このところ小説を読む時間がつくれなくて,いささか欲求不満がたまっていた。買い込んだ本が山になっている中から,とりあえず,と思って手を伸ばしたのがこの本『冥土めぐり』だった。いつも,芥川賞と直木賞の受賞作だけは読んでおこうと心がけてはいる。その他の小説は,わたしの好きな作家のものは読むが,それ以外の作家の作品にはなかなか手が伸びない。その意味では,芥川賞・直木賞の受賞作は,わたしの読書範囲をひろげてくれる絶好のチャンスでもある。
恥ずかしながら,わたしは鹿島田真希という作家を知らなかった。作家の略歴をみると,すでに,文藝賞(1998),三島由紀夫賞(2005),野間文芸新人賞(2007)と多くの賞を受賞している。そしてこんどの芥川賞だ。だから,すでにこの世界ではよく知られた存在だったわけだ。こんなことが最近,多くなってきている。まるで浦島太郎のような経験が。
『冥土めぐり』というタイトルをみて,なんだか抹香臭い本だなぁ,と思っていたら,案の定,仏教的世界観が通奏低音となって鳴り響いている作品だった。そのことがわかるまでは,なんとも退屈な,どこにでもある壊れた家族の話がつづく。いったいこの小説はなにを言いたいのだろうかといぶかりながら読み進む。この前半にしかけられたお膳立てが後半の急転回にとって必要だったのだということがわかった瞬間から,一気に引き込まれていく。そうか,この作家は『ブッダのことば』(岩穂波文庫)の世界に親近感をもっているのだ,と。
人間はこころの置き所によっては,たいへんに不幸な,ありえない話だと思い込んでいた自分の過去の記憶も,一転して,ありがたいお話に化けることがある。つまり,こんにちのわたしをあらしめるための試練として悲惨な過去があったのだ,と。この境地に立ったとき,世界は一変して,あるがままの自然体のありがたさがみえてくる。世俗の欲望に振り回されている生き方の<外>へ一歩踏み出した瞬間から,安穏な,なんとも平らかな世界がみえてくる。そして,わたしを苦しめた「冥土めぐり」も卒業となる。
主人公の奈津子は,ごくごく平凡なおとなしい女性。その奈津子の母親と弟は,奈津子が金持ちの男性と結婚しなかったことがわが家の不幸のはじまりだと言って奈津子をことあるごとに誹謗中傷し,責めたてる。母親は過去の栄光(父親が金持ちだったので,贅沢三昧の生活に慣れきっていて,そこから抜け出せないまま,夫を亡くし,老後を迎えている)こそがほんとうの生活であって,それができなくなってしまったのは奈津子が金持ちの男と結婚しなかったからだ,と信じて疑わない。弟も母親似で,経済観念の欠落した生活破綻者。いよいよ現金がなくなるとカード生活に頼り,ついに破綻をきたし母親のマンションを売却しなければならない羽目に陥いる。にもかかわらず,懲りずに贅沢な生活を追い求めている。
そんな母親と弟に脅かされながらも,奈津子はパートで働いていた区役所勤務の青年と結婚する。その青年は北海道出身で,じつに素朴でおおらかな性格。のみならず他人の生活や生き方にはなんの干渉もしない。日々,淡々と生きている。母親や弟になにを言われようが「われ関せず」の姿勢をくずさない。まったくのマイペース。そんな彼が,ある日突然,脳の発作を起こし,大きな手術を受ける。九死に一生をえるも,残されていたのは障害者としての車椅子生活。奈津子はパートで働きながら必死で夫のリハビリを支える。
それでも母親と弟は奈津子にカネを無心する。夫は障害者になって,ますます「われ関せず」の生き方が全面に表出してきて,まるで童心にかえったかのように,淡々と清らかに生きている。夫が障害者となって8年が経過したとき,奈津子は思いきって,母親が子どものころに慣れ親しんだという豪華ホテルの割安チケットを手に入れ,夫とふたりで出かける決意をする。そこに見出したものは・・・・「冥土めぐり」,そして,そこからの脱出。禅のことばを借りれば「脱落(とつらく)」。世俗のしがらみを越えた清らかな世界との出会い。
夫が障害者となったことが,奈津子を救うための,あらかじめ用意されたシナリオだったのではないか・・・・,と奈津子は思う。カネとも無縁の,計算も打算もない,ますます童心に帰っていく夫の障害者としての生き方こそが,純粋無垢の,清らかな人間の生き方ではないのか,と。
この小説の後半に入ってからは,わたしの頭のなかは『ブッダのことば』のフレーズがつぎつぎに浮かんできた。とくに,「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく,あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく,また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」,というフレーズが。
