。ただ,目の前で大野慶人さんの舞踏が展開されているだけです。タイトルもなにも知らないまま,みているこちらは無心です。ぼんやりとした無意識にも似た無心です。その無心に,大野慶人さんの舞踏が,するりと入り込んできたのです。
最初の立った姿勢から,まずは,重心をじつに時間をかけてゆっくりと下げていってかがみ込みます。その間,脚も胴体も腕も微妙に震えています。かがみ込んだ姿勢では,なぜか,かかとを浮かせたままの両脚が微細な震動を起こしています。重さと固さと震動とが入り交じった不思議な姿勢をしばらくの間,保っています。そして,その姿勢からふたたび重心を上に押し上げるようにして,じつにゆっくりと静かに,それでいて力強く立ち上がっていきます。ただ,それだけの動作なのに大野慶人さんの呼吸はすでに一杯いっぱいになっています。汗もじっとりと浮かんでいます。眼はうるんでみえます。
そして,こんどは立位の姿勢から,さらに上に伸び上がっていきます。それも,じつにゆっくりと静かに重心をめいっぱい高くしたところで,こんどは両腕が上に向かって静かに伸びていきます。そして,最後には,ややうるんだ憂いをふくんだ眼が天上高く見上げています。ここまでで,わたしのからだは完全に硬直してしまいました。大野慶人さんのからだとシンクロしはじめているのです。これはいったいどういうことなのか,と自問しながら舞踏に集中。
ここから大野慶人さんのからだは,ゆっくりと回転をはじめたり,なにかに押されるようにして横に揺れたり,ほんのわずかずつ横に動いたり,と舞踏がつづきます。しかし,どうみても大野慶人さんのからだが,次第にひとつの「物体」に見えてきます。大野慶人さんのからだが限りなく物体になりきっている,といえばいいでしょうか。肉体と物体の境界領域をせめぎ合っているように,わたしの眼にはみえてきました。なにか,原初の生命現象の表出というべきか,ちょっとことばでは表現不能の「なにか」がわたしのからだに入り込んできました。
この舞踏のあと,大野慶人さんはつぎのようなトークをなさいました。やや甲高い声で,しかし,抑制された静かな声で,ことばを選びながら,こちらもゆっくりと話されました。その内容を聞いていて,なるほどとこれまた驚きました。大野慶人さんは郡司正勝さんから「竹」の話を聞き,大きな感銘を受けたというのです。竹は中が空洞である。からっぽなのだ。竹は中が「からだ」。これがわたしたちの身体を「からだ」と呼ぶようになった語源である,と。
からだは,中が空洞なのだから,外からなんでも入ってくるし,勝手に外に出ていってもしまう。つまり,出入り自由なのだ。からだとはそういうものだ。だからこそ,なににでも「なる」ことができるし,究極的には「なる」しかないのだ。それがからだというものだ。
こんな風に郡司正勝さんは話してくださった,と大野慶人さんは静かに語り,さきほどの舞踏のテーマはその「竹」です,バンブー・ダンスです,と仰る。なるほど,とこころの底から得心しました。身に沁みてわかる(この話もなさいました),とはこういうことなのだと,納得。
こんな風にして,対談者の小笠原隆夫監督をそっちのけにしたまま,つぎからつぎへと惜しげもなく舞踏をし,その舞踏についてのトークを一人語りでし,息継ぐ間もないほどでした。そうして,わたしの中にあった「舞踏」というものに対する構えのようなものが,ひとつずつ取り払われていきました。「紙一重」というテーマの舞踏とトークも強烈でした。また,和紙を思いっきり引っ張りながら伸ばしていき,あるところからはふにゃふにゃな一本の長いひもになる舞踏とトークもまた強烈な印象となって残りました。指人形を使った舞踏にも驚かされました。
これらの舞踏の一つひとつを語るのは割愛させていただきます。
それよりなにより,大野慶人さんの舞踏が大野一雄さんの舞踏に限りなく近づいていることを知り,じつに驚きました。年齢相応のからだで踊る,それ以上でもないし,それ以下でもない,あるがままのからだで「なるようになる」,そんな,かつての大野一雄さんの境地に慶人さんもまたなりつつある,と感じました。
舞踏とはなにか・・・とずっと考えつづけていたことの核心に触れる部分に,大野慶人さんの舞踏とトークがみごとに答えてくれました。喉にひっかかっていた骨がポロリと落ちたように思います。それは,肉体と物体の関係性です。じつは,ドイツ語の Koerper はこの両方の意味を含意しています。同時に,死体の意味ももっています。つまり,肉体も物体も死体も,じつは同義なのだ,と。となると,舞踏がこの三つの世界を自在に往来するのは,なんの不思議てもない,と。むしろ,原点回帰というべきでしょう。
そこで閃いたのが,ジョルジュ・バタイユのいう「動物性」の世界であり,「内在性」の世界です。そして,人間の深層心理には,動物性や内在性への強い回帰願望がひそんでいる,という考え方です。ここからさきのことは,これまでのブログのなかで詳細に論じてきていますので,これもまた,ここで割愛。結論的に触れておけば,人間は生の源泉に触れたいという衝動と無縁ではありえない,ということ。舞踏もまた「生の源泉」に触れたいという衝動に突き動かされている,と。別の言い方をすれば「聖なるもの」(ジャン・ピエール・デュピュイ)との交信・共鳴・共振の表出である,と。
ここに至りついただけで,わたしは大満足でした。これから機会があれば大野慶人さんの舞踏を追ってみたいと強く思いました。舞台の上まで車椅子で登場し,そこで衣装に着替えたとたんに,ひとりで立ち,踊りはじめた大野一雄さんの舞台はわすれられません。舞踏,恐るべし,です。まさに「身体表出」そのものというべきでしょうか。「表出」とは,そういうものだ,とわたしは理解しています。ここにもひとつ大きな議論が待っています。このことは,いずれ機会をあらためて・・・・。
とりあえず,大野慶人さんの舞踏とトークが,これまでのわたしの蒙昧な思考のもやもやを,もののみごとに晴らしてくれたことに感謝。
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