10月18日(日)の夜9時からのNHKスペシャル「バガン遺跡の謎」をみて,久しぶりに感動しました。こんなにいい番組がつくれるではないか,と。それに引き換え,ニュース番組の体たらく,と鑑賞後につよくおもいました。
ミャンマーのバガンというむかしの宗教都市には,いまも無数の仏塔や寺院が遺跡として残されています。なぜ,この地にこんなに多くの仏塔や寺院が残されたのか,その謎に迫る,というドキュメンタリーでした。
11~13世紀にかけて栄えたバガン王朝時代に,7×6㎞ほどの土地に,映像でみるかぎり驚くほどの仏塔や寺院が点在しています。見渡すかぎり,仏塔・寺院の建造物だらけです。いったい,なぜ,これほど多くの仏塔や寺院が所狭しとばかりにバガン王朝時代に建造されたのか,それは長い間,謎とされてきました。
しかし,最近の研究によって,ようやくその謎のヴェールが取り除かれつつあるということです。そして,現段階での結論が,きわめて興味深いものでした。
それによりますと,「貧富の差のない社会」が実現していたということ,そして,その「貧富の差をなくすための装置」として,仏塔や寺院の建造がなされた,というものです。あるいは,仏塔や寺院を建造した結果として,「貧富の差のない社会」が実現したのではないか,というものです。
その仕組みは以下のとおりです。
バガン王朝が現れる前までは,さまざまな原始的な宗教がひろまっていました。たとえば,親殺しをしても呪文を唱えれば許されるとか,盗人であっても禊ぎをすれば罪はなくなるとか,種々雑多な宗教が蔓延していて,世の中が乱れていました。ところが,バガン王朝の初代の王が「仏教」を王朝の宗教と定め,仏教の教えを広めることに熱心に取組ました。
ここで採用された仏教は,日本にも伝わった大乗仏教ではなく,上座部仏教といわれるもので,きわめて戒律の厳しいものでした。王が率先してこの上座部仏教の信者となり,その教えを実践に移しました。その一つが,仏塔や寺院を建造することでした。
仏塔は,上座部仏教の宇宙観を視覚化して,だれの眼にもみればすぐにわかるように工夫されて建造されました。大きな土台部分が下界(悪事をはたらいて救われない人びとの世界,すなわち地獄),その上に人間界(仏教を信仰してまじめに暮らしている人びとの世界),さらにその上に天界(出家をして修行に励んでいる人びとの暮らす世界),そして,頂上には涅槃の世界(悟りに到達した人びとが暮らす世界)という,四つの層に分けて,わかりやすくしました。そして,その仏塔には,無数の仏像が刻まれ,出家をして悟った人の姿が,日常的に眼でみて確認できるようにしました。ですから,人びとは,この仏塔を眺めるだけで,仏教の宇宙観を日常的に窺い知ることができました。
しかし,この巨大な仏塔を建造するには,多くの資金と人材を必要とします。王は,住民たちから集めた税金を,惜しげもなく仏塔建造のために使いました。そのために働く人びとには,それに見合うだけの賃金を支払いました。こうして,集めた税金は,ふたたび住民のもとに還元されていきます。しかも,王は仏塔を建てることは仏教の教えにしたがって「功徳」を積むことだ,そして,この仏塔を拝むこともまた「功徳」を積むことだ,さらには,仏塔の維持・管理に勤めるのも「功徳」である,と説きました。そうすれば,人間界から天界へ,そして涅槃に到達することも可能なのだ,と。
ですから,人びとはみんなこぞって上座部仏教の熱心な信者となりました。そして,信者のなかには,金持ちになる者も現れます。すると,その信者は,私財をはたいて仏塔を建造します。こうして,金持ちのお金もまた再配分されて,住民のもとに還元されていきます。
こうして,お金は,つねに循環してまわっていきますので,仏塔建造の仕事に従事することよって,一定の生活水準を維持することができる,というわけです。その結果として,「貧富の差のない社会」が実現され,人びとはとても幸せに暮らしていた,ということです。
