いよいよ8月6日(月)からはじまる第2回バスク・日本国際セミナーが目の前に迫ってきた。いまさらどたばたしたところではじまらないことではあるが,やはり,なにか落ち着かない。なぜなら,6日のオープニングの今福龍太氏の特別記念講演のあと,バスク側の代表者であるピエール・パルレバ氏による基調講演が予定されていたのだが,氏の都合で欠席,そのあと,わたしも基調講演をやることになっている。ということは,今福氏につづいての講演となる。しかも,初日のプログラムはそれで終わりである。
講演内容については,もうすでに発表抄録集『グローバリゼーションと伝統スポーツ』(神戸市外国語大学・バスク大学第2回国際セミナー実行委員会,2012年)に全文掲載されているので,それを変えるわけにはいかない。しかし,この抄録集の原稿は,じつは,2010年のはじめころに書いたものである。しかも,大急ぎで書き上げて締め切りに合わせ,ゲラの段階で推敲するつもりでいた。しかし,諸般の関係から,ゲラの推敲なしに,いきなり印刷・製本されてしまった。したがって,あとで手を入れるつもりで書いた部分もそのまま剥き出しになっている。たとえば,「主要参考文献一覧」である。
この発表原稿を書き上げてから印刷・製本されるまでの間に,問題の「3・11」があった。この「3・11」は,わたしにとってはそれまでの研究者としてのスタンスを大きくゆるがす事件であった。だから,当然のことながら,考え方も大きく変化せざるをえなかった。いま,読み返してみると,あちこち直したいところがあって,なんとなく恥ずかしい。でも,いまとなっては,この抄録を軸にして講演を組み立てるしかない。できることは口頭で若干の修正を試みるだけだ。
講演の時間は1時間30分。通訳付きの講演なので,実際にわたしが話す時間はその半分。つまり,45分。400字詰め原稿用紙にして,約30枚程度(ゆっくり読み上げたとして)。抄録集に書いた原稿の分量は,約60枚ほど。さあ,これを半分に縮めなくてはならない。いまから30枚の抜粋原稿を作成するだけの余裕もない。気持ちが焦っているときは文章は書けない。書くとろくなものにならない。経験的によく知っている。とくに,わたしの場合は。
では,どうするか。抄録集は事前に配布されているので,みんな読んでくることが前提になっている。しかも,この抄録集はよくできていて,日本語原稿にはスペイン語訳が,そして,スペイン語原稿には日本語訳がついている。だから,間違いなくみんな読んできているに違いない。だとすれば,抄録集の原稿を,その骨格となる部分だけをピックアップして,読み上げていく,という方法がある。それに若干の補充をしていけば,それなりの体裁はととのう。でも,それにはいささか躊躇してしまう。
わたしの講演のタイトルは「スポーツのグローバリゼーションにみる<功>と<罪>」──伝統スポーツの存在理由を問う,というものである。いま,読み返してみると,サブタイトルの「伝統スポーツの存在理由を問う」というところに力点があるようにおもう。そして,メイン・タイトルのなかの<功>と<罪>についてはほとんど論じられていない。なぜなら,なにが<功>で,なにが<罪>なのかという線引きはしない方がいいという判断があったからである。つまり,このような二項対立的な思考方法,論理の構築の仕方そのものが,なにを隠そう近代の生み出したものであり,グローバル化の原動力となったものであるからだ。
そこをちょっとずらして,「伝統スポーツの存在理由を問う」というところに比重をおいている。伝統スポーツはなぜ存在し,いまも伝承されているのか,という点についてはかなりしつこく追い込んでいる。ここは大事にしたいところ。
話しの中核はどうやら,スポーツの起源,つまり,伝統スポーツの起源を問うことにあるようだ(と,自分の書いた文章を読み取っている。なにせ,ずいぶん昔に書いたものなので)。となると,その問いは,ヒトが人間になるときになにが起きたのか,というもっとも根源的な問いに到達することになる。ヒトが人間になったがゆえに,人間は「スポーツ的なるもの」を必要とした。しかも,祝祭的な時空間という非日常的な「聖なる」時空間を設定して。では,なぜ,そのようなことが必要とされたのか。人間は「スポーツ的なるもの」なしには生きていかれない動物となったからだ。そして,その経緯をしつこく追っている。とりわけ,バタイユの理論仮説を借りて。
この発表抄録原稿はいつかさらに手を加えて,しっかりとした読み物にして残しておきたいと思う。それほどに,部分的には,これまでに書いたことのない思考の深さをもっているし,論理の立て方も面白い内容となっている。自画自賛(笑い)。
