「異文化理解」という美しい言い回しがいつのころからか世間に流通している。そして,それは異文化に触れることによって,いともかんたんに理解が可能であるかのような幻想をいだかせている。かく申すわたしも異文化に触れる回数を増やしていけば,おのずからその理解は深まるものと単純に思っていた。もちろん,異文化に触れないよりは触れた方が理解が深まることは間違いない。しかし,「異文化理解」はそんな簡単なことではない。そのことを今回の第2回日本・バスク国際セミナーをとおして痛感した。
「異文化理解」などということばを軽々しく用いるべきではない。
第一,異文化に対峙するとき,にわかに露呈してくることは,わたしたち自身が「日本文化」に対してどれだけの理解をもっているのか,ということである。つまり,「日本文化」に対する理解の深さに応ずる程度にしか「バスク文化」を理解することはできない,ということだ。つまり,「バスク文化」を理解するためには「日本文化」という写し鏡をしっかりと磨いておくことが重要なのだ。それなしには「バスク文化」を受容することはできない。
異文化理解の最大のハードルは,なんといっても「ことば」の問題である。今回は,スペイン語・日本語という二つの言語をもちいて,相互に通訳をとおして理解するという,国際セミナーであればごく当然のことが行われた。しかし,通訳(翻訳)にはいかんとも超えがたい壁がある。たとえば,辞典的にはまったく同じ意味のことばであっても,そこには微妙なニュアンスの「ズレ」が生ずることになる。それは,もはや,仕方のないことなのである。そこを,どのようにしてクリアしていくか,国際セミナーとしてこんご超えていかなくてはならない大きな課題が明らかになったことが,今回の収穫ではあったのだが・・・・。
たとえば,こんなことがあった。バスク側の研究者のひとりであるHさんが,日本側研究者の抄録原稿を事前に丹念に読んで,それを要約した発表をした。それは,少なくともわたしを驚愕させるに値するものであった。なぜなら,かれの結論は,「日本人は神道と仏教という二つの宗教のなかにどっぷりと浸かって生きており,日本の伝統スポーツもまたすべてこの二つの宗教と密接に結びついている。その前提に立つと,稲垣の言っていることは〇〇〇のように理解することができる」というように要約されていたからだ。この論調でわたし以外の日本側研究者の抄録原稿もまた,ブルドーザーで地ならししたかのように,なにからなにまで神道と仏教に結び付けて考える姿勢に貫かれていたからだ。わたしの場合には,わたしが抄録原稿に書いた日本の大相撲に関する内容の要約だったのだ。わたし自身はそんなことを強調した覚えはないにもかかわらず・・・・。これには参った。逐一,反論をしようかと思ったが,止めておくことにした。10分や20分の時間で,しかも,通訳をとおしてのディスカッションでは,ますます誤解を生みかねないと考えたからだ。
その背景には,日本側の研究者のTさんが,Hさんの何回かの日本訪問の際に,Hさんを伝統スポーツが行われている現場に案内したことがあるように思う。かれの印象として深く残ったものが,どこに行っても伝統スポーツの現場には神社があり,寺がある。また,日本国内を移動中にも,どこをみても,いたるところに神社があり,寺がある。それはキリスト教文化圏からきた人たちの眼には強烈な印象を残すことになったであろうと思う。
なぜなら,わたし自身がウィーンで10カ月間の初めての長期滞在をしたときの,最初のもっとも強烈な印象は「教会」の数の多いことだったからだ。とくに,教区教会はほんの数100mも歩けば,また,その教区の教会が建っていて,街中のありとあらゆるところに教会が建っている。よくよく考えてみれば,日本の神社や寺も,外国人の眼からすれば,ありとあらゆるところに建っている,という印象をもつだろう。だからといって,どれだけの日本人が神社や寺にお参りに行くかということとは別問題だ。ウィーンの友人もまた,最近の若い人たちはほとんど教会には関心をもっていないし,わたしたち自身も日曜日のミサにも行かない,と言っていた。その意味ではウィーンも日本も同じだなぁ,と思ったことがある。
そんなことを考えていたら,ハッと気づいたことがある。わたしたちの「バスク理解」も,同じようなレベルにすぎないのではないか,ということだ。なぜなら,バスクの友人たちに案内されてえた見聞をもとにして,まことに自分勝手に,自分なりの「バスク文化」の理解の仕方をしているにすぎないからだ。多少の文献を読んだりして,それでわかったつもりになっているだけのことではないか。おそらく,長期滞在をしながら,地に足のついた見聞を広めていかないかぎり,ごくごく表層的な文化理解の仕方しかしていないのだから。
バスクのHさんのプレゼンテーションをとおして,びっくりすると同時に,みずからの非を知らしめられた次第である。その意味でも,今回の国際セミナーはわたしにとっては大きな収穫があった。そして,「異文化理解」の奥の深さを知った以上は,これからは軽々しくこのことばを用いてはならないと肝に銘じておくことにしよう。
「異文化理解」などということばを軽々しく用いるべきではない。
第一,異文化に対峙するとき,にわかに露呈してくることは,わたしたち自身が「日本文化」に対してどれだけの理解をもっているのか,ということである。つまり,「日本文化」に対する理解の深さに応ずる程度にしか「バスク文化」を理解することはできない,ということだ。つまり,「バスク文化」を理解するためには「日本文化」という写し鏡をしっかりと磨いておくことが重要なのだ。それなしには「バスク文化」を受容することはできない。
