今福龍太さんが主宰する「奄美自由大学」が近づいてくる(9月7,8,9日)。今回のテーマは「沈黙」。今福さんのいう「沈黙」にアプローチする方法はいくつもあるだろう。きわめて個人的な日常的な「沈黙」経験からはじまって,哲学的な,あるいは宗教的な「沈黙」にいたるまで,さまざまな「沈黙」をわたしたちは想定することができるだろう。
しかし,今福さんの仕掛けた,奄美の離島で向かい合うことになる「罠」であることを考えると,無限の「沈黙」がそのさきに広がっているように思います。そのように考えたときに,その鍵を解くための重要な手がかりのひとつに,ル・クレジオの『物質的恍惚』とうテクストがあることは間違いないでしょう。そこで,「奄美自由大学」に参加するためのウォーミングアップとして,まずはこのテクストの巻頭にかかげられたエピグラフをとりあげ,そこから考えはじめてみたいと思います。
そのエピグラフには以下のような箴言がかかげられています。
《分かちがたく結ばれた二羽の鳥が,同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ,もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。》
なんとも謎めいた,不思議な文意になっています。しかし,よくよく考えながら,何回も何回も読み返していくうちに,その含意するところは無限のひろがりをもつと言うことがわかってきます。しかも,世界を考える上での,きわめて本質的な意味内容をかかえこんでいるということも・・・透けてみえてきます。
この引用の典拠として,つぎのような括弧書きが添えられています。
(『ムンダカ・ウパニシャッド』,第三ムンダカ,第一カンダ,シュルーティ一。『リグ・ヴェーダ』,I,164,20。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』,第四アデャーヤ,シュリーティ六。)
これらの文献をみれば一目瞭然ですが,インド古代の宗教哲学書からの引用であることがわかります。辞書で確認してみますと,ヴェーダはインド最古の宗教哲学書,と書いてあります。わたしたちは『リグ・ヴェーダ』(岩波文庫)というタイトルでこの本を読むことができます。以前,読んだときの記憶によりますと,インド最古の文書記録を残した人びとの,つまり,原初の人間に近い人たちのいだいていたコロモロジーが,全巻にみなぎっています。人間はどこからやってきたのか,どのようにして人間になったのか,ということを考える上でとても貴重な文献です。
ウパニシャッドは,一連のヴェーダ文献の末尾を飾るものだ,とも書いてあります。また,ヴェーダ文献の奥義書だと呼ばれている,とも。それによりますと,宇宙の根本原理(=ブラフマン)と個人の自我(アートマン)の一致などを説いていて,のちのインド哲学の源流になった,とのことです。いわゆる<梵我一如>の思想です。
ル・クレジオがエピグラフとして引用したのは,まさに,この<梵我一如>の思想につよく反応したからだ,と言っていいでしょう。
ヴェーダは,断るまでもなく,バラモン教の根本聖典です。ここからインドの宗教も哲学も文学も大きな影響を受けることになります。その起源は前1500年頃まで遡るといわれています。当然のことながら,ブッダの説いた原始仏教も,このバラモン教の流れを汲むものです。ですから,『ブッダのことば』(岩波文庫,中村元訳)を読みますと,『リグ・ヴェーダ』の世界にかぎりなく近いということがわかります。そして,のちのブッダの弟子たちによって編纂された仏教経典とは,次元が違うと言ってもいいほどです。
ここまで確認しておけば,あとは,そんなにむつかしく考える必要はないでしょう。このエピグラフが『物質的恍惚』のすべてを暗示している,と訳者の豊崎光一さんは「訳者のことば」のなかで解説してくれています。そのさわりの部分を引いておきますと,以下のとおりです。
・・・・・この文章のさまざまな含蓄──書く人と作中人物,書く人と読む人,などなどのあいだの分身関係──にいて,訳者であるぼくは,たまたまこの同じ文章がソレルスの「小説」『ドラマ』にも引用されていることから出発して,すでにある場所に述べたことがあるので,ここにはくり返さないが,簡単に言うと,主体は還元しがたく二重であること,言語というものは自己同一的な「私」への信仰を許さないものであること,そして意識(眼差)が,主体を不可避的にみずからの外にほうり出すとともに,みずからに送り返すものであること──その特権的なイマージュがすなわち鏡である──を,このエピグラフは暗示していようし,それがこの本の根元的な主題にほかならないだろう。
こうして訳者の豊崎さんは,さらに一歩踏み込んで,つぎのように述べています。
ところで,まさしく『物質的恍惚』と名づけられることによって,この本は今ぼくが述べてきた種類のことすべてをいわば無に帰そうという衝動,契機をも含んでいる。「物質的恍惚」とは,物質文明がもたらすさまざまな陶酔を指すものではまったくなく,「無時間の物質」(『調書』)が限りなく支配する世界,動物的生命と人間的時間とが絶滅される世界への執拗な回帰の運動であり予感であるのだ。それが実現される「時」が「時の絶滅という時」であり,全き「沈黙」である以上,「物質的恍惚」それ自体の表現がありえないのは自明だろう(序章と終章の題が示すように,「物質的恍惚」と「沈黙」はまったく同じ一つのものなのだ)。
まだまだ引用をつづけたい衝動に駆られますが,このあたりで収めておくことにしましょう。今福さんの仕掛けた「沈黙」の,奥の深さを知るにはこれで十分でしょうから。あとは,直接,豊崎さんの「訳者のことば」で確認してみてください。
