ことしの初夢に恩師の岸野雄三先生が現れた。なぜ,このタイミングで先生が夢に現れたのか,まことに不思議。でも,考えてみれば,これもご因縁ではないか,とも思えてくる。
最近はお墓参りにも行ってないので,たまにはお出でよ,と声を掛けられたに違いない。その声が,なんと「スポーツに思想はあるか」という問いであった。顔は浮かんでこないのだが,声だけは,間違いなく先生のものだった。いつもの調子で「君ねぇ,スポーツに思想があるか,って考えたことある?」と言われ,びっくりして目が覚めてしまった。
昨夜,眠ったのは2時ころ。目が覚めたのは朝方の5時ころ。ここから眠れない。でも,眠いのである。眠いのだから,そのうちに眠るだろう,とぼんやりしていた。眠気と覚醒のはざまを行ったり来たりしながら,なりゆきに身をまかせたまま横たわっている。虚実皮膜の間(あわい)を,さまざまな妄想が駆けめぐりはじめる。なんのことだろうと,ぼんやりとそのままじっとしている。
そのうちに,「セックスに思想はあるか」という問いがどこからともなく立ち上がってきた。えっ,と驚きながら,つぎはどうなるのだろうか,とぼんやり待っている。そうしたら,小さな声で(だれの声かはわからない),「消尽,消尽」と言っているのが聴こえる。またまた,えっ,と驚く。それでも,まだ,なにかつづきがあるらしい,とぼんやりして待つ。
こんどは,天の上の方から「みんな同じ,みんな同じ」と言っている声が聴こえる。この声が聴こえた瞬間に,わたしは起き上がった。机に向って走り,大急ぎでメモをとる。紙に書き取って,その文字を眺める。「スポーツに思想はあるか」「セックスに思想はあるか」「消尽」「みんな同じ」。こうして対象化してみたら,これは偉いこっちゃ,と気づく。しばらく眺めてから,ふたたび寝床にもぐり込む。これでなんとか眠ることができるだろうと期待した。
ところが眠れない。でも,かなりの眠気が襲ってきているので,大いに期待する。そのうち,夢と現(うつつ)の間を行ったり来たりしはじめる。夢を短くみているのに,目覚めている。もう,どうにでもなれ,と思っていたら,忽然とジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』の本が目の前に飛びだしてきて,ページがめくられていく。そうか,この夢の主(あるじ)はこのテクストだったのか,と合点がいく。なぜなら,新年,最初に手にして読みはじめたまともな本がこれだったからだ。そして,毎日,少しずつ拾い読みをしている。
これまでのような,通読ではなくて,わたしの脳裏に浮かんだキー・ワードに誘われるようにして,その該当箇所を探して,読む。じっくり,熟読玩味する。あきたら,また,つぎのキー・ワードに移る。そういう読み方をしていた。いま,もっともひっかかっているのは「近親婚」。バタイユは,レヴィ・ストロースの研究を引き,その説得力のある論説に敬意を表しながらも,最後のところでは,これですべてだとして納得するわけにはいかない,としてみずからの仮説を模索しはじめる。そのときのバタイユの視線はもっぱら「エロティシズム」の成立根拠に向う。そして,動物のセックスと人間のセックスとの根本的な違いはどこにあるのか,と問う。ここが人間と動物を分かつ,ひとつの重要なポイントになるのではないか,として。しかも,その根底に流れているバタイユの問題意識は「消尽」。
こんなことを,この正月以来,拾い読みしながら考えている。バタイユが,エロティシズムに思想を,そして,セックスを真っ正面に据えた思想・哲学の構築に,哲学者たちはあまりに不真面目だったと批判する,テクストのくだりが脳裏から離れない。そして,このことを考えながら,「スポーツを真っ正面に据えた思想・哲学」(全体的経験としてのスポーツを対象にした思想・哲学)は可能か,と考えていた。だから,こんな夢をみたらしい。