異文化理解の最大のハードルは,なんといっても「ことば」の問題である。今回は,スペイン語・日本語という二つの言語をもちいて,相互に通訳をとおして理解するという,国際セミナーであればごく当然のことが行われた。しかし,通訳(翻訳)にはいかんとも超えがたい壁がある。たとえば,辞典的にはまったく同じ意味のことばであっても,そこには微妙なニュアンスの「ズレ」が生ずることになる。それは,もはや,仕方のないことなのである。そこを,どのようにしてクリアしていくか,国際セミナーとしてこんご超えていかなくてはならない大きな課題が明らかになったことが,今回の収穫ではあったのだが・・・・。
たとえば,こんなことがあった。バスク側の研究者のひとりであるHさんが,日本側研究者の抄録原稿を事前に丹念に読んで,それを要約した発表をした。それは,少なくともわたしを驚愕させるに値するものであった。なぜなら,かれの結論は,「日本人は神道と仏教という二つの宗教のなかにどっぷりと浸かって生きており,日本の伝統スポーツもまたすべてこの二つの宗教と密接に結びついている。その前提に立つと,稲垣の言っていることは〇〇〇のように理解することができる」というように要約されていたからだ。この論調でわたし以外の日本側研究者の抄録原稿もまた,ブルドーザーで地ならししたかのように,なにからなにまで神道と仏教に結び付けて考える姿勢に貫かれていたからだ。わたしの場合には,わたしが抄録原稿に書いた日本の大相撲に関する内容の要約だったのだ。わたし自身はそんなことを強調した覚えはないにもかかわらず・・・・。これには参った。逐一,反論をしようかと思ったが,止めておくことにした。10分や20分の時間で,しかも,通訳をとおしてのディスカッションでは,ますます誤解を生みかねないと考えたからだ。
その背景には,日本側の研究者のTさんが,Hさんの何回かの日本訪問の際に,Hさんを伝統スポーツが行われている現場に案内したことがあるように思う。かれの印象として深く残ったものが,どこに行っても伝統スポーツの現場には神社があり,寺がある。また,日本国内を移動中にも,どこをみても,いたるところに神社があり,寺がある。それはキリスト教文化圏からきた人たちの眼には強烈な印象を残すことになったであろうと思う。
なぜなら,わたし自身がウィーンで10カ月間の初めての長期滞在をしたときの,最初のもっとも強烈な印象は「教会」の数の多いことだったからだ。とくに,教区教会はほんの数100mも歩けば,また,その教区の教会が建っていて,街中のありとあらゆるところに教会が建っている。よくよく考えてみれば,日本の神社や寺も,外国人の眼からすれば,ありとあらゆるところに建っている,という印象をもつだろう。だからといって,どれだけの日本人が神社や寺にお参りに行くかということとは別問題だ。ウィーンの友人もまた,最近の若い人たちはほとんど教会には関心をもっていないし,わたしたち自身も日曜日のミサにも行かない,と言っていた。その意味ではウィーンも日本も同じだなぁ,と思ったことがある。
そんなことを考えていたら,ハッと気づいたことがある。わたしたちの「バスク理解」も,同じようなレベルにすぎないのではないか,ということだ。なぜなら,バスクの友人たちに案内されてえた見聞をもとにして,まことに自分勝手に,自分なりの「バスク文化」の理解の仕方をしているにすぎないからだ。多少の文献を読んだりして,それでわかったつもりになっているだけのことではないか。おそらく,長期滞在をしながら,地に足のついた見聞を広めていかないかぎり,ごくごく表層的な文化理解の仕方しかしていないのだから。
バスクのHさんのプレゼンテーションをとおして,びっくりすると同時に,みずからの非を知らしめられた次第である。その意味でも,今回の国際セミナーはわたしにとっては大きな収穫があった。そして,「異文化理解」の奥の深さを知った以上は,これからは軽々しくこのことばを用いてはならないと肝に銘じておくことにしよう。
1 件のコメント:
稲垣しぇんしぇい、皆様、おつかれさまだっただによぉ。kappaは竹村某のペットボトルに潜んで参加しただによぉ。途中で捕まって、キーホルダーに変身しただによぉ。
とても疲れただによぉ。でも、その疲れはとても刺激的なものだっただに。だから、楽しかっただにぉ。とても楽しかっただにぉぉぉ。
日本語、英語、フランス語、スペイン語、バスク語?・・・飛び交ってただにぉ。
語学が苦手で、河童語以外は日本語もあまり上手くない僕はヒーヒーしてただによぉ。
発表を聞いていると、妙な感覚が生まれ始めただにぉ。
発表者の言葉には、語気があるんだに。通常、僕らはそれを捉えて(それに引きつけられて)聞いているんだに。今回は、それでは意味がわからないだに。。。そうすると、、、二回に分けて(二段階で)聞くことになり、耳の中の奥の方が、「ぶぉ〜ん」としてきただに。。。笑
どちらにしてもヘンテコリンなイメージが、二重にかぶって、蜃気楼のようだっただに。。。そのことをずっっと考えていただに。。。やはし「名前」って変だにぉ
触れることのできないものにも名前があるんだからにぉ。
でも、たぶん日本語同士でも、おなじことなんだにぉ。
やっかいなのは、ルールに則っている以上、ズレていると感じないことなんだに・・・これはやっかいだにぉ(笑)
僕が勝手に抱いているイメージのみ。。。なんだにぉ。
これが「世界」なんだにかぁ?
しぇんしぇいのブログを読んで、コメントしたくなっただにぉ。
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