取り急ぎ,今日のところはここまで。
しかし,今福さんの仕掛けた,奄美の離島で向かい合うことになる「罠」であることを考えると,無限の「沈黙」がそのさきに広がっているように思います。そのように考えたときに,その鍵を解くための重要な手がかりのひとつに,ル・クレジオの『物質的恍惚』とうテクストがあることは間違いないでしょう。そこで,「奄美自由大学」に参加するためのウォーミングアップとして,まずはこのテクストの巻頭にかかげられたエピグラフをとりあげ,そこから考えはじめてみたいと思います。
そのエピグラフには以下のような箴言がかかげられています。
《分かちがたく結ばれた二羽の鳥が,同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ,もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。》
なんとも謎めいた,不思議な文意になっています。しかし,よくよく考えながら,何回も何回も読み返していくうちに,その含意するところは無限のひろがりをもつと言うことがわかってきます。しかも,世界を考える上での,きわめて本質的な意味内容をかかえこんでいるということも・・・透けてみえてきます。
この引用の典拠として,つぎのような括弧書きが添えられています。
(『ムンダカ・ウパニシャッド』,第三ムンダカ,第一カンダ,シュルーティ一。『リグ・ヴェーダ』,I,164,20。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』,第四アデャーヤ,シュリーティ六。)
これらの文献をみれば一目瞭然ですが,インド古代の宗教哲学書からの引用であることがわかります。辞書で確認してみますと,ヴェーダはインド最古の宗教哲学書,と書いてあります。わたしたちは『リグ・ヴェーダ』(岩波文庫)というタイトルでこの本を読むことができます。以前,読んだときの記憶によりますと,インド最古の文書記録を残した人びとの,つまり,原初の人間に近い人たちのいだいていたコロモロジーが,全巻にみなぎっています。人間はどこからやってきたのか,どのようにして人間になったのか,ということを考える上でとても貴重な文献です。
ウパニシャッドは,一連のヴェーダ文献の末尾を飾るものだ,とも書いてあります。また,ヴェーダ文献の奥義書だと呼ばれている,とも。それによりますと,宇宙の根本原理(=ブラフマン)と個人の自我(アートマン)の一致などを説いていて,のちのインド哲学の源流になった,とのことです。いわゆる<梵我一如>の思想です。
ル・クレジオがエピグラフとして引用したのは,まさに,この<梵我一如>の思想につよく反応したからだ,と言っていいでしょう。
ヴェーダは,断るまでもなく,バラモン教の根本聖典です。ここからインドの宗教も哲学も文学も大きな影響を受けることになります。その起源は前1500年頃まで遡るといわれています。当然のことながら,ブッダの説いた原始仏教も,このバラモン教の流れを汲むものです。ですから,『ブッダのことば』(岩波文庫,中村元訳)を読みますと,『リグ・ヴェーダ』の世界にかぎりなく近いということがわかります。そして,のちのブッダの弟子たちによって編纂された仏教経典とは,次元が違うと言ってもいいほどです。
ここまで確認しておけば,あとは,そんなにむつかしく考える必要はないでしょう。このエピグラフが『物質的恍惚』のすべてを暗示している,と訳者の豊崎光一さんは「訳者のことば」のなかで解説してくれています。そのさわりの部分を引いておきますと,以下のとおりです。
・・・・・この文章のさまざまな含蓄──書く人と作中人物,書く人と読む人,などなどのあいだの分身関係──にいて,訳者であるぼくは,たまたまこの同じ文章がソレルスの「小説」『ドラマ』にも引用されていることから出発して,すでにある場所に述べたことがあるので,ここにはくり返さないが,簡単に言うと,主体は還元しがたく二重であること,言語というものは自己同一的な「私」への信仰を許さないものであること,そして意識(眼差)が,主体を不可避的にみずからの外にほうり出すとともに,みずからに送り返すものであること──その特権的なイマージュがすなわち鏡である──を,このエピグラフは暗示していようし,それがこの本の根元的な主題にほかならないだろう。
こうして訳者の豊崎さんは,さらに一歩踏み込んで,つぎのように述べています。
ところで,まさしく『物質的恍惚』と名づけられることによって,この本は今ぼくが述べてきた種類のことすべてをいわば無に帰そうという衝動,契機をも含んでいる。「物質的恍惚」とは,物質文明がもたらすさまざまな陶酔を指すものではまったくなく,「無時間の物質」(『調書』)が限りなく支配する世界,動物的生命と人間的時間とが絶滅される世界への執拗な回帰の運動であり予感であるのだ。それが実現される「時」が「時の絶滅という時」であり,全き「沈黙」である以上,「物質的恍惚」それ自体の表現がありえないのは自明だろう(序章と終章の題が示すように,「物質的恍惚」と「沈黙」はまったく同じ一つのものなのだ)。
まだまだ引用をつづけたい衝動に駆られますが,このあたりで収めておくことにしましょう。今福さんの仕掛けた「沈黙」の,奥の深さを知るにはこれで十分でしょうから。あとは,直接,豊崎さんの「訳者のことば」で確認してみてください。
取り急ぎ,今日のところはここまで。
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