新聞に大相撲の記事を書く人たちというのは,どういう人たちなのだろうか,といつも思う。ずぶの素人なのか。それとも,大相撲についてそれなりの勉強をしている人たちなのか。なかには,ベテランの大相撲担当記者もいるはず。なのに,見出しをみると,まるでポピュリズムの大通り。
今朝の新聞(『東京新聞』)には,昨日(19日)の取り組みについて,「立ち合い変化 ため息」「優勝争いに冷や水」という大見出しが踊る。そして,その記事の書き出しは以下のようである。
「興ざめ」としか言いようがない。立ち合いの変化で把瑠都が全勝を守り,日馬富士は真っ向勝負を避けて白鵬に土をつけた。注目の取組で,なりふり構わず勝ちにいった2人の大関。把瑠都と白鵬の間には2差がつき,優勝争いへの興味も急速にしぼんだ。
しかも,この記事は記名である。ずぶの素人記者とは思えない。全体の記事を読むかぎりでは,かなり大相撲に精通していることがわかる。しかし,大相撲のなんたるかという肝腎なところが,いまひとつ欠落している。大相撲の力士は,別名,男芸者とも呼ばれている。わたしは,この男芸者ということばを悪い意味では受け止めてはいない。相撲という「芸」を売って(その他の「芸」もある),メシを食っている人,というごく当たり前のことばとして受け止めている。かつて,宮本武蔵は「武芸者にござる」と自分の職業について応えている。わたしは,この表現が好きだ。
すべては番付で裁かれる世界だ。この序列が,いま,現在の地位のすべてだ。どんなに若造でも,どんなに生意気な奴でも,番付が上なら,一歩,譲らなくてはならない,そういう世界だ。宴席に坐るときも,メシを食う順番も,すべては番付による。だから,どんなことをしたってルールの範囲内であれば,「勝ち」は勝ち。これが大相撲の世界であるということを,もっと,大相撲ファンに知らせる必要がある。
にもかかわらず,いまも機能しているのは,かつてのアマチュアリズムのフェア・プレイの精神。このフェア・プレイの精神そのものが,かつてのイギリスの特権階級の生み出した,じつに「差別」的な精神であることを,日本のスポーツ担当記者たちは知っているのだろうか。自分が働かなくても(労働をしなくても)収入がある人たちだけがアマチュアであって(ボートのヘンレー・レガッタの初め),労働をして収入を得ている人はすべてプロフェッショナルであるとして,スポーツの世界から排除した上での,フェア・プレイであることを。いまでは,とっくのむかしに意味をなさなくなってしまったアマチュアの倫理を,こんにちの大相撲に当てはめて,なんの矛盾も感じていないスポーツ記者が多すぎる。
そういう記者が記事を書く。なにも知らない読者は「そうか」と思い込む。こうして「風評」なるものは,無意識のうちに公器をとおして,世間に広まっていく。その一翼を,新聞記者であるあなたが担っているという自覚がありやなしや。
この点,力士たちの方がはるかに上を行っている。同じ新聞の別のコーナーにはつぎのような記事がある。
立ち合いの変化にはまった稀勢の里と白鵬。ともに変化は頭に「なかった」と言う。真っ向勝負をしたかったか問われた新大関は「勝負ですから。何があるか分らない」と言葉を選び,相次いで観衆が落胆したことについて聞かれた横綱は「負ける方も悪いからね」と答えた。
このみごとなまでの応答ぶり。さすがに,大相撲を背負う大関と横綱のことばである。これでいいのである。なにも,真っ向勝負だけが相撲ではない。こういう変化わざという手が残されているからこそ,相撲の奥行きがぐんと深くなり,味わい深いものとなる。それが,すべて,真っ向勝負だけであったら,こんにちの大相撲人気はないだろう。大きくて,力の強い人間だけが勝つ,そんな大相撲になんの魅力もない。かつての舞の海のような力士が現れるからこそ,大相撲は面白いのだ。「小よく大を制す」そういう場面が担保されているからこそ,わたしは場所に通う。
くだんの記名記事を書いた文章の一部を,もう一度,引用しておこう。
先に土俵に上がった把瑠都は,優勝の可能性を残す稀勢の里との一番だった。いきなり左に変化し,相手の首を両手で押さえてはたき込んだ。「組みにいこうと思ったけれど,体が勝手に動いた。見に来てくれているファンの皆さんに申し訳ない」。そう話しはしたが,満面の笑みで小走りに花道を引き揚げ,風呂に入るなり「よっしゃあ」と声を上げる姿に,説得力はなかった。