久し振りに小説らしい小説を読んだ。そして,こころが洗われた。どこにでもある日常の,虚実皮膜の間(あわい)にこそ真実は宿る,とあらためて認識した。読後にズシンとくる,とてもいい作品だった。とくに,いまのわたしには・・・・。
恥ずかしながら,わたしは鹿島田真希という作家を知らなかった。作家の略歴をみると,すでに,文藝賞(1998),三島由紀夫賞(2005),野間文芸新人賞(2007)と多くの賞を受賞している。そしてこんどの芥川賞だ。だから,すでにこの世界ではよく知られた存在だったわけだ。こんなことが最近,多くなってきている。まるで浦島太郎のような経験が。
『冥土めぐり』というタイトルをみて,なんだか抹香臭い本だなぁ,と思っていたら,案の定,仏教的世界観が通奏低音となって鳴り響いている作品だった。そのことがわかるまでは,なんとも退屈な,どこにでもある壊れた家族の話がつづく。いったいこの小説はなにを言いたいのだろうかといぶかりながら読み進む。この前半にしかけられたお膳立てが後半の急転回にとって必要だったのだということがわかった瞬間から,一気に引き込まれていく。そうか,この作家は『ブッダのことば』(岩穂波文庫)の世界に親近感をもっているのだ,と。
人間はこころの置き所によっては,たいへんに不幸な,ありえない話だと思い込んでいた自分の過去の記憶も,一転して,ありがたいお話に化けることがある。つまり,こんにちのわたしをあらしめるための試練として悲惨な過去があったのだ,と。この境地に立ったとき,世界は一変して,あるがままの自然体のありがたさがみえてくる。世俗の欲望に振り回されている生き方の<外>へ一歩踏み出した瞬間から,安穏な,なんとも平らかな世界がみえてくる。そして,わたしを苦しめた「冥土めぐり」も卒業となる。
主人公の奈津子は,ごくごく平凡なおとなしい女性。その奈津子の母親と弟は,奈津子が金持ちの男性と結婚しなかったことがわが家の不幸のはじまりだと言って奈津子をことあるごとに誹謗中傷し,責めたてる。母親は過去の栄光(父親が金持ちだったので,贅沢三昧の生活に慣れきっていて,そこから抜け出せないまま,夫を亡くし,老後を迎えている)こそがほんとうの生活であって,それができなくなってしまったのは奈津子が金持ちの男と結婚しなかったからだ,と信じて疑わない。弟も母親似で,経済観念の欠落した生活破綻者。いよいよ現金がなくなるとカード生活に頼り,ついに破綻をきたし母親のマンションを売却しなければならない羽目に陥いる。にもかかわらず,懲りずに贅沢な生活を追い求めている。
そんな母親と弟に脅かされながらも,奈津子はパートで働いていた区役所勤務の青年と結婚する。その青年は北海道出身で,じつに素朴でおおらかな性格。のみならず他人の生活や生き方にはなんの干渉もしない。日々,淡々と生きている。母親や弟になにを言われようが「われ関せず」の姿勢をくずさない。まったくのマイペース。そんな彼が,ある日突然,脳の発作を起こし,大きな手術を受ける。九死に一生をえるも,残されていたのは障害者としての車椅子生活。奈津子はパートで働きながら必死で夫のリハビリを支える。
それでも母親と弟は奈津子にカネを無心する。夫は障害者になって,ますます「われ関せず」の生き方が全面に表出してきて,まるで童心にかえったかのように,淡々と清らかに生きている。夫が障害者となって8年が経過したとき,奈津子は思いきって,母親が子どものころに慣れ親しんだという豪華ホテルの割安チケットを手に入れ,夫とふたりで出かける決意をする。そこに見出したものは・・・・「冥土めぐり」,そして,そこからの脱出。禅のことばを借りれば「脱落(とつらく)」。世俗のしがらみを越えた清らかな世界との出会い。
夫が障害者となったことが,奈津子を救うための,あらかじめ用意されたシナリオだったのではないか・・・・,と奈津子は思う。カネとも無縁の,計算も打算もない,ますます童心に帰っていく夫の障害者としての生き方こそが,純粋無垢の,清らかな人間の生き方ではないのか,と。
この小説の後半に入ってからは,わたしの頭のなかは『ブッダのことば』のフレーズがつぎつぎに浮かんできた。とくに,「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく,あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく,また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」,というフレーズが。
久し振りに小説らしい小説を読んだ。そして,こころが洗われた。どこにでもある日常の,虚実皮膜の間(あわい)にこそ真実は宿る,とあらためて認識した。読後にズシンとくる,とてもいい作品だった。とくに,いまのわたしには・・・・。
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