そろそろ字数を数えながら,抜粋原稿の作業にとりかかろう。
なんとか無事に講演が終わるように。
講演内容については,もうすでに発表抄録集『グローバリゼーションと伝統スポーツ』(神戸市外国語大学・バスク大学第2回国際セミナー実行委員会,2012年)に全文掲載されているので,それを変えるわけにはいかない。しかし,この抄録集の原稿は,じつは,2010年のはじめころに書いたものである。しかも,大急ぎで書き上げて締め切りに合わせ,ゲラの段階で推敲するつもりでいた。しかし,諸般の関係から,ゲラの推敲なしに,いきなり印刷・製本されてしまった。したがって,あとで手を入れるつもりで書いた部分もそのまま剥き出しになっている。たとえば,「主要参考文献一覧」である。
この発表原稿を書き上げてから印刷・製本されるまでの間に,問題の「3・11」があった。この「3・11」は,わたしにとってはそれまでの研究者としてのスタンスを大きくゆるがす事件であった。だから,当然のことながら,考え方も大きく変化せざるをえなかった。いま,読み返してみると,あちこち直したいところがあって,なんとなく恥ずかしい。でも,いまとなっては,この抄録を軸にして講演を組み立てるしかない。できることは口頭で若干の修正を試みるだけだ。
講演の時間は1時間30分。通訳付きの講演なので,実際にわたしが話す時間はその半分。つまり,45分。400字詰め原稿用紙にして,約30枚程度(ゆっくり読み上げたとして)。抄録集に書いた原稿の分量は,約60枚ほど。さあ,これを半分に縮めなくてはならない。いまから30枚の抜粋原稿を作成するだけの余裕もない。気持ちが焦っているときは文章は書けない。書くとろくなものにならない。経験的によく知っている。とくに,わたしの場合は。
では,どうするか。抄録集は事前に配布されているので,みんな読んでくることが前提になっている。しかも,この抄録集はよくできていて,日本語原稿にはスペイン語訳が,そして,スペイン語原稿には日本語訳がついている。だから,間違いなくみんな読んできているに違いない。だとすれば,抄録集の原稿を,その骨格となる部分だけをピックアップして,読み上げていく,という方法がある。それに若干の補充をしていけば,それなりの体裁はととのう。でも,それにはいささか躊躇してしまう。
わたしの講演のタイトルは「スポーツのグローバリゼーションにみる<功>と<罪>」──伝統スポーツの存在理由を問う,というものである。いま,読み返してみると,サブタイトルの「伝統スポーツの存在理由を問う」というところに力点があるようにおもう。そして,メイン・タイトルのなかの<功>と<罪>についてはほとんど論じられていない。なぜなら,なにが<功>で,なにが<罪>なのかという線引きはしない方がいいという判断があったからである。つまり,このような二項対立的な思考方法,論理の構築の仕方そのものが,なにを隠そう近代の生み出したものであり,グローバル化の原動力となったものであるからだ。
そこをちょっとずらして,「伝統スポーツの存在理由を問う」というところに比重をおいている。伝統スポーツはなぜ存在し,いまも伝承されているのか,という点についてはかなりしつこく追い込んでいる。ここは大事にしたいところ。
話しの中核はどうやら,スポーツの起源,つまり,伝統スポーツの起源を問うことにあるようだ(と,自分の書いた文章を読み取っている。なにせ,ずいぶん昔に書いたものなので)。となると,その問いは,ヒトが人間になるときになにが起きたのか,というもっとも根源的な問いに到達することになる。ヒトが人間になったがゆえに,人間は「スポーツ的なるもの」を必要とした。しかも,祝祭的な時空間という非日常的な「聖なる」時空間を設定して。では,なぜ,そのようなことが必要とされたのか。人間は「スポーツ的なるもの」なしには生きていかれない動物となったからだ。そして,その経緯をしつこく追っている。とりわけ,バタイユの理論仮説を借りて。
この発表抄録原稿はいつかさらに手を加えて,しっかりとした読み物にして残しておきたいと思う。それほどに,部分的には,これまでに書いたことのない思考の深さをもっているし,論理の立て方も面白い内容となっている。自画自賛(笑い)。
そろそろ字数を数えながら,抜粋原稿の作業にとりかかろう。
なんとか無事に講演が終わるように。
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