8月13日(月)。東京は今日も朝から猛暑。強い日差しと南の湿った空気が流れ込んで,最悪の状態がつづく。北の高気圧がもう少し南下してきてくれれば,湿った空気とぶつかって,せめて夕立くらいは降らせてくれるだろうに・・・・・。と,思わず空を仰ぐ。昨夜も寝苦しい一夜だった。日に何回もシャワーを浴びているのに,腰のまわりには汗疹ができている。
テレビでは朝からロンドン・オリンピックの閉会式をやっている。そして,お盆の帰省ラッシュを報じている。加えて,海外旅行ラッシュも。さらに,帰京,帰国ラッシュの予想も。そんなテレビを,まるで他人事のようにぼんやり眺めているわたし。
この夏も世間とは無縁のところで暮れていきそうだ。年々,そういうことになっていくようだ。なにが悪いわけでもない。ただ,身辺の雑事が多いだけで,その多忙さに振り回されているだけの話。言ってしまえば,仕事のさばき方が年々,下手になっているという悲しい現実。
ただ,ことしの夏は日本・バスク国際セミナーがあって(8月6日~9日),その準備段階から開催期間中は,このことに翻弄されてしまった。気持の上ではいろいろとストレスがかかったとはいえ,国際セミナー自体はとても内容のある充実した時間を過ごすことができた。その意味では,大満足である。とくにゲスト参加してくださった今福さん,李さん,柏木さん,西谷さんに感謝である。お蔭さまで,わたしの古びた脳細胞も久し振りに活性化されたように思う。そして,いまもなお,その余韻に浸っている。
そして,嬉しいことに,これから西谷修講演「グローバリゼーションと身体のゆくえ」のテープ起こしが待っている。この仕事はみずから手を挙げて,競り落としたものである。今回の西谷講演は,どうしても自分で引き受けたかった。なぜなら,これまでのわたしの頭ではうまく説明できなかった「グローバリゼーションと身体」の関係が,じつにみごとに要約されて,説明されているからである。いわば,これからのスポーツ史やスポーツ文化論を考え,語る上で不可欠のパラダイムを西谷さんが提示してくれているからだ。ここはなにがなんでも,自分の耳で,熟読玩味ならぬ熟聞玩味しながら,きちんとした文章にしておきたかった。
しかし,この他にもやらなければならない仕事は山ほどある。こうして,あっという間にことしの夏も終わるのだろう。でも,素晴らしい夏ではないか。
今日(13日)になって,あれもうロンドン・オリンピックも終わるんだ,そして盂蘭盆会がはじまるんだ,と浦島太郎の心境である。こんなことも久し振りである。
オリンピックを生中継でみたのは6日(精確には7日の夜明け前)の女子サッカー・なでしことフランス戦だけだ。しかも,なんと今福さんと一緒にホテルのわたしの部屋のテレビでみた。このときのことは,また,このブログでも書いてみたいと思う。が,とにもかくにも,この一つしかオリンピックの実況中継はみることはなかった。みる余裕がなかったというのは口実で,みる意欲がなかったといった方が正しいだろう。このことも,また,別のかたちでブログに書くことにしよう。
今日(13日)からは,もう盂蘭盆会のはじまりである。わたしは小さな禅寺に育ったので,物心がついたころから,夏休みの大半は盂蘭盆会に備えての寺の大掃除が年中行事となっていた。寺の境内の雑草をとり,細葉垣根の刈り込みをし,墓地をきれいにし,本堂の縁の下の掃除をし,最後は,仏壇・仏具の掃除をする。とくに,真鍮でできた仏具を磨き砂でこすって磨き上げる仕事は根気が必要で,量が多いだけに大変だった。が,これだけは寺に住んでいるかぎり避けてとおることはできなかった。
少し大きくなって,いくらか仕事ができるようになると,母の在所の大きな寺の応援にでかけた。大伯父が汗びっしょりになって朝から夕方まで,休むことなく働く姿はいまでも忘れることはない。そして,ときには海に連れて行ってくれて遊んでくれた。大喜びで従姉妹たちと海にいく。内海なので,ついでに,ハゼや貝をとってきて,夕食の足しにした。加えて,大伯母が,ほんとうに心根のやさしい,賢い人で,この人と一緒にいるだけで,わたしはとても幸せだった。陰に日に,密かに,わたしを支えてくれたことが忘れられない。この大伯父・大伯母の存在がわたしのこんにちの土台をつくってくれたと思う。もちろん,両親や祖父母の存在が大きかったのは当然だが,それにも匹敵する大きな存在だった。だから,母の在所の寺はわたしの第一の故郷でもある。
なぜ,第一の故郷になるのか。わたしは生まれてから東京に遊学するまでの間に6回も引っ越しをしている。その後も,両親は4回も引っ越しをして,ようやく土地を手に入れ,家を建てた。兄弟が多かったので,父の稼ぎ(給料)は全部,わたしたち兄弟が食いつぶしていたのだ。兄弟の3番目のわたしが大学を卒業して,負担が軽くなってしばらくしてから,父は家を持った。
盂蘭盆会のせいか,祖霊がわたしを呼び出しているようだ。さきほどから,いまはなき懐かしい親族の人びとの顔が浮かんでは消えを繰り返している。今日から三日は,少なくとも『般若心経』を唱えることにしよう。墓参にも行かれないことをお詫びしながら。
