すでに,このブログでも書きましたように,第2回日本・バスク国際セミナーは,今福龍太さんの特別記念講演でその幕が切って落とされました。そのテーマは「身体──ある乱丁の歴史」。しかも,通訳なしの一人二役。まずは,スペイン語で語りかけ,そのあとで日本語にして語るという滅多にお目にかかれない講演となりました。
一人二役は,だれでもできるというわけにはいきませんが,できればこの方が通訳を入れるよりははるかにいい,と今回の経験で知ることができました。なぜなら,自分の言いたいことを自分でスペイン語に置き換える作業をするわけですので,その趣旨をはずすことはありません。しかし,通訳を入れた場合には,「身体」にかかわる専門的な微妙な表現はどうしても酌み取ることはできません。おのずから「ズレ」が生じてしまいます。その点,今福さんのスペイン語・日本語という一人二役は完璧と言っていいでしょう。
あとで今福さんからうかがったところによれば,スペイン語で話したことをそのまま日本語にしてしゃべったわけではない,とのことでした。つまり,スペイン語では論旨を簡潔にわかりやすく述べることにつとめ,日本語ではアドリブでその論旨をかなり踏み込んで細部にわたる話にした,と。もっと言ってしまえば,言語を変えることによって,二つの意味内容の講演を同時に進行させていたというわけです。この試みは今福さんにとっても初めての経験で,とてもスリリングで楽しかったとのことです。
そのことを知らないで聞いていたわたしは,こんなに細部にわたる身体の話をバスクの人たちは理解できるのだろうか,と心配していました。ところが,今福さんもその点は心得ていて,バスクの人たちが身体を,われわれ日本人とはまったく違う理解の仕方で考えている,ということを前提にしてお話をされたようです。つまり,バスクの人たちは,遠いむかしのことはともかくとして,いまでは敬虔なカソリック信仰の世界を生きていますので,身体は「物質」(「もの」)だと考えているということです。その人たちに対して,身体は「物質」でもなんでもなく,まことに捉えどころのない,複雑怪奇な存在なのだ,ということを話されたという次第です。
もう少しだけ踏み込んでおけば,バスクの人たちは,身体は自己の所有物である,と信じています。だから,自己の身体をどのように加工してもそれは自己責任の範囲内にあるものだ,と考えています。しかし,それに対して,今福さんは身体はハイブリッドな複合体であり,精神も情緒も肉体もあらゆる要素をすべて合わせてひとつの身体となるのであり,自己が所有できるものではない,と説きます。それどころか「所有を突き放す」もの,「所有の外にとどめ置く」ものだ,と主張されます。
この今福さんの講演は,バスクの人たちにとってはきわめてショッキングな話ではなかったか,とわたしは想像しています。あるいは,まったく理解不能であったかもしれません。それほどの大きなギャップのあるものでした。しかし,わたしたちとしては,まことにありがたい理論武装となりました。日本側の研究者はなぜ,そんなに身体にこだわるのか,というのが第1回日本・バスク国際セミナーでの結論でしたので,そのことへの応答として最高の講演となりました。
たとえば,今福さんが用意されたレジュメには,つぎのように書かれています。まず,最初にスペイン語の文章があり,そのあとに日本語の文章がつづいています。そのうちの日本語の文章だけを引用しておきましょう。それは以下のとおりです。
「歴史にも乱丁や落丁があるとすれば,わたしたちの身体は一つの乱丁の歴史の反映にほかならない。私たちの日常の身体には,歴史の通時的経過をくつがえすさまざまな亀裂や不意の断片が組み込まれている。歴史学者が見落としてしまうような隙間が広がり,正統の歴史からは見えなくなった修復のあとが刻まれている。」
「身体はつねになにかを裏切り,逸脱し,思いがけない動きをするものである。私たちの身体という野性獣にたいする猛獣使いはいない。歴史も,社会も,私たち自身ですら,身体の核心に触れることはむずかしい。それは反逆児,本能的な革命家であり,支配的な価値のシステムにたいしてたえず根底的な批判をおこなう。伝統スポーツという名で私たちが考えようとする領域は,まさに私たちの日常の身体が革命的な戦いをくりひろげる特権的な舞台にほかならない。」
さて,これらの文章をバスクの人たちはどのように受け止めたのだろうか。いつか,しっかりと確認してみたいと思う。そのためには,こちらから出かけていく必要がありそうだ。これもまた近い将来の楽しみのひとつにしておこう。とりわけ,アシエールに聞いてみたい。