この伝統は,いまも生きていて,人びとは生涯に一度は出家をし,得度式を経験し,一定期間,寺院で修行をすることが慣習化されています。この得度式を受けるためにはお金が必要なので,そのために10年も20年もかけて貯金をして準備します。そうして,そのお金をすべて寄進して,得度式を経験し,修行することが「功徳」になり,生涯にわたる幸せをわがものとすることができる,と信じています。
こうして,お金というものは,自分ひとりで抱え込むものではなくて,「功徳」を積むためのものであり,そのために潔く寄進することが幸せな暮らしを生みだすのだ,というわけです。
ここには,いわゆる資本主義経済の考え方は存在していません。むしろ,マルセル・モースのいう贈与経済の一つの典型例をみてとることができます。つまり,貯まったお金は潔く「贈与」すること。ここでいえば,「寄進」すること。これが「功徳」を生み,幸せをもたらす源泉なのだ,というわけです。
こういう上座部仏教が,いまもミャンマーの古都バガンには,立派に引き継がれ,実践されているというのです。その結果,いまも「貧富の差のない社会」が維持されており,みんな幸せに暮らしているといいます。
これも,ルジャンドルのいう「法」(のり)が共同体の安寧を維持していく上では必要なのだ(西谷修)という,ひとつのサンプルとみていいのではないか,と考えました。そして,この上座部仏教の「法」もまた,立派な「ドグマ」なのだ,と。そして,道元さんの説く「正法」(眼蔵)もまた立派なドグマである,というわけです。安保関連法案もまた,立派な「法」であり,ドグマです。ですから,いかなる「法」をわがものとするか,が一大事というわけです。その意味でも,良質のドグマを手に入れなくてはなりません。憲法は,いま,わたしたちが手にしている「法」の根本です。ですから,この「法」を,もし,変更するのであれば,徹底的な議論を経てからのものでなくてはなりません。勝手に解釈を変えられてはたまったものではありません。それほどに「法」というものは大事なのだ,ということを肝に銘じておきたいとおもいます。
ルジャンドルに言わせれば,ダンスもまた「法」(あるいは,「制度」)によって,表現の「限界」が定められているのだ,というわけです。土曜日の研究会でのお話が脳裏に鮮明に蘇ってきます。この話はまたいずれ・・・・。
ミャンマーのバガンというむかしの宗教都市には,いまも無数の仏塔や寺院が遺跡として残されています。なぜ,この地にこんなに多くの仏塔や寺院が残されたのか,その謎に迫る,というドキュメンタリーでした。
11~13世紀にかけて栄えたバガン王朝時代に,7×6㎞ほどの土地に,映像でみるかぎり驚くほどの仏塔や寺院が点在しています。見渡すかぎり,仏塔・寺院の建造物だらけです。いったい,なぜ,これほど多くの仏塔や寺院が所狭しとばかりにバガン王朝時代に建造されたのか,それは長い間,謎とされてきました。
しかし,最近の研究によって,ようやくその謎のヴェールが取り除かれつつあるということです。そして,現段階での結論が,きわめて興味深いものでした。
それによりますと,「貧富の差のない社会」が実現していたということ,そして,その「貧富の差をなくすための装置」として,仏塔や寺院の建造がなされた,というものです。あるいは,仏塔や寺院を建造した結果として,「貧富の差のない社会」が実現したのではないか,というものです。
その仕組みは以下のとおりです。
バガン王朝が現れる前までは,さまざまな原始的な宗教がひろまっていました。たとえば,親殺しをしても呪文を唱えれば許されるとか,盗人であっても禊ぎをすれば罪はなくなるとか,種々雑多な宗教が蔓延していて,世の中が乱れていました。ところが,バガン王朝の初代の王が「仏教」を王朝の宗教と定め,仏教の教えを広めることに熱心に取組ました。
ここで採用された仏教は,日本にも伝わった大乗仏教ではなく,上座部仏教といわれるもので,きわめて戒律の厳しいものでした。王が率先してこの上座部仏教の信者となり,その教えを実践に移しました。その一つが,仏塔や寺院を建造することでした。