多くの読者は,このまま,受け取るのだろうと思う。しかし,わたしには笑止千万。力士たちがジャーナリストから声を掛けられたら,どのように応対するかは,熟知している。タテマエとホンネを使い分けていることは「勝利者インタヴュー」を聞いていれば,だれだってわかることだ。それを,わざわざ言挙げして,ここまで書く新聞記者はなにを考えているのか,それこそホンネを聞いてみたい。
把瑠都にすれば,初優勝が目の前に迫っているのだ。なにがなんでも勝ちにいく。当たり前のことだ。そのためには,優勝争いに加わっている相手力士はひとりでも多く「つぶして」いく。そのための「はたき込み」だ。しかも「体が勝手に動いた」と言っている。わたしなら,この発言に注目したい。なぜなら,立ち合い,じらしにでたのは稀勢の里の方だ。わざと,仕切り直しのテンポを落し,相手を待たせたのは稀勢の里の方だ。この駆け引きに,把瑠都のからだが反応して「勝手に動いて」の変化ワザだったとすれば,把瑠都の成長をそこにみる。今場所の好調の理由は,まぎれもなく力士としての把瑠都の成長にある。つまり,「相撲を覚えた」のだ。これまでの,不器用な把瑠都とは一味違う,新境地を開いた,もう一つ上のレベルに到達した把瑠都を,わたしはそこにみる。こうなると,把瑠都の横綱はすぐそこだ。
日馬富士と白鵬の相撲は,もう,なにも言うことはない。白鵬の完敗なのだ。そして,わたしは日馬富士にこころからの拍手を送りたい。おみごと,と。この両者の駆け引きを見届けること。わたしは大満足だ。そこを見ずして,ただ,変化ワザが許せないという新聞記者のレベルの低さにあきれはてるのみ。白鵬は冷静に「負ける方も悪い」と言っている。横綱の方がはるかに大相撲の極意に近いところで自分の相撲を振り返っている。やはり,白鵬は偉い。賢い。立派。新聞記者は,白鵬の真意を酌み取って,そのふところの深さを解説すべきではないのか。そして,真の相撲の面白さを引き出すくらいの記事を書いてほしい。それが,わたしの願いだ。
なぜか? これを書きはじめるとエンドレスになる。
残念だが,今日のところはここまで。みなさんで考えてみてください。
今朝の新聞(『東京新聞』)には,昨日(19日)の取り組みについて,「立ち合い変化 ため息」「優勝争いに冷や水」という大見出しが踊る。そして,その記事の書き出しは以下のようである。
「興ざめ」としか言いようがない。立ち合いの変化で把瑠都が全勝を守り,日馬富士は真っ向勝負を避けて白鵬に土をつけた。注目の取組で,なりふり構わず勝ちにいった2人の大関。把瑠都と白鵬の間には2差がつき,優勝争いへの興味も急速にしぼんだ。
しかも,この記事は記名である。ずぶの素人記者とは思えない。全体の記事を読むかぎりでは,かなり大相撲に精通していることがわかる。しかし,大相撲のなんたるかという肝腎なところが,いまひとつ欠落している。大相撲の力士は,別名,男芸者とも呼ばれている。わたしは,この男芸者ということばを悪い意味では受け止めてはいない。相撲という「芸」を売って(その他の「芸」もある),メシを食っている人,というごく当たり前のことばとして受け止めている。かつて,宮本武蔵は「武芸者にござる」と自分の職業について応えている。わたしは,この表現が好きだ。
すべては番付で裁かれる世界だ。この序列が,いま,現在の地位のすべてだ。どんなに若造でも,どんなに生意気な奴でも,番付が上なら,一歩,譲らなくてはならない,そういう世界だ。宴席に坐るときも,メシを食う順番も,すべては番付による。だから,どんなことをしたってルールの範囲内であれば,「勝ち」は勝ち。これが大相撲の世界であるということを,もっと,大相撲ファンに知らせる必要がある。
にもかかわらず,いまも機能しているのは,かつてのアマチュアリズムのフェア・プレイの精神。このフェア・プレイの精神そのものが,かつてのイギリスの特権階級の生み出した,じつに「差別」的な精神であることを,日本のスポーツ担当記者たちは知っているのだろうか。自分が働かなくても(労働をしなくても)収入がある人たちだけがアマチュアであって(ボートのヘンレー・レガッタの初め),労働をして収入を得ている人はすべてプロフェッショナルであるとして,スポーツの世界から排除した上での,フェア・プレイであることを。いまでは,とっくのむかしに意味をなさなくなってしまったアマチュアの倫理を,こんにちの大相撲に当てはめて,なんの矛盾も感じていないスポーツ記者が多すぎる。