一人二役は,だれでもできるというわけにはいきませんが,できればこの方が通訳を入れるよりははるかにいい,と今回の経験で知ることができました。なぜなら,自分の言いたいことを自分でスペイン語に置き換える作業をするわけですので,その趣旨をはずすことはありません。しかし,通訳を入れた場合には,「身体」にかかわる専門的な微妙な表現はどうしても酌み取ることはできません。おのずから「ズレ」が生じてしまいます。その点,今福さんのスペイン語・日本語という一人二役は完璧と言っていいでしょう。
あとで今福さんからうかがったところによれば,スペイン語で話したことをそのまま日本語にしてしゃべったわけではない,とのことでした。つまり,スペイン語では論旨を簡潔にわかりやすく述べることにつとめ,日本語ではアドリブでその論旨をかなり踏み込んで細部にわたる話にした,と。もっと言ってしまえば,言語を変えることによって,二つの意味内容の講演を同時に進行させていたというわけです。この試みは今福さんにとっても初めての経験で,とてもスリリングで楽しかったとのことです。
そのことを知らないで聞いていたわたしは,こんなに細部にわたる身体の話をバスクの人たちは理解できるのだろうか,と心配していました。ところが,今福さんもその点は心得ていて,バスクの人たちが身体を,われわれ日本人とはまったく違う理解の仕方で考えている,ということを前提にしてお話をされたようです。つまり,バスクの人たちは,遠いむかしのことはともかくとして,いまでは敬虔なカソリック信仰の世界を生きていますので,身体は「物質」(「もの」)だと考えているということです。その人たちに対して,身体は「物質」でもなんでもなく,まことに捉えどころのない,複雑怪奇な存在なのだ,ということを話されたという次第です。
もう少しだけ踏み込んでおけば,バスクの人たちは,身体は自己の所有物である,と信じています。だから,自己の身体をどのように加工してもそれは自己責任の範囲内にあるものだ,と考えています。しかし,それに対して,今福さんは身体はハイブリッドな複合体であり,精神も情緒も肉体もあらゆる要素をすべて合わせてひとつの身体となるのであり,自己が所有できるものではない,と説きます。それどころか「所有を突き放す」もの,「所有の外にとどめ置く」ものだ,と主張されます。
この今福さんの講演は,バスクの人たちにとってはきわめてショッキングな話ではなかったか,とわたしは想像しています。あるいは,まったく理解不能であったかもしれません。それほどの大きなギャップのあるものでした。しかし,わたしたちとしては,まことにありがたい理論武装となりました。日本側の研究者はなぜ,そんなに身体にこだわるのか,というのが第1回日本・バスク国際セミナーでの結論でしたので,そのことへの応答として最高の講演となりました。
たとえば,今福さんが用意されたレジュメには,つぎのように書かれています。まず,最初にスペイン語の文章があり,そのあとに日本語の文章がつづいています。そのうちの日本語の文章だけを引用しておきましょう。それは以下のとおりです。
「歴史にも乱丁や落丁があるとすれば,わたしたちの身体は一つの乱丁の歴史の反映にほかならない。私たちの日常の身体には,歴史の通時的経過をくつがえすさまざまな亀裂や不意の断片が組み込まれている。歴史学者が見落としてしまうような隙間が広がり,正統の歴史からは見えなくなった修復のあとが刻まれている。」
「身体はつねになにかを裏切り,逸脱し,思いがけない動きをするものである。私たちの身体という野性獣にたいする猛獣使いはいない。歴史も,社会も,私たち自身ですら,身体の核心に触れることはむずかしい。それは反逆児,本能的な革命家であり,支配的な価値のシステムにたいしてたえず根底的な批判をおこなう。伝統スポーツという名で私たちが考えようとする領域は,まさに私たちの日常の身体が革命的な戦いをくりひろげる特権的な舞台にほかならない。」
さて,これらの文章をバスクの人たちはどのように受け止めたのだろうか。いつか,しっかりと確認してみたいと思う。そのためには,こちらから出かけていく必要がありそうだ。これもまた近い将来の楽しみのひとつにしておこう。とりわけ,アシエールに聞いてみたい。
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