仏塔は,上座部仏教の宇宙観を視覚化して,だれの眼にもみればすぐにわかるように工夫されて建造されました。大きな土台部分が下界(悪事をはたらいて救われない人びとの世界,すなわち地獄),その上に人間界(仏教を信仰してまじめに暮らしている人びとの世界),さらにその上に天界(出家をして修行に励んでいる人びとの暮らす世界),そして,頂上には涅槃の世界(悟りに到達した人びとが暮らす世界)という,四つの層に分けて,わかりやすくしました。そして,その仏塔には,無数の仏像が刻まれ,出家をして悟った人の姿が,日常的に眼でみて確認できるようにしました。ですから,人びとは,この仏塔を眺めるだけで,仏教の宇宙観を日常的に窺い知ることができました。
しかし,この巨大な仏塔を建造するには,多くの資金と人材を必要とします。王は,住民たちから集めた税金を,惜しげもなく仏塔建造のために使いました。そのために働く人びとには,それに見合うだけの賃金を支払いました。こうして,集めた税金は,ふたたび住民のもとに還元されていきます。しかも,王は仏塔を建てることは仏教の教えにしたがって「功徳」を積むことだ,そして,この仏塔を拝むこともまた「功徳」を積むことだ,さらには,仏塔の維持・管理に勤めるのも「功徳」である,と説きました。そうすれば,人間界から天界へ,そして涅槃に到達することも可能なのだ,と。
ですから,人びとはみんなこぞって上座部仏教の熱心な信者となりました。そして,信者のなかには,金持ちになる者も現れます。すると,その信者は,私財をはたいて仏塔を建造します。こうして,金持ちのお金もまた再配分されて,住民のもとに還元されていきます。
こうして,お金は,つねに循環してまわっていきますので,仏塔建造の仕事に従事することよって,一定の生活水準を維持することができる,というわけです。その結果として,「貧富の差のない社会」が実現され,人びとはとても幸せに暮らしていた,ということです。
この伝統は,いまも生きていて,人びとは生涯に一度は出家をし,得度式を経験し,一定期間,寺院で修行をすることが慣習化されています。この得度式を受けるためにはお金が必要なので,そのために10年も20年もかけて貯金をして準備します。そうして,そのお金をすべて寄進して,得度式を経験し,修行することが「功徳」になり,生涯にわたる幸せをわがものとすることができる,と信じています。
こうして,お金というものは,自分ひとりで抱え込むものではなくて,「功徳」を積むためのものであり,そのために潔く寄進することが幸せな暮らしを生みだすのだ,というわけです。
ここには,いわゆる資本主義経済の考え方は存在していません。むしろ,マルセル・モースのいう贈与経済の一つの典型例をみてとることができます。つまり,貯まったお金は潔く「贈与」すること。ここでいえば,「寄進」すること。これが「功徳」を生み,幸せをもたらす源泉なのだ,というわけです。
こういう上座部仏教が,いまもミャンマーの古都バガンには,立派に引き継がれ,実践されているというのです。その結果,いまも「貧富の差のない社会」が維持されており,みんな幸せに暮らしているといいます。
これも,ルジャンドルのいう「法」(のり)が共同体の安寧を維持していく上では必要なのだ(西谷修)という,ひとつのサンプルとみていいのではないか,と考えました。そして,この上座部仏教の「法」もまた,立派な「ドグマ」なのだ,と。そして,道元さんの説く「正法」(眼蔵)もまた立派なドグマである,というわけです。安保関連法案もまた,立派な「法」であり,ドグマです。ですから,いかなる「法」をわがものとするか,が一大事というわけです。その意味でも,良質のドグマを手に入れなくてはなりません。憲法は,いま,わたしたちが手にしている「法」の根本です。ですから,この「法」を,もし,変更するのであれば,徹底的な議論を経てからのものでなくてはなりません。勝手に解釈を変えられてはたまったものではありません。それほどに「法」というものは大事なのだ,ということを肝に銘じておきたいとおもいます。
ルジャンドルに言わせれば,ダンスもまた「法」(あるいは,「制度」)によって,表現の「限界」が定められているのだ,というわけです。土曜日の研究会でのお話が脳裏に鮮明に蘇ってきます。この話はまたいずれ・・・・。
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