そういう記者が記事を書く。なにも知らない読者は「そうか」と思い込む。こうして「風評」なるものは,無意識のうちに公器をとおして,世間に広まっていく。その一翼を,新聞記者であるあなたが担っているという自覚がありやなしや。
この点,力士たちの方がはるかに上を行っている。同じ新聞の別のコーナーにはつぎのような記事がある。
立ち合いの変化にはまった稀勢の里と白鵬。ともに変化は頭に「なかった」と言う。真っ向勝負をしたかったか問われた新大関は「勝負ですから。何があるか分らない」と言葉を選び,相次いで観衆が落胆したことについて聞かれた横綱は「負ける方も悪いからね」と答えた。
このみごとなまでの応答ぶり。さすがに,大相撲を背負う大関と横綱のことばである。これでいいのである。なにも,真っ向勝負だけが相撲ではない。こういう変化わざという手が残されているからこそ,相撲の奥行きがぐんと深くなり,味わい深いものとなる。それが,すべて,真っ向勝負だけであったら,こんにちの大相撲人気はないだろう。大きくて,力の強い人間だけが勝つ,そんな大相撲になんの魅力もない。かつての舞の海のような力士が現れるからこそ,大相撲は面白いのだ。「小よく大を制す」そういう場面が担保されているからこそ,わたしは場所に通う。
くだんの記名記事を書いた文章の一部を,もう一度,引用しておこう。
先に土俵に上がった把瑠都は,優勝の可能性を残す稀勢の里との一番だった。いきなり左に変化し,相手の首を両手で押さえてはたき込んだ。「組みにいこうと思ったけれど,体が勝手に動いた。見に来てくれているファンの皆さんに申し訳ない」。そう話しはしたが,満面の笑みで小走りに花道を引き揚げ,風呂に入るなり「よっしゃあ」と声を上げる姿に,説得力はなかった。
多くの読者は,このまま,受け取るのだろうと思う。しかし,わたしには笑止千万。力士たちがジャーナリストから声を掛けられたら,どのように応対するかは,熟知している。タテマエとホンネを使い分けていることは「勝利者インタヴュー」を聞いていれば,だれだってわかることだ。それを,わざわざ言挙げして,ここまで書く新聞記者はなにを考えているのか,それこそホンネを聞いてみたい。
把瑠都にすれば,初優勝が目の前に迫っているのだ。なにがなんでも勝ちにいく。当たり前のことだ。そのためには,優勝争いに加わっている相手力士はひとりでも多く「つぶして」いく。そのための「はたき込み」だ。しかも「体が勝手に動いた」と言っている。わたしなら,この発言に注目したい。なぜなら,立ち合い,じらしにでたのは稀勢の里の方だ。わざと,仕切り直しのテンポを落し,相手を待たせたのは稀勢の里の方だ。この駆け引きに,把瑠都のからだが反応して「勝手に動いて」の変化ワザだったとすれば,把瑠都の成長をそこにみる。今場所の好調の理由は,まぎれもなく力士としての把瑠都の成長にある。つまり,「相撲を覚えた」のだ。これまでの,不器用な把瑠都とは一味違う,新境地を開いた,もう一つ上のレベルに到達した把瑠都を,わたしはそこにみる。こうなると,把瑠都の横綱はすぐそこだ。
日馬富士と白鵬の相撲は,もう,なにも言うことはない。白鵬の完敗なのだ。そして,わたしは日馬富士にこころからの拍手を送りたい。おみごと,と。この両者の駆け引きを見届けること。わたしは大満足だ。そこを見ずして,ただ,変化ワザが許せないという新聞記者のレベルの低さにあきれはてるのみ。白鵬は冷静に「負ける方も悪い」と言っている。横綱の方がはるかに大相撲の極意に近いところで自分の相撲を振り返っている。やはり,白鵬は偉い。賢い。立派。新聞記者は,白鵬の真意を酌み取って,そのふところの深さを解説すべきではないのか。そして,真の相撲の面白さを引き出すくらいの記事を書いてほしい。それが,わたしの願いだ。
なぜか? これを書きはじめるとエンドレスになる。
残念だが,今日のところはここまで。みなさんで考えてみてください。
1 件のコメント:
お久しぶりです。shigeです。
昨日の大相撲の結果を新聞で見ました。
変化をして勝ったことを新聞は書いていました。さて、先生はなんと書くか。
まぁ、たいていは予想できていましたが。
書かれたものを読んで、予想通りでした。ちょっとうれしい。
相撲とか、柔道とか、「柔よく剛を制す」
だから面白いんですよね。
新聞記者さんは、舞の海を力士として認めていないのでしょうか?
また、楽しみにしてこれからも読んでいきます。
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