とうとう「もっと無気力になりなさい」と言われてしまいました。わたしの太極拳の固さをほぐすための,李自力老師のお言葉です。
「からだの力を抜きなさい」「上半身の力を抜きなさい」「肩の力を抜きなさい」「股関節の力を抜きなさい」「腕の力を抜きなさい」「指の力を抜きなさい」「手首・肘・肩の力を抜きなさい」「首の力を抜きなさい」「背筋を緩めなさい」
「無理に頑張るのをやめなさい」「気持ちを楽にさせなさい」「そんな怖い顔をしないで,笑顔をつくりなさい」「鼻唄でも歌いながらしなさい」「一点に集中するのではなく,視線を遠くに向けなさい」「全体にそれとなく気配りをしなさい」
「高い姿勢で楽にやりなさい」「てれんこてれんこ脱力してやりなさい」「できるだけ,だらしなくやりなさい」「動作のことはなにも考えないで適当にやりなさい」「イメージだけ描いて,手足の動きは気にしないでやりなさい」
とまあ,こんな具合に,とても数えられないほどの「脱力」,あるいは「抜く」ことの注意を,10年以上も受けてきました。それでもうまくできませんので,とうとう「無気力になりなさい」とまで言われてしまいました。わたしの耳には最後通告のように聞こえました。
もちろん,李老師は注意深く「ことばはよくないですが」という前提をつけた上で,「無気力になりなさい」と仰います。つまり,いい意味で「無気力になりなさい」というわけです。
しかし,無気力などという状態は,なろうとおもってなれるものではありません。ましてや,李老師のまなざしを全身に受けて,その前で無気力になることなど,とても不可能です。ですから,ちょっとばかりふざけて,無気力を演じてみました。すると,それでいいのだ,と仰る。しかし,こんどは照れくさくて,もう一度やれと言われてもできません。どうやら,わたしのこころのもち方の方に問題があるようです。つまり,まだ,李老師の前に立つだけで,こうあらねばならないという「真面目」の虫がわたしを支配してしまいます。ここから抜け出し,こころを開いてのびのびと稽古ができるようになることが,まずは,先決のようです。
ならば,というわけで,家に帰ってから,たった独りでやってみました。これなら,いくらでも無気力を「演ずる」ことはできます。しかし,これとて,所詮は「演じて」いるのであって,無気力そのものではありません。無気力を「演ずる」ことと,無気力に「成りきる」こととの間には天と地ほどの違いがあります。そのことがわかった瞬間に,李老師が仰った「無気力になりなさい」ということばの奥行きの深さがわかりました。しかも,それは無限に拡がっていることに気づきました。まるで無限地獄のような,真っ暗闇の空間です。そこに身もこころも投げ出せ,というわけです。
「もっと無気力になりなさい」・・・これは,まるで禅問答の公案をいただいたような気分です。
「無気力」に向けて,みずから「演出」しながら,みずから「演ずる」こと。別の言い方をすれば,主体的自己が,内なる他者と向き合うこと。あるいは,禅的な解釈をすれば,「無気力」とは「無の境地」そのもの。自己が消え去った状態。自己と他者が一体化した世界。自他の区別がなくなる世界。そこは,まさに「悟り」の世界。
と,ここまで考えが及んだときに,これまた偶然ではありますが,10月17日(土)の研究会での森元庸介さんのプレゼンテーションのテーマが脳裏に忽然と浮かび上がってきました。それも,今日の午後,メールで送られてきたばかりのものです。しかも,今日の午前は森元さんも一緒に太極拳の稽古をし,李老師のお話をともに聞いていました。偶然にしては,あまりにできすぎです。森元さんが送ってきてくださったテーマは以下のとおりです。
「演出,あるいは人間的な生存の基底 ピエール・ルジャンドルのダンス論を中心に」(仮)。
漢字の世界では,「武」と「舞」は同根・同義。
李老師の仰る「無気力の薦め」の背景には,こんな裏があったとは・・・・。これからじっくりと考えてみたいとおもいます。
