「平常心是道」。
中国人の友人に,このことばのことを聞いてみた。
問:中国でもよく知られていることばですか。
答:中国人なら,だれでも知っていることばです。
問:中国語ではどのように発音しますか。
答:「びょうじょうしん・しー・たお」
問:どういう意味ですか。
答:直訳すれば,平常心がタオである。つまり,余分なことを考えないこと。自然のままに身もこころも委ねること,これがタオである,と。
これと同じ質問を,中国人の友人に問い返されたので,つぎのように応答した。
日本では,仏教用語として知られているので,知らない人もいる。とりわけ,禅の世界でどのように解釈されているかを知っている人は稀である。
読み方は,「平常心,是れ,道」。
意味は,平常心でいることが仏道を生きる道である,と。
すると,中国人の友人はつぎのように語った。
中国では,仏教用語だと認識している人は少ないとおもう。道(タオ)といえば,だれもがタオイズム(道教)の中心概念を思い浮かべる。だから,道教のことばだとおもっている人が多い。したがってけ,禅仏教のことまで知っている人は少ない。
そして,「平常心,是れ,道」の「是れ」とはどういう意味なのか,と聞かれる。中国語の「是」(シー)は,英語でいえば「be」動詞に相当する。だから,「である」であって,「是れ」にはならないから,と。
ここでハッと気づく。日本語では「平常心,是れ,道」と読んだり,耳にしたりして,なんの矛盾も感じない。しかも,「是れ」という日本語もある。だから,そのまま日本語に読み下すことで,なるほどと納得する。しかし,「是」(シー)は「be」だという。ということは「平常心=道」ということになる。しかも,タオイズムの「タオ」である,と。
もともと,禅仏教は,インドの仏教と中国の道家思想とが融合して生まれた,仏教の新しい宗派のひとつであることを考えれば,タオイズムと禅との親近性があってもなんの不思議もない。むしろ,タオイズムの「タオ」(道)が,仏教のなかに持ち込まれたと考える方が自然である。このことを念頭において,もう一度,日本語で読み下してみる。
「平常心,是れすなわち,仏道なり」。あるいは,「平常心,是れすなわち,禅なり」,と。
ここまで考えが至りついたときに,ふたたび,くだんの大伯父の背後を飾っていた掛け軸「平常心是道」の「文字」がありありと蘇ってくる。それは,いわゆる書家の文字ではない。明らかに,禅僧が書いたものに違いない。どこにも力みがない,平常心そのままの文字なのだ。上手でもない。下手でもない。そういうレベルを超越している文字なのだ。使った筆も,相当に使い古した,穂先がすり減ってバサバサになった筆である。だから,おのずから枯淡の味が伝わってくる。掛け軸が,なにも主張することなく,楚々としてそこにある。しかし,よくみると,いつのまにやらその文字に魅了されていき,虜になってしまっている。身動きがとれなくなってくる。懐の深い,底無しの世界,とでもいえばいいのだろうか。あるいは,これぞ「空」というべきか。
この掛け軸をこよなく愛したであろう大伯父は筆の立つ人であった。それも尋常一様の筆の使い手ではなかった。いまもありありと思い出すことのできる大伯父の書いた扁額がある。本堂(仏殿)の裏側に位置する祖堂(法堂・ほっとう)にかかっていた扁額である。そこには「無二無三」と書かれてあった。それはそれは切れ味鋭い,覇気迫るものであった。仰ぎ見る者に向かって,これでもか,といわぬばかりの迫力に満ちていた。
「二」もなければ,「三」もない。あるのは「一」だけだ。ましてや,「四」の「五」の言うな。真実はたった一つ「正法」のみ。ただ,それだけだ。その「一」に向かって歩む道。「一道」。一道無為心。
しかし,大伯父自身は「若書きの至り」と述懐されていた,と聞く。なるほど,と納得。だからこそ,あの枯淡の味がにじみ出ている「平常心是道」の掛け軸を身近においたに違いない,と。
今回もまた,「平常心是道」の禅仏教的解釈にまで踏み込むことはできなかった。したがって,もう一度,このテーマについては書くことにしたい。今日はここまで。
