2012年8月24日金曜日

「これはもはや柔道ではない」,グローバル化の成れの果て。

 柔道がレスリング化している。

 さすがに見兼ねたか,いきなり足のタックルに入ることはルールで禁止された。しかし,襟の端をつかんでおいてから足のタックルに入るのは許されている。

 そうしたルール改正(改悪?)も含めて,オリンピックの柔道ではおかしなことが平然と繰り広げられている(狂った理性のショウアップ)。

 まずは組み手争い。自分の得意(特異?)な組み手を求めるのは当然だが,相手十分の組み手になることをお互いに徹底して嫌う。だから,最初から最後まで,お互いにしっかりと組み合うという光景はほとんどみられなくなってしまった。そして,レスリングのフリー・スタイルと同じで,お互いの手を手繰りあったり,それを振りほどいたりすることばかり繰り返す。ついには,一度も組み合うこともなく判定に持ち込まれることもある。もはや,柔道としてはなんの意味もない。

 背負い投げに入っても投げきれずに,相手の足を手で巻き込んだままうしろに倒れ込んで,それで1本となる。これを軽量級の野村選手がオリンピックでやったときには驚いたものだ。この技をなんと呼ぶのだろう。知っている人がいたら教えてほしい。背負い投げくずれ?

 以前のオリンピックでは,小外刈りで相手が尻餅をついたことがある。この段階で,国内の柔道の試合なら完全に一本となる。しかし,オリンピックでは,技ありの判定。いまでは,技ありというルールもなくなってしまったので,小外刈りという技は判定の対象にもならないことになる。あるとしたら,小外刈りで尻餅をついた相手にのしかかっていって,相手の背中をつけるか,それともそこから寝わざに入るしかない。

 篠原選手(今回のオリンピックでは監督)の内股すかしが決まったのに,倒された相手選手が転がりながら篠原選手を巻き込んで横に倒し,これが有効となり篠原選手は金メダルを前にして涙を飲んだ。のちに,あれは誤審であった,と一応の釈明がなされた。ただ,それだけ。それどころか,技をかけられて転がりながら相手選手の襟をつかんだまま巻き込んで,もう一度投げ返す,しかも,そちらの技を有効とする判定があちこちにみられ,みていてわけのわからない判定がいくつもあった。

 ジュリーという制度があるとは,今回,初めて知ったが,あれもおかしなものだ。言ってしまえば,試合を進行させ,判定をくだす3人の審判が信用できない,ということが前提となって生まれた制度だ。事実,国際試合における柔道の審判のレベルはお粗末だ。柔道がどういうものであるのか,柔道の技の内容すらわかっていない審判が多すぎる。だから,わけのわからない判定が下されることになる。今回も,その判定に対してジュリーからクレームがつき,判定がくつがえったシーンがいくつもみられた。ならば,審判は不要だ。ジュリーが判定をくだせばいい。

 要するに,柔道の技と,技にあらざる技と,技でもなんでもない技(相手に投げられたのでしがみついたまま倒れ,二転三転しながら,最後に投げたようにみえる技)との区別がついていないのだ。その結果,相手の背中がついたかどうか,というところに判定の基準が変化してしまっている。だから,ますますレスリングとの差がなくなっていく。

 「これはもはや柔道ではない」。日本の柔道界のほとんどの人が同じことを言う。わたしの主張するように,柔道はJUDOになってしまったのだ。つまり,似て非なるものに進化してしまったのだ。だから,わたしの知っている柔道と,オリンピックなどで繰り広げられるJUDOとは,まったくの別物だ。まったく異なる競技が誕生したのだ。

 これが,柔道がグローバル化した結果の成れの果てだ。
 柔道をオリンピック競技種目に加えるということは,こういうことなのだ。

 その結果,どういうことが起きるか。全日本柔道選手権で繰り広げられる試合も,柔道ではなくなりJUDOになる,ということだ。言ってしまえば,全日本JUDO選手権大会と名乗りまで変えなくてはならなくなる,ということだ。そんなJUDOを普及させることになんの意味があるのか。

 いくら努力しても日本の柔道を世界に普及させることは不可能だというのであれば,日本は国際試合(すなわち,JUDO)から撤退すべきではないか。そうして,本来の柔道を国内で温存すべきではないか。でなければ,柔道はこの世から姿を消してしまうことになる。あるいは,講道館柔道として,ほそぼそと継承されることになるのだろうか。

 男子柔道惨敗という(これにはまた別の大きな理由があるのだが)結果を踏まえて,日本の柔道界は大きな岐路に立たされることになった。JUDOのための新しい攻防の手法を編み出すか,それとも毅然として一本勝ち柔道の姿勢を貫くか。

 JUDOからの撤退か,それとも,勝敗を度外視した真の柔道を世界に見せつけるか,あるいはまた,徹底したJUDOの開発に突進するか,その動向を見守りたい。

 グローバル化の内実とはこういうことなのだ。

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