テレビでは朝からロンドン・オリンピックの閉会式をやっている。そして,お盆の帰省ラッシュを報じている。加えて,海外旅行ラッシュも。さらに,帰京,帰国ラッシュの予想も。そんなテレビを,まるで他人事のようにぼんやり眺めているわたし。
この夏も世間とは無縁のところで暮れていきそうだ。年々,そういうことになっていくようだ。なにが悪いわけでもない。ただ,身辺の雑事が多いだけで,その多忙さに振り回されているだけの話。言ってしまえば,仕事のさばき方が年々,下手になっているという悲しい現実。
ただ,ことしの夏は日本・バスク国際セミナーがあって(8月6日~9日),その準備段階から開催期間中は,このことに翻弄されてしまった。気持の上ではいろいろとストレスがかかったとはいえ,国際セミナー自体はとても内容のある充実した時間を過ごすことができた。その意味では,大満足である。とくにゲスト参加してくださった今福さん,李さん,柏木さん,西谷さんに感謝である。お蔭さまで,わたしの古びた脳細胞も久し振りに活性化されたように思う。そして,いまもなお,その余韻に浸っている。
そして,嬉しいことに,これから西谷修講演「グローバリゼーションと身体のゆくえ」のテープ起こしが待っている。この仕事はみずから手を挙げて,競り落としたものである。今回の西谷講演は,どうしても自分で引き受けたかった。なぜなら,これまでのわたしの頭ではうまく説明できなかった「グローバリゼーションと身体」の関係が,じつにみごとに要約されて,説明されているからである。いわば,これからのスポーツ史やスポーツ文化論を考え,語る上で不可欠のパラダイムを西谷さんが提示してくれているからだ。ここはなにがなんでも,自分の耳で,熟読玩味ならぬ熟聞玩味しながら,きちんとした文章にしておきたかった。
しかし,この他にもやらなければならない仕事は山ほどある。こうして,あっという間にことしの夏も終わるのだろう。でも,素晴らしい夏ではないか。
今日(13日)になって,あれもうロンドン・オリンピックも終わるんだ,そして盂蘭盆会がはじまるんだ,と浦島太郎の心境である。こんなことも久し振りである。
オリンピックを生中継でみたのは6日(精確には7日の夜明け前)の女子サッカー・なでしことフランス戦だけだ。しかも,なんと今福さんと一緒にホテルのわたしの部屋のテレビでみた。このときのことは,また,このブログでも書いてみたいと思う。が,とにもかくにも,この一つしかオリンピックの実況中継はみることはなかった。みる余裕がなかったというのは口実で,みる意欲がなかったといった方が正しいだろう。このことも,また,別のかたちでブログに書くことにしよう。
今日(13日)からは,もう盂蘭盆会のはじまりである。わたしは小さな禅寺に育ったので,物心がついたころから,夏休みの大半は盂蘭盆会に備えての寺の大掃除が年中行事となっていた。寺の境内の雑草をとり,細葉垣根の刈り込みをし,墓地をきれいにし,本堂の縁の下の掃除をし,最後は,仏壇・仏具の掃除をする。とくに,真鍮でできた仏具を磨き砂でこすって磨き上げる仕事は根気が必要で,量が多いだけに大変だった。が,これだけは寺に住んでいるかぎり避けてとおることはできなかった。
少し大きくなって,いくらか仕事ができるようになると,母の在所の大きな寺の応援にでかけた。大伯父が汗びっしょりになって朝から夕方まで,休むことなく働く姿はいまでも忘れることはない。そして,ときには海に連れて行ってくれて遊んでくれた。大喜びで従姉妹たちと海にいく。内海なので,ついでに,ハゼや貝をとってきて,夕食の足しにした。加えて,大伯母が,ほんとうに心根のやさしい,賢い人で,この人と一緒にいるだけで,わたしはとても幸せだった。陰に日に,密かに,わたしを支えてくれたことが忘れられない。この大伯父・大伯母の存在がわたしのこんにちの土台をつくってくれたと思う。もちろん,両親や祖父母の存在が大きかったのは当然だが,それにも匹敵する大きな存在だった。だから,母の在所の寺はわたしの第一の故郷でもある。
なぜ,第一の故郷になるのか。わたしは生まれてから東京に遊学するまでの間に6回も引っ越しをしている。その後も,両親は4回も引っ越しをして,ようやく土地を手に入れ,家を建てた。兄弟が多かったので,父の稼ぎ(給料)は全部,わたしたち兄弟が食いつぶしていたのだ。兄弟の3番目のわたしが大学を卒業して,負担が軽くなってしばらくしてから,父は家を持った。
盂蘭盆会のせいか,祖霊がわたしを呼び出しているようだ。さきほどから,いまはなき懐かしい親族の人びとの顔が浮かんでは消えを繰り返している。今日から三日は,少なくとも『般若心経』を唱えることにしよう。墓参にも行かれないことをお詫びしながら。
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