「からだの力を抜きなさい」「上半身の力を抜きなさい」「肩の力を抜きなさい」「股関節の力を抜きなさい」「腕の力を抜きなさい」「指の力を抜きなさい」「手首・肘・肩の力を抜きなさい」「首の力を抜きなさい」「背筋を緩めなさい」
「無理に頑張るのをやめなさい」「気持ちを楽にさせなさい」「そんな怖い顔をしないで,笑顔をつくりなさい」「鼻唄でも歌いながらしなさい」「一点に集中するのではなく,視線を遠くに向けなさい」「全体にそれとなく気配りをしなさい」
「高い姿勢で楽にやりなさい」「てれんこてれんこ脱力してやりなさい」「できるだけ,だらしなくやりなさい」「動作のことはなにも考えないで適当にやりなさい」「イメージだけ描いて,手足の動きは気にしないでやりなさい」
とまあ,こんな具合に,とても数えられないほどの「脱力」,あるいは「抜く」ことの注意を,10年以上も受けてきました。それでもうまくできませんので,とうとう「無気力になりなさい」とまで言われてしまいました。わたしの耳には最後通告のように聞こえました。
もちろん,李老師は注意深く「ことばはよくないですが」という前提をつけた上で,「無気力になりなさい」と仰います。つまり,いい意味で「無気力になりなさい」というわけです。
しかし,無気力などという状態は,なろうとおもってなれるものではありません。ましてや,李老師のまなざしを全身に受けて,その前で無気力になることなど,とても不可能です。ですから,ちょっとばかりふざけて,無気力を演じてみました。すると,それでいいのだ,と仰る。しかし,こんどは照れくさくて,もう一度やれと言われてもできません。どうやら,わたしのこころのもち方の方に問題があるようです。つまり,まだ,李老師の前に立つだけで,こうあらねばならないという「真面目」の虫がわたしを支配してしまいます。ここから抜け出し,こころを開いてのびのびと稽古ができるようになることが,まずは,先決のようです。
ならば,というわけで,家に帰ってから,たった独りでやってみました。これなら,いくらでも無気力を「演ずる」ことはできます。しかし,これとて,所詮は「演じて」いるのであって,無気力そのものではありません。無気力を「演ずる」ことと,無気力に「成りきる」こととの間には天と地ほどの違いがあります。そのことがわかった瞬間に,李老師が仰った「無気力になりなさい」ということばの奥行きの深さがわかりました。しかも,それは無限に拡がっていることに気づきました。まるで無限地獄のような,真っ暗闇の空間です。そこに身もこころも投げ出せ,というわけです。
「もっと無気力になりなさい」・・・これは,まるで禅問答の公案をいただいたような気分です。
「無気力」に向けて,みずから「演出」しながら,みずから「演ずる」こと。別の言い方をすれば,主体的自己が,内なる他者と向き合うこと。あるいは,禅的な解釈をすれば,「無気力」とは「無の境地」そのもの。自己が消え去った状態。自己と他者が一体化した世界。自他の区別がなくなる世界。そこは,まさに「悟り」の世界。
と,ここまで考えが及んだときに,これまた偶然ではありますが,10月17日(土)の研究会での森元庸介さんのプレゼンテーションのテーマが脳裏に忽然と浮かび上がってきました。それも,今日の午後,メールで送られてきたばかりのものです。しかも,今日の午前は森元さんも一緒に太極拳の稽古をし,李老師のお話をともに聞いていました。偶然にしては,あまりにできすぎです。森元さんが送ってきてくださったテーマは以下のとおりです。
「演出,あるいは人間的な生存の基底 ピエール・ルジャンドルのダンス論を中心に」(仮)。
漢字の世界では,「武」と「舞」は同根・同義。
李老師の仰る「無気力の薦め」の背景には,こんな裏があったとは・・・・。これからじっくりと考えてみたいとおもいます。
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