もうひとこと,付け加えておけば,こんなこともあった。昨日(4日)の太極拳の稽古のあと,昼食を済ませ,さらに,タバコを吸いたい西谷さんに付き合ってドトールに入り,二人だけであれこれ雑談をしているときに,たまたま,話がバタイユに及んだ。そして,今日からバタイユの『エロティシズムの歴史』を読みはじめようと思っています(じつは,すでに,読みはじめていたのだが),とわたしが言ったら,それに対して,即座に「ああ,それだったら『宗教の理論』と『エロティシズムの歴史』をベースにして,そろそろ,人間にとってスポーツとはなにか,という本を書くといいですね」と,西谷さんはなんのためらいもなく,当たり前のように仰る。しかし,わたしにとってはまことにありがたい「ひとこと」であった。これで,しっかりと背中を押されたのだから,あとは「Go!」だと。もう,これ以上,躊躇うことはない。
その気になって,夜は,またまた,『エロティシズムの歴史』の拾い読みをし,熟考をくり返す至福の時間を過ごした。その結果が,「初夢」となった,という次第。しかも,恩師の岸野先生の声となって。「スポーツに思想はあるか」。じつは,若いころに(たぶん,わたしが40歳代の後半に入ったころだったと記憶する),同じ問いかけを岸野先生からされている。そのときは,ひとことも応答することができず,背中を冷や汗が流れただけだった。そして,情けなかった。岸野先生はじっとわたしの顔を覗き込むようにして見つめていた。以後,トラウマのように,この問いがわたしの脳裏から離れない。だから,ほぼ,30年以上も,この問いと向き合ってきたことになる。こうしてようやく,岸野先生に応答できるときがきた。
今夜は,夢のなかで,岸野先生に応答しよう。「スポーツに思想はあります」,「そのことをぼくが書きます」,と。「その鍵はバタイユの<消尽>にあります」,と。そして,「先生もご存じの西谷さんから背中を押してもらいました」とも。先生はなんと仰るのだろう?
最近はお墓参りにも行ってないので,たまにはお出でよ,と声を掛けられたに違いない。その声が,なんと「スポーツに思想はあるか」という問いであった。顔は浮かんでこないのだが,声だけは,間違いなく先生のものだった。いつもの調子で「君ねぇ,スポーツに思想があるか,って考えたことある?」と言われ,びっくりして目が覚めてしまった。
昨夜,眠ったのは2時ころ。目が覚めたのは朝方の5時ころ。ここから眠れない。でも,眠いのである。眠いのだから,そのうちに眠るだろう,とぼんやりしていた。眠気と覚醒のはざまを行ったり来たりしながら,なりゆきに身をまかせたまま横たわっている。虚実皮膜の間(あわい)を,さまざまな妄想が駆けめぐりはじめる。なんのことだろうと,ぼんやりとそのままじっとしている。
そのうちに,「セックスに思想はあるか」という問いがどこからともなく立ち上がってきた。えっ,と驚きながら,つぎはどうなるのだろうか,とぼんやり待っている。そうしたら,小さな声で(だれの声かはわからない),「消尽,消尽」と言っているのが聴こえる。またまた,えっ,と驚く。それでも,まだ,なにかつづきがあるらしい,とぼんやりして待つ。
こんどは,天の上の方から「みんな同じ,みんな同じ」と言っている声が聴こえる。この声が聴こえた瞬間に,わたしは起き上がった。机に向って走り,大急ぎでメモをとる。紙に書き取って,その文字を眺める。「スポーツに思想はあるか」「セックスに思想はあるか」「消尽」「みんな同じ」。こうして対象化してみたら,これは偉いこっちゃ,と気づく。しばらく眺めてから,ふたたび寝床にもぐり込む。これでなんとか眠ることができるだろうと期待した。
