2012年8月11日土曜日

山登りをこよなく愛する友・アシエールに贈った扇子。「六根合一」の意味。

 アシエール。本名は,アシエール・オイアルビデ・ゴイコエチェア。バスク人。バスク大学で登山や野外活動を教えている教授。苦労して最近,博士号を取得したばかり。大の日本贔屓で,バスク大学の人たちに言わせれば「アシエールは半分日本人だ」とのこと。本人もそう思っているらしい。

 わたしたちは,かれのことを密かに「ザビエル」と呼んでいる。その風貌が似ているだけではなく,自然との一体感を求めることに関してはまるで求道者にも似た生き方を徹底させているからだ。その生き方がどことなく日本人の雰囲気を漂わせる。だから,かれのことは日本人の研究者の多くが好きだ。まさに,日本人的なハートをたくさんもっていると感じられるからでもある。

 そのかれが,今回のプレゼンテーションではなかなか議論がかみ合わず,大いに落ちこんでしまった。とくに,期待していた日本側から十分な理解をえられなかったことが,よりいっそうかれの気持を落ちこませてしまったようだ。プレゼンテーションが終わった翌日は,みるも無惨な様子がありありと伝わってきた。

 これはいけないと考えたわたしは,かねてからかれにプレゼントしようと思ってもってきた扇子を,みんなの眼に触れないようにそっと渡した。そして,扇子に書いてある「六根合一」という文字の意味について,ごく簡単な説明だけをして,あとで詳しい説明をすることにした。もちろん,そのときは嬉しそうな顔をしたが,すぐに顔の表情は曇っている。で,仕方がないので,スペイン語のできる友人のTさんに「六根合一」の意味について少し詳しい説明を書いたメモをわたして,いつかチャンスがあったら説明してやってほしい,とお願いをした。

 その扇子は,じつは,将棋の羽生名人が「千勝記念」の折に関係者に配ったものだ。その中に「六根合一」と書いてある。字はどう考えても上手とは言えないが,毛筆で,それなりに一生懸命に書いたものだ。羽生名人のお人柄が文字に浮びでている。

 この「六根合一」とはなにか。たぶん,日本人でも多くの人は理解できないはず。わたしは子どものころから寺に育ち,『般若心経』などにもなじんでいるので,その意味はみてすぐに理解していた。だから,この扇子をもらっても使わないで大事にしまってあった。なにか特別のとき以外はほとんど使うこともなく,しまってあった。このままでは使われることなく無駄になってしまうと考え,思いきってアシエールにプレゼントしようと考えた次第。

 「六根合一」の「六根」とは,仏教でいうところの六識。すなわち「眼・耳・鼻・舌・身・意」のこと。つまり,六つの感覚器官のことだ。これに対応するのは「色・声・香・味・触・法」である。これらのことについては『般若心経』をみれば詳しく書いてある。このお経を知っている人なら口をついてでてくる有名な文言である。

 一般的によく知られている言い方をすれば「六根清浄,お山は晴天」であろうか。これは信仰登山をする人たちがいまでも唱える文言である。山に登りながら,みんなで「六根清浄,お山は晴天」と交互に唱える。そうして,一歩一歩足を踏みしめ山に登っていく。この情景は,志賀直哉の『暗夜行路』にも描かれている。主人公の時任謙作が,いろいろ思い悩んで鳥取の大山に登る。そのときに「六根清浄,お山は晴天」と唱えながら,時任謙作も登山している。

 六根とは文字通り感覚器官である。それらの感覚器官をとおしてわたしたちは日常の世界と接している。しかし,仏教では,これらの感覚器官をとおして把握する世界は仮のものであって,真実ではない,と説く。形あるもの(色)も,音(声)も,匂い(香)も,味覚も,触れるものも,直感的なひらめきも,みんな仮のものでしかない,という。これらの感覚をすべて「合一」してしまえば,個々別々の情報は入らなくなる。日常の感覚世界が消え去り,あらゆるものを超越した世界がひろがってくる。そのときに「無」が立ち現れる,という。

 登山をしながら,汗をいっぱい流し,呼吸も苦しくなるほどにからだを酷使して,極限状態に近づいていく。すると,やがて,なにも考えない「六根清浄」の世界がやってくる。この世界が「無」(あるいは,「無」に近い状態)だというわけである。六根清浄をなしえた人間は菩薩にも等しい,と考えられている。「無」とは「なにもない」ということではなくて,むしろその逆である。つまり,「無」とは邪念がすべて消え去った,とても清浄で充実した状態のことを意味する。

 老子のいう「無為自然」(むいじねん)もまた,「為すことのない完璧な状態」を意味する。「無心」になるとはなんの迷いもない完全無欠の状態に入ることを意味する。

 とまあ,こんなことをメモにしてTさんにお願いをする。
 いつ,どこで,Tさんがアシエールに説明してくれたのかは知らない。しかし,これでお別れという日の朝,かれはわたしをしっかりと抱きしめ,頬ずりをしながら,「最高のプレゼントをありがとう,ぼくの宝物にするよ」と言ったあと,バスクにぜひ来てほしい,そのときには半年くらい滞在すればいい,あちこちの山に案内したい,と。そして,背を向けて歩きはじめるときの最後の一瞥は真剣そのものだった。

 ああ,やっぱりアシエールはザビエルだった,とこころの中で思う。そして,あの扇子はいい人にもらわれていったなぁ,と思う。かれはしばしばあの扇子を開いては凝視することだろう。そして,「六根合一」について考えることだろう。それでこそ,あの扇子は生きる。そして,よき思い出となるだろう。わたしという人間の記憶とともに。

 日本語を覚えて,また,日本に来たいと言ったアシエール。そう,日本語を修得すること,それが君が期待する日本文化を理解するための最短距離だ。楽しみに待ってるよ。アシエール。そして,「六根清浄」について,もっともっと深く理解してもらえるように,わたしも勉強しておこう。

いつの日にか,きっと。
未来に夢をもつことは生きていく上で大事なことだから。

0 件のコメント: