2015年10月13日火曜日

「平常心是道」。「まんだぁお迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」。

 一年半の間に,二度の大手術を受けて,ようやく「死」というものが目の前に見えてきたようにおもいます。それまでは,まったく健康そのものでしたので,「死」などというものを考える暇もありませんでした。まるで,遠いさきの世界の,非現実的な想像上の問題だとおもっていました。しかし,昨年と今年と短期間のうちに二度もの大手術を受け,集中治療室での一昼夜,二昼夜を過ごして,そこからなんとか這い出して一般病室に移り,必死のリハビリをして退院する,などという経験をすると,人間はいやでも人生観・死生観が変わるものです。いや,変わらざるを得ないものです。

 そんなこともあって,最近は,道元さんの本を読むことが多くなりました。同時に,苦労して育ててくれた両親をはじめ,空襲で焼け出されて丸裸になってしまったわたしたち家族をまるごと面倒をみてくださった大伯父・大伯母のことや祖父母のこと,などなど生前なにかとこころに響くことばをかけてくださった人びとのことが,走馬灯のように思い起こされます。同時に,日一日とともにあの世のことが身近に感じられらるようにもなってきました。

 そんなとき,ふと脳裏をよぎるのが,晩年の大伯父がお会いするたびに言われたことばです。「まんだぁお迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」。にこやかな笑顔にだまされ,うまいジョークを言うなぁ,と思いながら笑って受けとっていました。その大伯父の背後の床の間には「平常心是道」という掛け軸がかかっていました。わたしはこの掛け軸のことばがずーっと気になっていて,一度,どこかでチャンスをみつけて大伯父に聞いてみようとおもっているうちに,そのチャンスを逃してしまいました。残念の極みです。

 最近になって,道元さん関連の本を読んでいると,しばしば,このことばに出会います。そして,いろいろの解釈ができることばなのだということも知りました。ならば,わたしも自己流の解釈をしてみようと思い立ちました。そうして,いろいろと考えているうちに「ハッ」と気づいたことがありました。それは,さきほどの大伯父のことば「まんだぁお迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」がそのまま「平常心是道」そのものではないか,ということです。

 それには伏線があります。わたしがまだ小学生のころですので,大伯父もまだ若かったころのことです。ある日,大伯父が本堂でお経を上げていました。そのとき,突如として雷が鳴り始めました。それも稲妻と同時に雷鳴が轟くという,とんでもない雷でした。みんな怖くなって,大伯母と子どもたちは庫裡の奥の部屋に蚊帳を釣ってそのなかに集まって震えていました。しかし,本堂のお経は止むことなく,いつもどおりのリズムの木魚の音とともに読経がつづいています。その間も,雷は激しく鳴り続けていました。

 読経が終わって庫裡に引き揚げてきた大伯父は,通りすがりにひとこと。「雷は落ちるときには落ちる。落ちないときは落ちない」,と。すました顔をしていました。このときのことを思い出すたびに,大伯父は達観している,ふつうの人ではない,と思い描いていました。まさに,大事にしていた掛け軸の「平常心是道」をそのまま生きていたんだなぁ,といまにして納得です。

 最晩年のある日,いつものように朝食をとり,大伯母が裏の畑にでかけている間に,おそらく「お迎え」の声を聞いたのでしょう。ひとりでふとんの中に入り,大往生を遂げていた,といいます。

 この大伯父の生きざまをみていて思うことは以下のようなことです。平常心とは,死の承認ではないか,と。死を受け入れるということ。死と正面から向き合うということ。この境地に達してしまえば,もはや畏れるものはなにもない。その境地を淡々と生きること。それが平常心そのもの。それこそが仏道の道。「平常心是道」とはこのことを言っているのだろう,と。

 馬祖道一のことばと言われているこのことば。仏教用語としてはどのように解釈されてきたのか,そしてまた,曹洞禅ではどのように受け止められてきたのか。この点については,少し長くなりますので,別の稿として書いてみたいとおもいます。

 ということで,今日のところはここまで。

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