中国人の友人に,このことばのことを聞いてみた。
問:中国でもよく知られていることばですか。
答:中国人なら,だれでも知っていることばです。
問:中国語ではどのように発音しますか。
答:「びょうじょうしん・しー・たお」
問:どういう意味ですか。
答:直訳すれば,平常心がタオである。つまり,余分なことを考えないこと。自然のままに身もこころも委ねること,これがタオである,と。
これと同じ質問を,中国人の友人に問い返されたので,つぎのように応答した。
日本では,仏教用語として知られているので,知らない人もいる。とりわけ,禅の世界でどのように解釈されているかを知っている人は稀である。
読み方は,「平常心,是れ,道」。
意味は,平常心でいることが仏道を生きる道である,と。
すると,中国人の友人はつぎのように語った。
中国では,仏教用語だと認識している人は少ないとおもう。道(タオ)といえば,だれもがタオイズム(道教)の中心概念を思い浮かべる。だから,道教のことばだとおもっている人が多い。したがってけ,禅仏教のことまで知っている人は少ない。
そして,「平常心,是れ,道」の「是れ」とはどういう意味なのか,と聞かれる。中国語の「是」(シー)は,英語でいえば「be」動詞に相当する。だから,「である」であって,「是れ」にはならないから,と。
ここでハッと気づく。日本語では「平常心,是れ,道」と読んだり,耳にしたりして,なんの矛盾も感じない。しかも,「是れ」という日本語もある。だから,そのまま日本語に読み下すことで,なるほどと納得する。しかし,「是」(シー)は「be」だという。ということは「平常心=道」ということになる。しかも,タオイズムの「タオ」である,と。
もともと,禅仏教は,インドの仏教と中国の道家思想とが融合して生まれた,仏教の新しい宗派のひとつであることを考えれば,タオイズムと禅との親近性があってもなんの不思議もない。むしろ,タオイズムの「タオ」(道)が,仏教のなかに持ち込まれたと考える方が自然である。このことを念頭において,もう一度,日本語で読み下してみる。
「平常心,是れすなわち,仏道なり」。あるいは,「平常心,是れすなわち,禅なり」,と。
ここまで考えが至りついたときに,ふたたび,くだんの大伯父の背後を飾っていた掛け軸「平常心是道」の「文字」がありありと蘇ってくる。それは,いわゆる書家の文字ではない。明らかに,禅僧が書いたものに違いない。どこにも力みがない,平常心そのままの文字なのだ。上手でもない。下手でもない。そういうレベルを超越している文字なのだ。使った筆も,相当に使い古した,穂先がすり減ってバサバサになった筆である。だから,おのずから枯淡の味が伝わってくる。掛け軸が,なにも主張することなく,楚々としてそこにある。しかし,よくみると,いつのまにやらその文字に魅了されていき,虜になってしまっている。身動きがとれなくなってくる。懐の深い,底無しの世界,とでもいえばいいのだろうか。あるいは,これぞ「空」というべきか。
この掛け軸をこよなく愛したであろう大伯父は筆の立つ人であった。それも尋常一様の筆の使い手ではなかった。いまもありありと思い出すことのできる大伯父の書いた扁額がある。本堂(仏殿)の裏側に位置する祖堂(法堂・ほっとう)にかかっていた扁額である。そこには「無二無三」と書かれてあった。それはそれは切れ味鋭い,覇気迫るものであった。仰ぎ見る者に向かって,これでもか,といわぬばかりの迫力に満ちていた。
「二」もなければ,「三」もない。あるのは「一」だけだ。ましてや,「四」の「五」の言うな。真実はたった一つ「正法」のみ。ただ,それだけだ。その「一」に向かって歩む道。「一道」。一道無為心。
しかし,大伯父自身は「若書きの至り」と述懐されていた,と聞く。なるほど,と納得。だからこそ,あの枯淡の味がにじみ出ている「平常心是道」の掛け軸を身近においたに違いない,と。
今回もまた,「平常心是道」の禅仏教的解釈にまで踏み込むことはできなかった。したがって,もう一度,このテーマについては書くことにしたい。今日はここまで。
0 件のコメント:
コメントを投稿