2012年8月16日木曜日

バスク民族の伝統スポーツ・ペロタのルーツはジュ・ドゥ・ポームか?それは逆ではないか?

 バスク民族の伝統スポーツの代表的なものの一つにペロタ(球戯)がある。その研究者であるオイドゥイさん(バスク大学)の説によれば,ペロタのルーツはジュ・ドゥ・ポームだという。しかし,わたしは,それは逆ではないか,という仮説を立てている。それは,わたしの長いテニス史研究の一つの結論でもある。

 じつは,この背景には大きな問題が隠されている,とわたしは考えている。
 一つは,ヨーロッパの文明先進国によるバスク隠しの問題である。あるいは,バスク蔑視にもとづく歪んだ歴史叙述の問題である。
 二つには,キリスト教文化による異教信仰文化排除という力学が働いているのではないか。その典型的な例をペロタのルーツにもみてとることができるからだ。
 三つには,資料実証主義歴史観によって隠蔽されてしまった,重大な事実隠しを類推することができるからである。
 四つには,フランコ政権時代の徹底したバスク語・バスク文化排除の弾圧の成果をそこにみてとることができるからだ。

 大きくは,この四つの柱を立てて,これまでわたしはバスクの伝統スポーツの問題を考えてきた。 その結論の一つが,たとえば,フランスに起源をもつとされるジュ・ドゥ・ポーム(のちにテニスとなる)のルーツはバスクのペロタである,というものである。この根拠をきちんと説明するためには,相当のスペースを必要とするので,ここでは深入りしない。

 しかし,ペロタ研究者のオイドゥイさんは,ペロタのルーツはジュ・ドゥ・ポームである,と信じて疑わない。なぜなら,これまでのテニス史研究の主流がそのように結論づけているからだ。わたしたちが翻訳したH.ギルマイスターの『テニスの文化史』(大修館書店)にも,同様の記述がある。しかも,そこにはご丁寧にも,ラケットでポールを打ち合うようになったテニスがバスクに伝承され,それが先祖返りをするようにして,ラケットからそれ以前の打球具が使用されるようになり,最後に「素手」で打ち合うジュ・ドゥ・ポームの形式に至りついたものだ,と説明されている。

 わたしは,この記述を知った段階で,こんな馬鹿げたアナロジーがテニス史研究の権威者によって平気でなされていて,しかもなんの反論も提示されることもなくこんにちに至っている,その事実に唖然としたものである。ユーロセントリズムなどということばは使いたくもないが,現実に,こんなかたちで歪曲もはなはだしい歴史叙述が大通りを闊歩し,バスク隠しに大いなる貢献をしている事実をみると黙ってはいられない。

 その犠牲者のひとりがオイドゥイさんではないか,と。自民族の誇るべき伝統スポーツであり,バスク民族のアイデンティティを構築する上でのきわめて重要な文化装置の一つでもあるペロタを,フランスから移入されたものである,というのだ。

 わたしは,ペロタのルーツは太陽信仰にあると考えている(それを裏付ける傍証もある)。つまり,太陽信仰儀礼の一つなのだ,と。だから,ペロタはずっとずっと古い歴史をもっていたはずである。他方,ジュ・ドゥ・ポームがゲームとしてその存在が知られるようになったのは修道院である(テニス史の図像資料に明らか)。なぜ,修道院なのか。じつは,ここにこの謎解きの大きな鍵がある。その鍵の一つだけを記しておこう。

 それは,キリスト教公認のボール・ゲームにするには,異教信仰にルーツをもつペロタであってはならないのであって,それを換骨奪胎して,修道院で考案されたジュ・ドゥ・ポームと名前を変える必要があった。そして,修道院のネットワークをとおして全ヨーロッパに広まっていった。それが,やがてテニスに進化していった,と。

 この議論の詳細については,第3回日本・バスク国際セミナーが開催される折には(いまのところ未定),ぜひとも取り上げてみたいと考えている。バスクの人たちがどんな顔をするのだろうか,とその顔を想像しながら。

 ちなみに,オイドゥイさんの顔は,能面アーティストの柏木さんの言うに,達磨さんそのものだ,とのこと。達磨さんはインド人のはずだが,ひょっとしたらバクス人かも?バスク語と日本語とはとても近い類縁関係にあるとも言われていることだし・・・・。

 最後にひとこと。バスクの人たちは日本人にたいしてとても親近感をもっている。これは実際にバスクに行ってみて実感した。こんどはわたしたちの方からなにかお返しをしなくては・・・・とも考えている。その一つが,テニス史の定説を書き換えることではないか,と。

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