岩波の『世界』という雑誌には時折,スポーツを題材にした論考が掲載される。しかし,その比率はきわめて少ない。しかし,こんにちを生きる「人間」や「世界」におけるスポーツの意味や役割を考えると,もう少し頻繁に取り上げてもいいのではないか,とわたしは考えている。
今月(9月号)の『世界』に久しぶりにスポーツの話題が取り上げられている。
題して「世界一の女性総合格闘家──女性がアスリートであること」。筆者は秋山訓子さん。同誌の筆者紹介によると以下のとおり。朝日新聞記者。東京大学文学部卒業。政治部,アエラ編集部,国際報道部などをへて現在 globe編集部所属。
内容は文句なく面白い。一気に読ませる文章も魅力的。周到に手をつくした取材が光る。なにより,女性総合格闘家にそそぐまなざしがいい。そこはかとない敬愛の念がつたわってくる。まさに,女性でなくては書けない,ゆきとどいた目配りがいい。しかも,女性という狭い視野にとらわれることなく,人間としての生き方に強い関心を示す。そして,「世界一」になる人間とはどういう内実を伴っているのか,というところに筆者の手が伸びていく。
こういう人がスポーツを語ってくれるとありがたい。
最近では,スポーツ・ライターなる肩書で仕事をしている人が激増している。しかし,そういう人たちの大半は,確たる思想も哲学も持ち合わせることなく,ましてや歴史や世界を視野に入れてスポーツを語るという姿勢が欠落している。もちろん,人間とはなにか,という基本的な思考の素養もない。そういう事態がなし崩し的に広まっている。由々しき事態であると歯痒い思いをしている。
スポーツは,ちょっと取材するだけで,ある程度の読物としての記事は書こうと思えば書ける。人が驚いたり,まさかと思われるようなネタが拾えれば,それだけで書ける。しかし,アスリートの側からすれば,あまりに薄っぺらい内容に驚き,自分の真意は伝わってはいない,という不快感が残る。単なる使い捨てにすぎないではないか,という後味の悪さだけが残る。
じつは,用意周到な筆者の秋山さんはわたしのところにも取材の依頼があった。『世界』の中本さんのご紹介だということだったので,喜んでお引き受けした。聰明な方で,つぎつぎに核心をつく問いが発せられる。そうして,わたしの話をどんどん吸収され,あっという間に取材ノートが埋まっていく。そして,それとなく取材ノートをみると,重要なところは大きな〇で括り,その〇と〇との間に矢印がつけられたり,番号がふってあったり・・・と,なるほど,取材しながら,もうつぎの作業に入っている・・・と感心してしまったほどだ。
こんなこともあって,今回の『世界』の原稿のなかにはわたしの談話も登場する。どんな風に使われるのかといささか心配ではあったが,まったく問題のない,むしろ正鵠を射た内容になっていて,さすがだなぁと感心した。丁寧なお仕事をされる人らしく秋山さんは,原稿の段階で一度お見せします,と言われたが忙しいでしょうからお任せします,とわたしは応じておいた。それで間違いのない人だったということも証明された。
あのときのお話では,ロンドン・オリンピックの取材のお手伝いもすることになっている,と聞いている。帰ってこられたら,中本さんも交えて,オリンピックのお話を聞かせてもらいたいと心待ちにしている。秋山さんも中本さんも,とんでもなく超多忙な方なので,なかなかそんな時間はないかも知れない。でも,楽しみに待つことにしよう。いつかはチャンスがあるだろう,と。
今月(9月号)の『世界』に久しぶりにスポーツの話題が取り上げられている。
題して「世界一の女性総合格闘家──女性がアスリートであること」。筆者は秋山訓子さん。同誌の筆者紹介によると以下のとおり。朝日新聞記者。東京大学文学部卒業。政治部,アエラ編集部,国際報道部などをへて現在 globe編集部所属。
内容は文句なく面白い。一気に読ませる文章も魅力的。周到に手をつくした取材が光る。なにより,女性総合格闘家にそそぐまなざしがいい。そこはかとない敬愛の念がつたわってくる。まさに,女性でなくては書けない,ゆきとどいた目配りがいい。しかも,女性という狭い視野にとらわれることなく,人間としての生き方に強い関心を示す。そして,「世界一」になる人間とはどういう内実を伴っているのか,というところに筆者の手が伸びていく。
こういう人がスポーツを語ってくれるとありがたい。
最近では,スポーツ・ライターなる肩書で仕事をしている人が激増している。しかし,そういう人たちの大半は,確たる思想も哲学も持ち合わせることなく,ましてや歴史や世界を視野に入れてスポーツを語るという姿勢が欠落している。もちろん,人間とはなにか,という基本的な思考の素養もない。そういう事態がなし崩し的に広まっている。由々しき事態であると歯痒い思いをしている。
スポーツは,ちょっと取材するだけで,ある程度の読物としての記事は書こうと思えば書ける。人が驚いたり,まさかと思われるようなネタが拾えれば,それだけで書ける。しかし,アスリートの側からすれば,あまりに薄っぺらい内容に驚き,自分の真意は伝わってはいない,という不快感が残る。単なる使い捨てにすぎないではないか,という後味の悪さだけが残る。
じつは,用意周到な筆者の秋山さんはわたしのところにも取材の依頼があった。『世界』の中本さんのご紹介だということだったので,喜んでお引き受けした。聰明な方で,つぎつぎに核心をつく問いが発せられる。そうして,わたしの話をどんどん吸収され,あっという間に取材ノートが埋まっていく。そして,それとなく取材ノートをみると,重要なところは大きな〇で括り,その〇と〇との間に矢印がつけられたり,番号がふってあったり・・・と,なるほど,取材しながら,もうつぎの作業に入っている・・・と感心してしまったほどだ。
こんなこともあって,今回の『世界』の原稿のなかにはわたしの談話も登場する。どんな風に使われるのかといささか心配ではあったが,まったく問題のない,むしろ正鵠を射た内容になっていて,さすがだなぁと感心した。丁寧なお仕事をされる人らしく秋山さんは,原稿の段階で一度お見せします,と言われたが忙しいでしょうからお任せします,とわたしは応じておいた。それで間違いのない人だったということも証明された。
あのときのお話では,ロンドン・オリンピックの取材のお手伝いもすることになっている,と聞いている。帰ってこられたら,中本さんも交えて,オリンピックのお話を聞かせてもらいたいと心待ちにしている。秋山さんも中本さんも,とんでもなく超多忙な方なので,なかなかそんな時間はないかも知れない。でも,楽しみに待つことにしよう。いつかはチャンスがあるだろう,と。
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