鷺沼の事務所に通う,いつもの道沿いに,「赤い実のなる木」を発見。久しぶりに青空が広がったので,ひときわ,美しく映えていました。しばらく立ち止まって鑑賞していましたが,やはり,写真に撮っておこうと考え,ザックからカメラを取り出して撮影。
肉眼でみるのと,写真でみるのとでは大いに違うので,撮影にはいつも苦労する。肉眼だと,とてもきれいにみえているのに,写真にすると,これなに?という感じになってしまう。こういうことはよくあることだ。この写真もその一つ。いったい,なにが撮りたかったの?と自問自答。
これでは駄目だと考え,アップにしてみれば,この赤い実がきれいにみえるのではないか,と考えて撮ったのがこの写真。いくらか「赤い実」がみえてきた。でも,なんだかもの足りない。肉眼では,もっともっと「赤い実」がくっきりとみえているのに・・・・。
では,もっとアップにしてみればどうだろう,と考えて撮ったのがこの写真。ようやく,肉眼でみえている「赤い実」に近くなってきた。それでも,まだ,満足はできない。それほどまでに,肉眼には美しく青空に映えているのだ。もう,これ以上は無理だ,と判断して諦める。
そして,しばらくは肉眼で鑑賞。きれいだ。ほんとうにきれいだ。おそらく,この枯れ葉が落ちてしまえば,もっと「赤い実」が際立ってくるだろうなぁ,とあれこれ想像してみる。ザックを下ろしたまま道路脇に立ってぼんやり上を眺めているので,道行く人が不思議そうな顔をしてとおりすぎていく。その人たちにしてみれば,なにも立ち止まってみるほどのものではないのかもしれない。しかし,ほとんどの時間を部屋に閉じこもって生活している者にとっては,こんな「小さな秋」発見ですら嬉しくて仕方がないのだ。なぜ?
こういう光景に出会うと,わたしの記憶は一気に子ども時代に飛んでいく。そして,この赤い実は,竹鉄砲の絶好の弾になるな,とひらめく。でも,この赤い実を弾にするにちょうどいい雌竹を見つけるのはむつかしいかなぁ,とおもったりする。駄目なら,太さの違う雌竹を何本も用意すればいい。そうして,サイズを合わせればいい,などと勝手に想像だけが一人走りしていく。
至福のひととき。あの時間が止まったかのような,遊ぶ時間がたっぷりあった子ども時代の記憶がつぎつぎに蘇ってくる。
やはり,道行く人にとっては,変な老人に見えたのだろう。だって,こころ,ここにあらず,という顔で空を見上げているのだから・・・・。
そして,しばらくは肉眼で鑑賞。きれいだ。ほんとうにきれいだ。おそらく,この枯れ葉が落ちてしまえば,もっと「赤い実」が際立ってくるだろうなぁ,とあれこれ想像してみる。ザックを下ろしたまま道路脇に立ってぼんやり上を眺めているので,道行く人が不思議そうな顔をしてとおりすぎていく。その人たちにしてみれば,なにも立ち止まってみるほどのものではないのかもしれない。しかし,ほとんどの時間を部屋に閉じこもって生活している者にとっては,こんな「小さな秋」発見ですら嬉しくて仕方がないのだ。なぜ?
こういう光景に出会うと,わたしの記憶は一気に子ども時代に飛んでいく。そして,この赤い実は,竹鉄砲の絶好の弾になるな,とひらめく。でも,この赤い実を弾にするにちょうどいい雌竹を見つけるのはむつかしいかなぁ,とおもったりする。駄目なら,太さの違う雌竹を何本も用意すればいい。そうして,サイズを合わせればいい,などと勝手に想像だけが一人走りしていく。
至福のひととき。あの時間が止まったかのような,遊ぶ時間がたっぷりあった子ども時代の記憶がつぎつぎに蘇ってくる。
やはり,道行く人にとっては,変な老人に見えたのだろう。だって,こころ,ここにあらず,という顔で空を見上げているのだから・・・・。
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