ところが眠れない。でも,かなりの眠気が襲ってきているので,大いに期待する。そのうち,夢と現(うつつ)の間を行ったり来たりしはじめる。夢を短くみているのに,目覚めている。もう,どうにでもなれ,と思っていたら,忽然とジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』の本が目の前に飛びだしてきて,ページがめくられていく。そうか,この夢の主(あるじ)はこのテクストだったのか,と合点がいく。なぜなら,新年,最初に手にして読みはじめたまともな本がこれだったからだ。そして,毎日,少しずつ拾い読みをしている。
これまでのような,通読ではなくて,わたしの脳裏に浮かんだキー・ワードに誘われるようにして,その該当箇所を探して,読む。じっくり,熟読玩味する。あきたら,また,つぎのキー・ワードに移る。そういう読み方をしていた。いま,もっともひっかかっているのは「近親婚」。バタイユは,レヴィ・ストロースの研究を引き,その説得力のある論説に敬意を表しながらも,最後のところでは,これですべてだとして納得するわけにはいかない,としてみずからの仮説を模索しはじめる。そのときのバタイユの視線はもっぱら「エロティシズム」の成立根拠に向う。そして,動物のセックスと人間のセックスとの根本的な違いはどこにあるのか,と問う。ここが人間と動物を分かつ,ひとつの重要なポイントになるのではないか,として。しかも,その根底に流れているバタイユの問題意識は「消尽」。
こんなことを,この正月以来,拾い読みしながら考えている。バタイユが,エロティシズムに思想を,そして,セックスを真っ正面に据えた思想・哲学の構築に,哲学者たちはあまりに不真面目だったと批判する,テクストのくだりが脳裏から離れない。そして,このことを考えながら,「スポーツを真っ正面に据えた思想・哲学」(全体的経験としてのスポーツを対象にした思想・哲学)は可能か,と考えていた。だから,こんな夢をみたらしい。
もうひとこと,付け加えておけば,こんなこともあった。昨日(4日)の太極拳の稽古のあと,昼食を済ませ,さらに,タバコを吸いたい西谷さんに付き合ってドトールに入り,二人だけであれこれ雑談をしているときに,たまたま,話がバタイユに及んだ。そして,今日からバタイユの『エロティシズムの歴史』を読みはじめようと思っています(じつは,すでに,読みはじめていたのだが),とわたしが言ったら,それに対して,即座に「ああ,それだったら『宗教の理論』と『エロティシズムの歴史』をベースにして,そろそろ,人間にとってスポーツとはなにか,という本を書くといいですね」と,西谷さんはなんのためらいもなく,当たり前のように仰る。しかし,わたしにとってはまことにありがたい「ひとこと」であった。これで,しっかりと背中を押されたのだから,あとは「Go!」だと。もう,これ以上,躊躇うことはない。
その気になって,夜は,またまた,『エロティシズムの歴史』の拾い読みをし,熟考をくり返す至福の時間を過ごした。その結果が,「初夢」となった,という次第。しかも,恩師の岸野先生の声となって。「スポーツに思想はあるか」。じつは,若いころに(たぶん,わたしが40歳代の後半に入ったころだったと記憶する),同じ問いかけを岸野先生からされている。そのときは,ひとことも応答することができず,背中を冷や汗が流れただけだった。そして,情けなかった。岸野先生はじっとわたしの顔を覗き込むようにして見つめていた。以後,トラウマのように,この問いがわたしの脳裏から離れない。だから,ほぼ,30年以上も,この問いと向き合ってきたことになる。こうしてようやく,岸野先生に応答できるときがきた。
今夜は,夢のなかで,岸野先生に応答しよう。「スポーツに思想はあります」,「そのことをぼくが書きます」,と。「その鍵はバタイユの<消尽>にあります」,と。そして,「先生もご存じの西谷さんから背中を押してもらいました」とも。先生はなんと仰るのだろう?
1 件のコメント:
わくわくしながら読ませていいただきました。
楽しみにしています。
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